2006年8月13日 聖霊降臨後第10主日(特定14)
 
旧約聖書:申命記8:1-10
使徒書:エフェソの信徒への手紙4:30-5:2
福音書:ヨハネによる福音書6:37-51
 
神が与える訓練
 
 本日の旧約聖書である申命記は、エジプトからイスラエルの民を導き出したモーセが、約束された土地を前にして民全員を集め、これまでの経験を思い起こし、神の戒めに忠実であることを再度説き起こす、いわばモーセの遺言と言っても良い文書です。「申命記」という難しい署名はいったい何だろうとお思いの方もおられると思いますが、これは漢訳聖書からとられたもののようで、「第二の律法」「繰り返し命じる」という意味です。ギリシャ語訳の旧約聖書でも「デウトロノミウム」、つまり「第二の律法」というタイトルがついており、これが英語に取り入れられて世界中伝えられたようです。後のヨシヤ王の時代、エルサレム神殿の修復の際に律法の書が発見されたことが、列王記二22章に記録されています。ヨシヤ王はこの書にもとづいて、堕落していたイスラエルで宗教改革をおこなったのですが、このとき発見された律法こそ申命記であると言い伝えられています。まさに「第二の律法」です。
 申命記には大きな特徴があります。それは、過去の歴史を現在に生かす、「現在化」という視点です。至るところに、「今日」という言葉が出て参ります。「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。」というところから今日の箇所は始まっています。今まで様々な形で示してきた律法を、今日もう一度思い起こし、現在聞いたものとして実行しなさいという命令です。あの有名な十戒もまた、5章で「今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。」という形で再度、イスラエルの民に与えられているのです。そして、呼びかけの対象は、「あなたたち」であり「あなた」です。ですから、申命記を読む人はみな、自分自身に対して、今、神が呼びかけている、命じている、そんな感じに襲われるのです。
 今日の箇所で、モーセは、人々がエジプトを出てから経験した40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、「神はあなたを訓練する」という重要な考えを明らかにしています。イスラエルの民は、今から3300年ごろ以前に、奴隷としてエジプトに囚われの身となっていました。神はそれをご覧になって、モーセを使わし、エジプトの地から導き出されたのです。エジプトから約束の地カナンまでは、そう遠い距離ではありません。すぐにでも、カナンに入ることが出来たはずです。ところが、神はそれを許されませんでした。カナンにはすでに先住民が居て、簡単に入り込めなかったという事情もあります。しかし、40年にわたって荒れ野をさまよわせたのには、意味があった。それはイスラエルの民を訓練し、鍛えるためであった、というのです。神はときとして私たちを試し、苦しめ、飢えさせることがある。それは、私たちを試し、訓練し、私たちが傲慢になることなく、大切なことを学ぶようにするためだと、モーセは教えているのです。ここでは特に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということを民に知らせるためであったと書かれています。(ちなみにこの言葉は、イエスさまが荒れ野でサタンに誘惑され、それを退けるときに言われた言葉です。)
 私たちの人生にも、それぞれ思い当たることがあるのではないでしょうか。思い通りに事が運ばす、それどころか、失敗や苦しみの連続で、神を呪いたくなることすらあるのではないかと思います。イスラエルの民は出エジプトの途上で、飢えや様々な困難にあって、モーセを恨み、神を呪い、「エジプトにいた方がましだった」とさえ言うのです。私たちも人生の中で、なぜ神はこんな目に自分を遭わせるのか、と思いたくなることがしばしばあります。私自身も、50歳を過ぎてから聖職に志願し、ずいぶん遠回りをしてここまで来たな、と思うのです。それは私自身の問題なのですが、どうして神はもっと早く呼んで下さらなかったのか、と恨みに感じることもないではありません。青年時代には聖職を志していたのに、なぜ、違う道を歩ませられたのか、なぜ、すぐに召し出して下さらなかったのかと思うのです。つい先頃、九州教区で2名の特任聖職(比較的熟年になってから聖職志願をされ、今のところは、仕事を他に持ちながら聖職の務めを果たしておられる方)のためにスクーリングがあり、あろう事かこの新米の私が講師として招かれたのですが、その中で、「あなたはなぜ、教会生活から離れ、長い間かかって聖職を志願されるようになったのですか。」という質問が出されました。50代60代になって聖職志願をされた方々ですから、ある意味で、共通した思いがあったのだと思います。私は改めて、自分自身その問いに向き合わなければなりませんでした。そして、神は私に、遠回りをさせることによって、多くの大切なことを教えて下さったということに改めに気づくことが出来ました。
 神が私に教えて下さったこと、それは、一つには、様々な仕事、様々な生活をさせて下さることによって、人生というものを少しでも学ばせて下さったということです。私がかつて住んでおりました街では、家の周りには生活に困った人、造船業や漁業の不振で仕事がなく昼間からお酒浸りになる人たち、家庭から蒸発する両親たち、取り残された子どもたち…そんな出来事が次々と起こりました。古い街で、比較的貧しい人たちが暮らしていた地域だったからです。私も、妻も、子どもたちも、そんな人々との交わりの中で生活を送ることが出来ました。悲しいこともありましたが、それは一つの恵みでした。
