|
『古い自分に死ぬ』
主教から聖職按手式の説教者に指名されまして、大変光栄なことだと思っております。どうか、聖霊の導きによって、私ではなく、主ご自身が語られますように。 井上新司祭と私の接点についてお話しさせていただきます。井上先生を昔から知っていたわけではありません。そういうことなら、私よりももっと適任の先輩諸聖職がおられると思います。彼が聖職志願をするころから、私との接点が生まれます。神戸電鉄で長年勤務された方が聖職を志願されるということを聞き、大変親近感を抱いたわけです。というのも、もっと年齢が後になってからになりますが、私もまた、社会での長い職業経験を経てから聖職志願をしたからです。もっとも、私と違って、井上先生はずっと熱心な信徒でいらっしゃいましたし、お連れ合いのるみ子さんと協力して、こどもたちに対する宣教活動で素晴らしいお仕事をされておられました。第二の接点は、ウイリアムス神学館です。私もウイリアムス神学館で学ばせていただきましたが、井上先生がウイリアムス神学館で学ばれることになったとき、実は私は、そこで教鞭をとることになってしまいました。なぜ駆け出しの私が、神学校で教えることになったのかは未だに明確ではありませんが、おそらく大学、大学院と哲学やキリスト教学を専攻しておりました関係で、キリスト教教理関係の教員として適任だろうということだったのかもしれません。ともかく、井上先生と私は師弟関係になってしまいました。彼はとても真面目で優秀な神学生でした。年齢が20代から60代に広がる学生たちのまとめ役としても、力を発揮されました。そして、第三の接点は彼がプール学院中高のチャプレンとして働くことになったことです。彼の前任者は、他でもなく私でした。私も神学校を修了してから、すぐにプール学院中高、そして堺聖テモテ教会で勤務し、井上先生が私の後任チャプレンとして来られることになったわけです。その引き継ぎに当たって、神学校で特別に時間をとって、何度かともに学んだことを懐かしく思い出します。プール学院中高のチャプレンとして、井上先生は私にはできなかったような新機軸をどんどんと打ち出して、生徒たちに慕われていました。チャプレンが十数歳若返ったわけですから、生徒たちも喜んだことでしょう。 さて、今年の三月に行われた聖公会神学院の卒業式で、植松誠首座主教は、「みなさん、死ぬ覚悟はできていますか?」という問いを投げかけられました。首座主教としてアフリカを訪問したときに、土地の老人から「お前はクリスチャンか?」と問われたことから、キリスト者として、そして聖職として立つということはどういうことなのかを迫られたと言われました。そして、聖職として立つことは、それはそれほど厳しく、覚悟が必要なのだ指摘されたのです。私は首座主教の問いかけを、別な角度から受け止めました。「死ぬ覚悟ができているか?」というのは、必ずしも、「死んだつもりで必死に働け」ということではないのではないか。一生懸命働いていても、古い経験や認識にしがみついていては、何にもならないのではないか、ということに思い至ったのです。聖職として召されるときに、わたしたちがそれ以前の人生で得た古い認識や経験は、いったん脱ぎ捨てなければならないのではないか。言い換えれば、古い自分は死ななければならないのではないか、ということでした。 最近は、神学生の年齢が非常に幅広くなっています。以前は、大学を卒業して間もなく神学院に行った例が多かったようですが、最近は、中高年になってから聖職を志願される方も結構おられます。私は50を過ぎてから聖職志願をいたしましたし、井上先生はずっとお若かったですが、企業での十分な職業経験を経た後に志願されました。よく、「社会経験を積んだ人の方が牧師として良い」というご意見も伺います。また、「社会で学んだ技術や経験を、教会で活かしてもらいたい」ということも聞きます。たしかに、企業や学校で経験を積んで一定の年齢に達した人は、人間関係を処理したり、実務を処理したりすることが、すぐにできるようになるかも知れません。そういう意味で、人生のある段階で聖職志願をして牧師になる人は、それなりの長所をもっているかもしれません。しかし、考えておかなければならないのは、それが一面の真理に過ぎないという点です。私も、献身を決意したとき、「あなたは社会経験があるから、それを活かしてほしい」といわれたことを思い出します。しかし、それは一つの誘惑だと感じていました。ですから、「いいえ、言えるほどの経験はしておりません」とお答えしたものです。 では、何が問題なのでしょうか。それが、植松主教が指摘された「死ぬ」ということだと思うのです。使徒パウロは、次のように教えています。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」これは、もちろんクリスチャンすべてに言えることです。洗礼を受け、キリストにつながれた時点で、古い自分は死に、新しく生まれ変わるということなのです。ましてや、聖職に召され、神と人とに仕えようとする人は、いったん死ななければならない。パウロは別の箇所で、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と書いています。「塵あくた」というところは、以前の口語訳では「ふん土(ど)」となっています。パウロは当時、最高の知識人であり、律法学者でした。ユダヤ・イスラエルの教えを知り尽くし、知り尽くしていたが故に、イエス・キリストを受けいれることができず、キリスト教弾圧の先鋒に立ったのでした。しかし、その古いパウロは死に、使徒パウロが新に生まれます。復活節のこの主日に、私たちはもう一度、死んで生まれ変わるということの意味を噛みしめたいと思うのです。 