2006/05/07 復活節第4主日
旧約聖書:エゼキエル書34:1-10
使徒書:使徒言行録4:32-37
福音書: ヨハネによる福音書10:11-16
 
良き羊飼い
 
 今日の福音書のテーマは「良き羊飼い」です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」というイエスさまの有名なみ言葉が記されています。ここで「羊飼い」とは何よりも先ずイエスさまご自身、そしてイエスさまと一体である神様ご自身です。そして羊とは人間すべて、つまり私たち自身です。この羊飼いはすべての羊を愛し、羊のために命を捨てさえする。そして、その羊とは、現在囲いの中にいる羊だけではなく、すべての羊を指している。どの羊も皆、その羊飼いのもとに集まってくる。そうイエスさまは宣言されておられるのです。
 この羊飼いと羊の間の関係には、特別なものがあります。一つは、羊飼いはすべての羊を知っているということです。こんな話があります。ある旅行者がイスラエルで、一人の羊飼いの少年に会いました。たくさんの羊を連れていたので、「一体何頭いるの?」とその旅行者は尋ねました。すると羊飼いの少年は「分からない」と言うのです。ずいぶん無責任な話だなあと思うと、少年は、「でも、みんなの名前と顔は分かるよ。」と答えました。メリーちゃんやユキちゃんや、ゴンや…。わたしはこの話を聞いて、アルプスの少女ハイジとペーターが一頭ずつの羊に名前を付けているのを思い出しました。羊飼いの少年は、全体でひっくるめて何頭、という数え方はしないのです。それは数量的、統計的な見方です。そうではなく、羊飼いは一頭、一頭の羊を大切にするのです。メリーちゃん、ユキちゃんが大事なのです。
 もう一つ大切なことは、どの羊もみな羊飼いの声を聞き分けることができるということです。その羊飼いの少年は、羊を呼ぶときには不思議な声を出します。すると羊は皆、彼のもとに駆け寄ってくるのです。他の人がそれをまねしてもだめだそうです。羊はみな、羊飼いの声を聞き分け、その羊飼いの呼びかけに答えます。
 この羊飼いの羊の関係は、いわば人格的な関係、神様と私たちとの関係を表しています。神様は私たち一人一人をご存じで、その心の中までご存じなのです。そして、私たちはその神様の呼びかけに応えて、教会に集められ、またそれぞれの働き場に散っていくのです。それが教会の姿であるということができます。神様と私たちの関係において、私たち一人一人は神様によって認められ、保護され、祝福されています。そして私たちクリスチャンは、幸いなことにそのことを知っています。そういう意味で、私たちはすでに救われているのです。私たちがすべきことは、ただ、私たちが一人一人受け入れられているというその事実を受け入れることだけです。先ず私たちは、そのことに対して喜びと平安、慰めを見いだしたいと思います。感謝をしたいと思います。
 さて、イエスさまは復活されたとき、ペトロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と三度命じられています。ヨハネ福音書21章15節以下です。イエスさまを見捨ててガリラヤに帰ってしまったペトロの前に復活のキリストが現れ、「シモンよ、わたしを愛しているか。」と3度尋ねられます。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。ここには、イエスさまが三度尋ねることによって、十字架にかかるイエスさまをペトロが三度「知らない」と言った罪を赦すという大切なことが含まれているのですが、このときに、イエスさまはペトロに対して「わたしの子羊を飼いなさい。」「わたしの羊の世話をしなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と命じます。ペトロは弟子の代表格ですから、イエスさまは弟子たちに、牧者としての役割を託したということができます。そしてペトロは初代ローマ教皇と言われていますので、この命令は、キリスト教会のすべての聖職者に引き継がれている訳です。教会で職務に就く聖職者を牧師、牧する者と呼ぶのはこのためです。私はこのイースターに、堺聖テモテ教会の牧師という大それた職務を主教様からいただいたわけですが、全く、身の引き締まる思いでおります。
 では、牧者であるというのはどういうことなのでしょうか。その核心をイエスさまは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と指摘しておられます。狼やその他の危険が迫ったときに、羊飼いはその羊を守って、あえて命を危険にさらすということです。そのような立派なことが、この私にできるでしょうか。自信はありません。ただこのような私でも、神様、用いてください、と祈るばかりです。しかし、普段からそのような危険が絶えずあるわけではありません。差し迫った危険がないときの羊飼いの仕事、それは一言で言えば「奉仕」「仕える」ということではないかと思います。本日の旧約聖書のエゼキエル書には、このような言葉が見られます。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」これは当時のイスラエル王国の指導者たちに対する糾弾の言葉です。裁きのみ言葉です。それは、「仕える者」「奉仕する者」とは逆の、支配し、君臨し、虐げる者の姿です。それに対してイエスさまが示された牧者の姿は、奉仕する者の姿でした。そして、イエスさまご自身がその奉仕を徹底されたその先に、十字架がありました。初代カンタベリー大主教のオーガスティンをイングランドに派遣した教皇グレゴリウスは、「キリストの僕たちの僕」という名称をローマ教皇に与えたと言われています。教会の頂点に立つと言われる教皇はまた、僕の中の僕、僕に仕える僕であるというのです。
