2007/1/21 顕現後第3主日
 
旧約聖書:ネヘミヤ記8:2-10
使徒書:コリントの信徒への手紙一 12:12-27
福音書:ルカによる福音書4:14-21
 
ちむぐりさ
 
 先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙の12章は、とても有名な部分です。身体はさまざまな部分から成り立っていて、お互いに依存し合い、必要とし合っており、補い合っている。そして、全体が一つに組み合わさって身体を構成している、という趣旨の話です。実はパウロのこの言葉の背景には、深刻な教会の現実がありました。コリントという町は当時、商業の中心地として非常に栄えた、いわば大商業都市、大消費都市でした。もちろん、先進的な文化や科学も発達していたようですが、同時にそういうところに特有の、腐敗した文化も蔓延っていました。そのような背景を持つコリントの教会には、複雑な問題がありました。一つは、様々な派閥が形成され、互いに対立しあっていました。私はパウロにつく、私はアポロ(古代教会の伝道者)につく、あるいは私はペトロにつく、などと言い合って、互いに争っていたようです。また、「霊的な賜物」を与えられていることを誇り、霊的熱狂主義で教会を支配しようとする人々がいました。彼らは「聖霊」ということを非常に狭く理解し、熱狂的な叫びだけが霊的賜物であると主張していました。それに対してパウロは、霊の賜物は多様であって、知識や信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言(他の人には分からない不思議な言葉)を語る力、その異言を解釈する力など様々な形であらわれるのだ、とパウロは教えています。現代で言うならば、音楽が上手な人、お料理が上手な人、聖書の朗読が上手な人、子供と遊ぶのが上手な人、お祈りが上手な人、また、そこにおられるだけでみんなが励まされる高齢者の方々、そうした様々な賜物が私たちには与えられている。それらを互いに認め合い、受け入れあって、一つの体の様々な部分として互いに助け合うべきだ、とパウロは力を込めて教えているのです。そのことは先主日に読まれた箇所に詳しく書かれています。さらにもう一つの深刻な問題は、霊的熱狂主義を振りかざす人々が「完成者」と自ら名乗り、他の人々を軽蔑していたという事実です。彼らは自分たちは優れている、いわゆる「霊的な賜物」持たない人々は劣っているとして、教会の中で支配的な地位を占めようとしていました。また、弱い人たちはそうした現状に不満を持つものの、その不満は単なるつぶやきとなってあらわれていました。「どうせ、私なんて教会にはいらない」と言って教会から離れていく人々もいました。パウロはそれを、手と足、目と耳の関係に例えています。足は手のように器用ではありません。耳は目よりも目立たないかもしれません。しかし、足がなければ歩けません。耳がなければ聞こえません。どちらが優れているとはいえず、どちらが不要だとはいえない。パウロはそう言って、「自分は体の一部分ではない」という、弱い人たちの不満をたしなめます。そして同時に、「お前はいらない」という強い人々、「完成者」と自称する人々を批判するのです。みんなが必要なのだ。キリストの体である教会において不要な人は誰もいない。一人一人が、かけがえのない存在なのだ。それがパウロの主張なのです。
 そして、もっと大切なことがあります。それはパウロの次の言葉に示されています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」体のぞれぞれの部分は、苦しみや喜びを分かち合い、共に苦しみ、共に喜ぶ。ここに、教会とは何か、イエス・キリストの福音とは何か、という本質的な事柄が含まれていると思うのです。イエスさまは、重い皮膚病にかかった人に出会ったとき、「はらわたが千切れる」ほどの憐れみを覚えられました。英語で憐れみのことをcompassionと言いますが、それはpassion (受難)を共にするといみであると言われています。イエスさまの憐れみは、まるで同じ体の部分のように、相手の苦しみや痛みを感じ取る、分かち合うものなのです。沖縄の言葉で、「ちむぐりさ」(肝苦りさ)という言葉があります。「胸が痛い」、「内蔵が苦しい」ということなのですが、「可哀想」という言葉としてもよく使われるようです。しかしそれは単なる同情ではなく、「共に感じる」「共に分かち合う」という意味なのです。先般お亡くなりになった灰谷健次郎さんという児童文学者の有名な作品「太陽の子」の中にもこの言葉が登場します。「太陽の子」というのは小学校六年生のふうチャンという女の子を主人公にしたお話です。「ふうチャン」の両親は沖縄の出身で、「てだのふあ・おきなわ亭」という沖縄料理店を経営しています。物語は「太陽の子」のように明るい「ふうチャン」が、お店に来る様々な人と出会って、その中で苦しみ、悩んで成長してゆくお話です。そのお話の中で、灰谷健次郎さんは、「ちむぐりさ」について、ある校長先生の体験を紹介しています。場所は沖縄・渡嘉敷島の沖合にある小さな島、前島です。現在は無人島になっていますが、昔は人口270人、そして学校もありました。