2008/7/6 聖霊降臨後第8主日(特定9)
 
旧約聖書:ゼカリヤ書9:9-12
使徒書:ローマの信徒への手紙7:21-8:6
福音書:マタイによる福音書11:25-30
 
「神のもとへ行く」
 
 みなさんは、どんなときに疲れを感じますか。肉体的につらい仕事をしたときでしょうか。それも疲れますね。デスクワークで寝不足が続いたときでしょうか。それも疲れますね。山歩きをしすぎた場合でしょうか。あるいはスポーツのしすぎ、みな疲れますね。人間関係の疲れ、などというのもあるかもしれません。しかし、私の場合、何と言っても、自分が語っていること、なしていることが神さまのみ旨にかなったものであるかどうかに自信が持てなくなったとき、言い換えますと、神さまの方に自分の心が向かなくなったとき、何とも言われぬ不安と疲れとを感じます。芯の底から疲れると言っても良いでしょう。皆さんはいかがでしょうか。そんな経験はないでしょうか。
 神さまは私たち人間を、ご自分に似せて造られました。ですから、神さまとの関係が根本的な関係です。アウグスティヌスの言葉によれば、「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休らうことができません。」ということになります。この関係が崩れ、その関係に外に出たとき、私たちは不安に駆られ、根源的な疲れに襲われます。人の評価や目が気になり、心はうわの空になります。この世の中における自分の位置を気にかけるようになり、落ち着かなくなります。
 先日、この教会の出身であり、聖書の翻訳、研究や、教育の面で大きなお仕事をされました水谷博彦司祭が天に召され、名古屋の聖マタイ教会(主教座聖堂)で通夜の祈りと葬送式が行われました。77歳の若さでしたから、いささか急ぎすぎたという感じは否めないのですが、水谷司祭の生涯は、ひたすら神さまを仰ぎ見て歩んだ一生のように思われます。幼いときにこの教会のすぐ前の阪堺電車のレールの上で電車に轢かれて両足を失い、それいらいずっと義足をつけて生活されておられました。そのためもあるのでしょう。負けず嫌いで、何事につけ勝つまで徹底的に練習され、野球もお上手、卓球も強かったそうです。聖公会神学院では野球のチームに加わっておられたそうです。先生は、常に、神さまの方に顔を向け、神さまによって差し出された仕事に忠実に取り組まれました。教会でのお仕事はあまりされなかったようですが、最後には神戸国際大学の理事長として、大学の移転と新築という大仕事を立派にやり遂げられました。お母様が東光学園のふれあいの家で亡くなってからはこの教会にも時々お見えになり、じっと腕組みをして私の説教に耳を傾けてくださっていたお姿が印象的でした。後輩であるこの私をとてもかわいがってくださり、今から2年前に、理事長の役職をお引きになるときに、理事長室にあった図書と書類一式を段ボール25箱に詰めて牧師館に送ってこられました。まだ完全には整理ができていない状態です。それも遺品となってしまいました。わたしは、水谷司祭の生涯の中にも、神を見つめ、その命令に忠実であろうとした一人の働き人の姿を見た思いがいたしました。
 イエス・キリストの受難の象徴である十字架は、またわたしたちの信仰のシンボルでもあります。縦と横の二本の棒に、わたしたちの信仰のあり方が表されていると言われます。縦の棒は、神と人間の関係、そして横の棒は人と人の関係です。イエス・キリストは、「最も重要な戒めは何か」と問われたときに、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」神を愛し、隣人を愛する。「敬神愛人」「敬神愛隣」というのは多くのキリスト教学校、施設のモットーとして掲げられています。大切なのは、神を愛するということを軸として、この二つの戒めが堅く一つに結びついているということです。神を愛することを抜きにして、人を愛することはできず、人を愛することを抜きにして神を愛することはできないのです。わたしたちは、まず、神と自分との関係を正しいものにし、そのことと結びつけて、横の関係、つまり、人と人の関係を正していかなければならないのではないでしょうか。