 二つめには、神さまは私の傲慢さを戒めて下さったということです。私は20代の始めに、教会のあり方に疑問を抱き、自分こそが正しい、他は間違っているという傲慢な思いをもっていました。しかし、そのような思いをもっている限り、教会の人々はおろか、地域の人々とも心から交わることは出来ない。また、互いに相手の弱点のみをあげつらい、長所を認め合うことが出来ないのだということに気づくことが出来ました。それは、神学の用語では「自己義認」と言います。神によって義と認められるのではなく、自分で自分を正しいとする傲慢な態度のことです。私は、この自己義認ほど恐ろしいことはない、と最近もつくづく思うのです。ちなみに、現代における戦争の根底には、この思想があるのではないかと思っています。傲慢な自己義認の背後には、サタンが潜んでいます。エフェソの信徒への手紙の4章26、27節には、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」と書かれていますが、私たちは自分を義とし、相手を非難し、怒りを覚えるとき、その怒りにサタンがつけ込むということを知っておかなければなりません。(ちなみに、この夏にアニメーションとして上映されています『ゲド戦記』のテーマの一つは、青年期における得意と傲慢の絶頂で、自分の暗黒の面、つまり「影」を呼び出してしまうということです。)そして私は、それに気づいたからこそ、神の民である教会に戻り、共に歩むということを大切にしようと思ったのです。
 三つ目には、パウロが指摘しているように「万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)ということでした。私たちはよく「神さまのご計画」ということを言いますが、これまでの人生の中で味わったざまざまな経験が、その後の人生の中で生きてくる、生かされてくるということだと思います。悲しみを味わったからこそ、人の悲しみが分かる(すべて分かると言うことではありません。少なくとも分かろうとする姿勢に立てる、ということです。)失敗したことがあるからこそ、失敗のつらさが分かる、またそれを成功に転じる希望も分かる。生活の苦しみを味わったことがあるからこそ、その苦しみが分かる。そういうことではないかと思うのです。私は、まだ本当に未熟者ですが、少しでも神さまはそうしたことを経験させ、それらがすべて今の「牧師」という仕事に生かされるように配慮してくださったのだ、と思えてなりません。
 東京教区の大先輩であります速水敏彦司祭のお話の中に、「マイナスの時には積極的な意味がある。」という言葉があります。それに関わって私の知り合いの一人のお医者さんのお話をします。彼はずっと定年まで病院に勤務していたのですが、定年後、自分で独立して医院を開業することにしました。駅前に大きなビルを借り、診療所を始めました。立派な診療所です。交通の便も良く、環境も申し分ありませんでした。患者の出足も良く、始めは好調に進んでいるかに見えました。しかし、落とし穴がありました。信頼していた職員が病院のお金を横領して蒸発し、そのために倒産してしまったのです。莫大な借金が残り、彼は預金はおろか、家や家財いっさいを差し押さえられ、破産宣告を受け、夜逃げというのでしょうか、彼も家族と一緒に蒸発してしまいました。数ヶ月連絡が取れず、その後、やっと弁護士を雇って法的な破産措置を講じ、返済の目途がある程度立って、大阪に戻ることができるようになったとのことでした。そのとき、彼の奥様が妻に次のように語ってくれました。以前妻は彼女に、速水司祭のお話を集めたコピーしてお渡ししていたのですが、あちこちを転々としている間に、その奥様はそれを読み、感動した言葉をいくつか書き留めておいたというのです。その一つが、「マイナスの時には、積極的な意味がある」という言葉でした。「マイナスの時には、積極的な意味がある。」「どうして今、私たちはこんな目にあわなければならないのだろう、と思っていたが、その言葉にふれた時、その意味が分かった。」こんな風に仰いました。また、「自分が躓いて、やっと、他人の苦しみを理解できるようになった。」とも仰いました。
 8月15日は終戦記念日です。日本という国とそこに住む私たちは、大変大きなマイナスの経験をしました。アジアの多くの人々を苦しめ、また日本国民も苦しみを味わいました。今日の申命記の「過去の経験を忘れず、現在の戒めとする」というテーマからみれば、私たちは大きな恵みと戒めとを与えられているということができるでしょう。二度と再びあのような戦争を繰り返さない、繰り返させない、そのような決意を日本国民はしてきたからです。それが今ではいささか揺らいできています。私たちはもう一度過去の経験を「現在化」し、戦争を二度と許さないという気持ちを新たにし、そのために、教会だけでなく、人々の大きな祈りの場を作っていくことが必要ではないでしょうか。
 
<祈り>
 主よ、あなたは私たちに様々な試練を与えることにより、私たちを訓練し、謙虚になってあなたのみ心を悟り、あなたのみ栄えのために働くことが出来るようにしてくださいます。どうか私たちが苦しみの中にあるとき、私たちを支え、勇気づけると共に、その中から本当に大切なことを学ばせてくださいますように、私たちに真の知恵をお与え下さい。そして、人生の紆余曲折の中から希望の光を見いださせてください。8月15日は日本の終戦記念日です。どうか私たちが、アジアの隣人にも、また私たち自身にも大きな苦しみを与えた戦争の愚かさを悟り、二度と戦争を起こさない、起こさせない勇気と祈りの心とをお与え下さい。