「新たに生まれる」「生まれ変わる」。それが、大切なことです。今私たちが生きている日本社会には、さまざまな既成観念や価値体系があります。代表的には、社会的・経済的地位でしょう。また、教育や知識もそうです。いろんなことをこなす能力もそうでしょう。その量や質によって、人はいろいろと評価されます。また、習慣や伝統もあります。「このようにしなければならない。」「こうすべきだ」というような考えは、地方や地域、あるいは一般社会では宗教的伝統によって、強固に残っています。イエス・キリストは、当時のユダヤ社会の伝統的価値観を根底から覆されました。差別されている人々や病にかかった人々、女性たち、これらの人々に対して限りない愛の眼差しを注ぎ、いっさいの「隔ての中垣」を取り除いて下さいました。ですから私たちも、さまざまな既成の価値観を脱ぎ捨て、新しいキリストの衣を身に着けなければならないのです。古い自分を脱ぎ捨てなければならないのです。もちろん、それは容易なことではありません。ふと気がつけば、古い自分が顔を出している。古い価値観に振り回されている。そんなことがよくあります。教会の中にも、そうした価値観が浸透しているからです。そのような古いしっぽをみんな引きずっています。それを切り捨てることは容易ではありません。切り捨ててもまた生えてくる。でも、それを「古いしっぽ」と自覚することが大切なのではないかと思うのです。 しかし、聖職に召された者は、さらに先に進まなければなりません。それは、この世に「遣わされた者」であるからです。今日のイザヤ書にあるように、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と神に申し上げた者だからです。イエス・キリストは「わたしは良い羊飼いである」と教えておられます。牧師という言葉は、実はこの「羊飼い」「牧者」から来ています。教役者はキリストではありません。取るに足らない、罪に汚れた人間です。しかし、それでもなお、キリストに従って、キリストに倣わなければならないのです。そういう意味で、わたしたちも「羊飼い」の端くれにならなければならない。教会におられる様々な人々の牧者として、一人ひとりを守り、お仕えしなければなりません。企業や学校や、社会の様々な分野に、実に様々な人々がいたように、教会にも多様な人々がおられます。そうしたお一人お一人を大切にし、その心に寄り添うためには、教役者は謙虚に心を開き、まず耳を傾けなければなりません。そして相手の方と同じ地平に立たなければなりません。使徒パウロは、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。(…)弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。」(Ⅰコリント9:19-22)と書いています。そして、皆様にお仕えするとき、さらにさまざまな宣教の働きを教会で行うとき、そのときに、かつてわたしたち自身が経験した事柄が活かされ、新たに用いられるのだと思います。古い経験をそのまま用いるのではなく、いったん捨て去った経験やスキルが新たな命を与えられて用いられるのではないかと思うのです。死の後にくる新しい命です。本日の旧約聖書イザヤ書で、預言者イザヤの唇がセラフィムの日によって清められたように、わたしたちの持てるものが清められるということです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)これまでの人生の中で得たすべてのものを神に献げるとき、翻ってそれは神の道具になります。人生の比較的遅い段階で献身した者に与えられる唯一の道具かも知れません。若い聖職者には、勢いと元気があります。若い信徒を惹きつける魅力があります。若いときから中高年に至るまで、牧師として経験を積み重ねてこられた先輩聖職には、円熟した信仰があります。私のように、中高年になってからこの道に入った者には、若い元気も、円熟した信仰もありません。しかし、これまでに歩んできた人生のすべてをお献げすることができます。 最後に、今日の福音書の中でイエスさまは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と教えておられます。私たちは、現在教会におられる兄弟姉妹以外にも、多くの人々に気を配らなければなりません。この世の中で、小さくされているすべての人々に仕えるという大切な仕事を与えられています。聖公会のルーツはイギリス国教会にありますが、それは、地域のすべての人々に対して教会が牧会の責任を持つということを意味しています。わたしたちの教会や学校は地域社会にあり、地域社会によって育まれています。阪神・淡路大震災のときには、教会がいかに地域社会に奉仕し、人々に仕えているかが問われました。今また、東日本大震災において、東北教区を初めとする東日本の諸教会は、地域の人々と共に苦しみ、共に起ち上がろうとしています。そこに神がおられ、人々の中に活きて働いておられることを、教会は証ししなければなりません。聖職に召された人々は、とくにその自覚的な証し人とならなければならないと思うのは私だけでしょうか。 井上先生、共に大阪教区の同労者として、また、同じように人生の半ばで献身を決意した者として、さらに、現在は同じ学校という宣教現場に派遣された者として、主にすべてをお献げして歩む喜びを分かちあおうではありませんか。
|
2011年05月08日(日)
No.10
|
|
|
|
<<2011年05月>>
|
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
|
|
|
|
| |
|