 しかし、そのことは、わたしたち人間にとって簡単なことではありません。とくに、人と人との関係には、神との関係と結びつかない場合、容易にサタンが入り込む余地が生まれます。それは、私たちは罪の法則に捕らえられているからです。パウロは今日の使徒書、ローマの信徒への手紙7章の中でこう書いています。「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」少し前のところでは、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」とも書いています。二人の人間が会えば、争いが始まると言われています。悲しいことですが、それは人間の一つの現実です。相手よりも優位に立とうとする衝動。相手を支配したいという衝動。相手の言葉や態度に腹が立ち、沸き上がる怒り。自慢や見栄。自分の苦しみだけを相手にぶつける。相手の話を取ってしまって自分の思いだけを訴える。そんなことは、わたしたちが日常的に経験していることではないでしょうか。しかし恐ろしいことに、その延長線上に争いと諍いとが生まれ、国家間に拡大すると戦争が生まれるのです。しかし、わたしたちは同時に、イエス・キリストの福音によって別の道を知らされています。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」と、パウロは教えているのです。人間関係の泥沼に陥りそうになったとき、ふと仰ぎ見ればそこにはイエスさまが立っておられる。じっとわたしの方を見つめておられる。わたしたちはその眼差しを感じることができるのではないでしょうか。クリスチャンであるということはそういうことだと思います。そのとき、わたしたちは神さまとの関係を正しいものに整えることができ、互いに愛へと導かれます。
 今日の福音書には、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」という、有名なイエスさまのみ言葉が記されています。最初に私は、「神さまの方に自分の心が向かなくなったとき、何とも言われぬ不安と疲れとを感じる」と申し上げました。人と人との間の関係に目を奪われ、神さまとの関係を忘れてしまうときも、やはり、心の底から疲れを感じるのではないでしょうか。そんなとき、わたしたちは、イエスさまのもとへ行かなければなりません。そうすれば、神との関係と結びついた人と人との関係を創り出すことができます。自分の疲労感や不安感、焦燥感を見つめてみましょう。もちろん、身体の医学的点検も必要です。しかし、もしも、神さまとの関係を見失っているということがあるならば、その根本的な問題を解決しなければならないと思います。来主日の旧約聖書であるイザヤ書55章にも、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。」とあります。まず、イエスさまのところへ、神さまのところへ行くことが大切なのです。そこで与えられる恵みは、無償の恵みです。イエス・キリストがわたしたちの罪を共有して十字架上に死に、神がそのキリストを復活させてくださったことによって与えられた無償の恵み、一方的な愛です。しかし、わたしたちがそれを求めて、神さまのところへ行かなければ、心からそれを自覚し、今ここで平安と喜びとを得ることはできません。しかも「イエスさまのところへ行く」というのは決して難しいことではありません。ただ心を向け、イエスさまのご生涯に思いを馳せ、素直な気持ちでイエスさまを受け入れさえすればよいのだと思います。だから、今日の福音書でイエスさまは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と祈っておられるのではないでしょうか。賢い人は自分を誇り、他者を支配しようとする罪をより深く持っているとも言えます。幼子のように、イエス・キリストの恵みを受け入れましょう。人と人との関係だけに目を奪われるのではなく、神さまのもとに共に行きましょう。それが、教会の本来のあり方ではないでしょうか。教会における人と人との関係は、神との関係によって支えられ、神によって祝福されるべきなのです。
 
<祈り>
 恵み豊かな主よ。わたしたちは、毎日の思い患いや人間同士の関係から疲労感を憶え、平安を得ることができないことがあります。どうかそのようなときに、主よ、わたしたちにみ子イエス・キリストの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というみ言葉を思い起こし、あなたに心を向ける力をお与えください。そして、あなたがイエス・キリストを通じてわたしたちにお与えくださった無限の恵み、罪の赦しという事実をわたしたちが幼子のように受け入れ、あなたとの関係に基礎づけられた人と人との交わりを築くことができるようにお導きください。