2007/10/7 聖霊降臨後第18主日(特定22)
 
旧約聖書:ハバクク書 1:1-6, 12-13, 2:1-4
使徒書:テモテへの手紙二 1:6-14
福音書:ルカによる福音書 17:5-10
 
私たちに委ねられているもの
 
 まず、今日の使徒書であるテモテへの手紙から学んでいきたいと思います。この教会の名前にもなっていますテモテというのは、初代教会の偉大な指導者で、パウロの良き協力者でした。使徒言行録によりますと、テモテの父はギリシャ人で母はユダヤ人でした。テモテはパウロの第二回宣教旅行、第三回宣教旅行に同行し、さらに、マケドニアなど、パウロがすでに宣教活動を行った場所に派遣されて、指導に当たっているようです(Tケサロニケ3:2、使徒19:22等)。この宣教旅行の間に書かれたと想定されるコリントの信徒への手紙二からも、テモテがパウロのよき協力者であったことがわかります。ここではパウロはテモテをコリントの教会に派遣し、その指導に当たらせようとしているのです(2コリ4:17-18)。
 テモテへの手紙というのはパウロが弟子のテモテに充ててさまざまな牧会上の問題について記した手紙とされていますが、実際には、もう少し後代の著作であるようです。とくに、教会の中のさまざまな職務についてかなり具体的に記されていますので、教会がある程度形を取ってきた時代のものではないかと言われています。その中で著者(パウロとされています)は、お祖母さんのロイス、そしてお母さんのエウニケ、つまり以前の訳ではユニケの信仰をほめ、テモテにもそれが引き継がれていると言います。そして、「わたした手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」ということについて書いています。のちの伝承によれば、テモテはエフェソス(エペソ)の司教(聖公会の呼び方では主教)になったとされ、15年間エフェソスの教会を指導し、異教徒によって殺害されて殉教したとされていますので、これはパウロをエフェソスの司教にしたときの按手だとする解釈もあります。その伝承が正確なものかどうかは不明ですが、いずれにせよ、パウロがテモテに手を置いて、教会の指導者に任じたことはこの文章から分かります。これが後に、教会の聖職制度に発展していくのです。
 今日の使徒書の中で、パウロは、「私に委ねられているもの」と言い、「わたしから聞いた健全な言葉を手本にしなさい」「あなたに委ねられている良いものを、聖霊によって守りなさい」とテモテに語っています。ここで委ねられているもの、とは一体なんでしょうか。古代の教会における信仰の発展を研究している人の間では、それは具体的には何らかの信仰箇条ではなかったかと言われています。例えば、コリントの信徒への手紙一の15章にある「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」というような信仰箇条の原型のようなものではなかったかと言われています。こうした簡単な言葉が礼拝の中で繰り返し語られ、やがて、使徒信経やニケア信経のような古代教会の信仰箇条に発展していくのです。このような信仰箇条は大切なものとして、世代から世代へと次々と伝えられていったに違いありません。そして、それは今、私たちのもとにも大切なものとして伝えられているのです。私たちは使徒信経やニケア信経を唱えるとき、そのような長い歴史の中を伝えられてきたものとしてその重みに思いを馳せなければならないのではないかと思います。
 では、パウロはテモテにそのような信仰箇条を守ることだけを要求したのでしょうか。もちろん、単に言葉としてそれを守ることだけを求めたとは思えません。パウロは、「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」と教えていますが、私たちはある種の宗教的な業として使徒信経やニケア信経を唱えているのではありません。そこに語られているイエス・キリストの愛の出来事に思いを馳せて、十字架上でのイエスさまの犠牲によって私たちを救ってくださった神の愛に感謝し、神さまの救いのご計画を信じて、その信仰に生かされてこの世界でイエスさまの弟子として生きていく気持ちを新たにするのです。パウロはテモテの素質を高く評価しつつ、その働きはあくまでも神の恵みによるのだと強調しているのです。
 今日の福音書の中で、イエスさまはそのことを明快に教えています。それは僕のなすべき本分という譬えで語られています。畑を耕すか羊を飼うかする僕がいて、一日の仕事を終えて帰ってきたとき、「ご苦労様、すぐに食事をしなさい」という主人はいない。引き続き夕食の用意をさせ、給仕をさせてから、やっと食事をさせるのだというたとえです。だから、私たちも自分の務めを果たしたからといって、それを誇るべきではない。「ただしなければならないことをしただけです。」と言いなさい、とイエスさまは語っておられます。この話には抵抗を感じる方もおられるかも知れません。こんな奴隷のような人間に譬えるなんてけしからん、と思う方もおられるかも知れません。しかし、それを神さまと私たちの関係に置き換えて考えてみたらどうでしょう。私たちが神さまから与えられている仕事、それは何でしょうか。イエスさまは、「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じておられます。それは神さまの要求です。私たちがその要求、つまり人を愛するという掟を守ったからといって、「神さま、私は今日、人を愛しました。こんなに良いことをしました。そのご褒美をください。」と主張できるでしょうか。それは、自分の正しさを誇ったファリサイ派と同じことになりはしないでしょうか。私たちは最善の努力をしても、なかなか神さまの求めに応えることはできません。むしろ「神さま、お赦しください。今日私は人を愛することができませんでした。どうか、人を愛せるようにしてください。」と一日の最後に祈ることが多いのではないかと思うのです。ですから、一日のうちに人を愛し、人を赦すことができたなら、それは神の恵みによるものであり、私たちはなすべきことをすることができたことを感謝しなければならないのではないでしょうか。
 さらに、イエスさまは信仰の力について教えています。有名な「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」という言葉がそうです。この言葉は、すこし唐突な感じがしますが、実はその直前に、赦しの命令が語られていることから理解する必要があると思います。直前には、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」というイエスさまのみ言葉があるのです。私たち人間には、人を赦すことがなかなかできません。人を赦すには、深い信仰の力が必要です。自分が憎んでいる人と出会うことすら、人間には苦痛です。しかし、敢えてそのような人びとと出会い、赦しの言葉をかけること。それには、大きな勇気が必要でしょう。「神さま、〜さんを赦すことが出来ない私をお赦しください。私に、人を赦す勇気をお与えください。」と祈らなければなりません。そして、神の恵みによってそれができたとき、私たちにも神の赦しが訪れ、心の平安が訪れます。そのような信仰。それはまさに、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じる信仰です。強さの信仰というのではありません。むしろ弱さの信仰です。自分の弱さを徹底的に見つめ、神さまにその赦しを祈り、勇気を願い求める信仰です。この祈りは、神さまに自分の要求を押しつける祈りではありません。ハレスビーというルター派の牧師は、「祈りとは、心の扉を開いてイエスさまをお迎えすることです。」といっています。それは自分の弱さをさらけ出し、神の恵みに素直になり、それを受け入れることです。
 テモテがパウロから委ねられたもの。それは、キリスト教の教えというだけでなく、神の前に誠実に、謙虚になり、絶えず祈り続ける心だったのではないかと、私は信じています。
 
<祈り>
 恵み深い主よ。あなたは、私たちにイエス・キリストにより、救いへの道を示し、それを使徒たちを通じて、私たちにも伝えてくださいました。どうか私たちが、その信仰を守り、謙虚な気持ちで、あなたの命じられたことを行い、つねに自分の弱さを知り、あなたにより頼むことができますように、