 私は昨年の9月まで、「司祭」ではなく「執事」という職位におりました。日本キリスト教団や他のプロテスタントの教会では、「執事」というのは信徒の職位なのですが、聖公会では「執事」は聖職位の一つになっています。執事というのは、もともとのギリシャ語でディアコノスと言います。これは、ディアコニアという言葉から来ています。給仕とか接待とか、奉仕とかいう意味です。古代教会では、聖餐や愛餐会の時に給仕をしたり、食事を配ったりするのがディアコノスの仕事でした。それは、神さまの恵みを見える形で人びとに届ける、この世界との橋渡しの役割とも言うことができます。このディアコニア、つまり奉仕というのは、牧師の最も基本的な姿だと、ある先輩聖職から教えられました。司祭というのは、執事職の上に司祭職を着るのだと。
 「人に仕える」こと、それは人の上に立って、慈悲をたれたり、同情したりすることではありません。むしろ、仕える相手から学び、恵みを受けることでもあります。以前にもご紹介をしたことがあると思いますが、マザーテレサ、ブラザーロジェ(テゼ共同体)と並んで現代の三聖人の一人と言われ、ラルシュ共同体という知的障害者の共同体を始められたジャン・バニエさんは、まさに「仕える人から学ぶ」ということを実践された一人です。ラルシュとはフランス語で「箱舟」という意味です。知的障害者の共同体で、これを始められたのがローマカトリックの信徒ジャン・バニエさんでした。現在オーストラリア、ブラジル、カナダ、インドなど29カ国122カ所に広がっています。この共同体には世界から若者たちが集まってきます。ジャン・バニエさんは、世の中から排除されている人々、例えば知的障害者を受容することは、それらの人々のための特別な施設をつくったりすることだけを意味しているのでもなければ、障害者たちがいわゆる健常者のように様々な活動ができるようにするべきだということだけを意味しているのでもない、と言います。彼はこう言うのです。「社会の片隅に追いやられている人たちの受け入れというとき、私は、その人たちがみんなに貢献できる恵みをもっているということを言いたいのです。除け者にされている人たちはある価値を実践している。それは、私たち全員が、真に人間になるために、見いだそうとして自ら実践する必要のある価値です。単に除け者にされた人たちのために「善行を行う」ということではなく、その人たちが与えてくれる恵み(命の糧)を受け取るべく、その人たちに心を開いて自分をさらけ出すということです。それは言い換えれば友達になるということです。私たちが生涯のある人たちを生活の中に受け入れて心からの関係を築いていくならば、その人たちは私たちを内側から変えてくれます。私たちに集団としての新しい生き方、歩み方を示してくれるのです。」いかがでしょうか。ジャン・バニエさんはここにこそ、すべての奉仕の核心があると教えているのではないでしょうか。奉仕する相手と共に生きることによって、奉仕する者もまた豊かにされる、命の糧を受け取ることができるということです。
 さて、大切なことは、そうした奉仕の働きは牧師の仕事であるだけでなく、教会そのものの役割でもあるということです。私たちは全員、イエスさまの弟子であるわけですから、「私の羊を飼いなさい」というイエスさまの命令は、私たち一人一人、皆さん方一人一人に与えられた命令でもあるのです。そして、その羊は、現在、囲いの中にいる羊、つまり教会のメンバーだけにはとどまりません。イエスさまは教えておられます。「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」つまり、牧師はもちろん、教会全体は、この世の中のすべての人々を導き、またそれらの人々に仕えなければならないということなのです。テモテ教会について言えば、この堺、そして諏訪ノ森におられるすべての人々、とくに様々な苦しみや悩みを持っておられる人々(貴方自身がその一人かもしれません。)に仕えなければならないということなのです。教会は、また一人ひとりのキリスト者は、現代の病める社会の中で、人びとに奉仕し、その奉仕を通じて、イエス様の愛を証しする存在でなければならないのです。そしてそのような働きを通じて、教会もまた霊的に豊かにされ、命の糧を得ることができるのではないでしょうか。その奉仕の業は、ないよりも先ず、人々のために祈るということを通じて神さまに受け入れられます。私たちは人々のために真剣に祈ることから始めなければならないと思います。そのような祈りの中で、さらに奉仕の具体的な姿を通して、現代においてどのような歩みこそがイエス様の示される道なのかを皆さんと共に考えて行きたいと、私は思っています。