時は、第二次世界大戦末期、アメリカ軍が沖縄に迫っている頃でした。その小さな学校の校長先生の名前は比嘉儀清(ひがよしきよ)と言いました。47歳でした。ある日、畑に出ていた農民から連絡がありました。「兵隊がやってきて無断で測量を始めている」というのです。駐屯するための準備です。比嘉さんは「駐屯は止めなければならない」と直感的に思いました。兵隊に行っていた経験から、「兵がいなければ相手は攻めてこない」という確信があったからです。そこで比嘉さんは、首を切られる覚悟で、軍の司令官との間で緊迫したやりとりをします。そして、とうとう、日本軍は撤退していきます。その後沖縄戦が始まって、この島にも米軍がやってきました。島中を調べ、軍事施設がないことがわかると、米軍も去っていきました。比嘉さんの勇気ある行動で、島の人はみな助かったのです。でも、比嘉さんは苦しい思いをずっと持ち続けました。それは、沖縄のほかの島では住民が戦闘に巻き込まれて虐殺されたり、集団自決と言って、アメリカ軍に捕まるよりは死んだ方がよいということでたくさんの人が自殺に追い込まれたからです。沖縄の他の人々、命を失った人々のことを考えると、自分たちだけが助かったというのが苦しかったのです。そして、比嘉さんと島民は長い間このことを決して語ることはありませんでした。命を失った仲間に対して「ちむぐりさ」を感じ続けながら生きてこられたのです。
 心の中に沈潜した「ちむぐりさ」は、本当に苦しいものだと思います。戦争で命を落とした同じ沖縄人のことを思いやるとき、比嘉さんの胸は掻きむしられるような、文字通り「はらわたが痛む」思いだったのではないでしょうか。私たちは今、戦争は経験していません。しかし、人々の悩みや苦しみは、平和時だからといって決して存在しないわけではありません。せっかくこの世に生を受けながら、訳もなく殺されていく、ときには両親によって虐待され殺されてしまう幼い子供たち。子育てやお年寄りの介護に疲れて、心の病に陥ってしまった人たち。安定した職に就くことが難しく、日雇いの派遣労働で日々消耗していく若者たち。年金の減額で将来の不安を増している中高年者たち。独り暮らしで、心のよりどころを失っているお年寄りたち。世界に目を向けてみれば、未だに戦火のやまない中で命の不安に怯えている人々、特に女性や子供たち。同じ体の一部である人類のこの苦しみに対して、私たちは同じような共感、苦しみを感じているでしょうか。
 今日の福音書の中で、イエスさまは会堂でイザヤ書の一カ所を読まれました。それはイエスさまがこの世にこられたのは、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されていた人を自由にし、主の恵みを告げるため」だと預言している一節でした。そしてイエスさまは、「この聖書の言葉は、今日、実現した。」と宣言されるのです。その言葉通りイエスさまは、多くの人々の罪の赦しを宣言し、病人を癒し、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにしてくださいました。しかし、それはイエスさまが地上におられた間に起こった出来事です。現代に生きる私たちにとって、この福音の宣言はどういう意味を持っているでしょうか。私たちは依然として罪の囚われ人であるといえます。この世の様々な価値観に捕らわれ、まっすぐに物事を見ることはなかなかできないのです。さらに、私たちは視力がある場合でも、物事をありのままに見ているとは限りません。聴力が十分ある場合でも、正しく聞いているとは限らないのです。無関心というバリアーがあって、私たちが人々の苦しみを目撃し、うめきを聞くことを妨げています。あるいは、自己中心主義という罪のために、他者の苦しみや喜びを共有することができないのです。そのような私たちが、イエス・キリストのご生涯と十字架上の死と復活に出会うとき、私たちの目は開かれ、耳も聞こえるようになる。そんなことをイザヤ書は告げているように思えるのです。すぐ隣の兄弟姉妹の苦しみを十分に感じ取り、分かち合うことができるのは、神の恵みによって支えられている、広い意味での教会、つまりイエス・キリストの体において初めて起こることではないでしょうか。体の一部が苦しめば、他の部分も苦しむ。一部が喜べば、他の部分も喜ぶ。そのような、愛に結ばれた共同体、有機的に一つの体となっている共同体。教会がそのような意味においても、イエス・キリストの体であってほしいと願っています。そしてその共同体の中に、一人でも多くの人々を包み込む、そして手の届かない遠くで生きている人々にも手をさしのべてゆくことが教会に与えられた宣教の職務(ミニストリー)ではないでしょうか。
 
<祈り>
恵み豊かな神様。あなたは独りの御子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪や苦しみ、悩みをすべて共有してくださいました。そのイエスさまの愛に、私たちはただただ感謝するばかりです。どうか私たちも、目を開き、耳を開いて、人々の苦しみや悩みに目を向け、耳を傾け、互いにその痛みを感じ取り、分かち合うことができるようにしてください。この教会は小さな存在ですが、今の世界の中でそのような愛の交わりを広げるためにどうぞ用いてください。