2006年1月8日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
 
旧約聖書:イザヤ書42:1−9
使徒書:使徒言行録10:34−38
福音書:マルコによる福音書1:7−11
 
生まれ変わる
 
 1月6日は教会歴では、顕現日、つまり、神のみ子であるイエスさまが、人類全体にはっきりと示された日、具体的には、東方からの三人の博士がイエスさまに出会い、礼拝し、贈りものを献げた日とされています。単にイスラエル民族だけではなく、全ての民族、全ての人びとの救い主として、イエスという方がお生まれになったことを記念する日です。しかし、元々この日は、古代教会ではイエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった日として祝われていたようで、これは初代教会ではイエスさまの公生活が始まる「主イエス洗礼の日」の方が重視されていたからかも知れません。現在の教会歴では、顕現日の次の主日(つまり顕現節第1主日)が「主イエス洗礼の日」と定められています。クリスマスからずっと幼子イエスさまを巡る様々な出来事を覚えて、私たちは礼拝を献げてきたわけですが、ここから話は一気に壮年のイエスさまへと飛ぶわけです。しかし、そこに込められているメッセージは、クリスマスと共通しています。それは神であるイエスさまが完全な人間となった、受肉されたということです。
 さて、この日イエスさまは、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになります。洗礼というのは、もともと、流れる水で身を清める、罪を洗い流すという意味があり、世界の多くの宗教でよく似た習慣が見出されます。日本でも「禊ぎ」とか「清め」という習慣があり、水に入ったり滝に打たれたりします。ヨハネの洗礼も、「罪を洗い清める」という意味を持っていたのでしょう。洗礼という形をとって、当時の神殿での献げ物中心のユダヤ教の改革を図ろうとするグループがいくつかあり、ヨハネのグループも恐らくその一つであったと思われます。
 イエスさまも、そのヨハネのグループに近づき、洗礼をお受けになるのです。では、神のみ子であり、何の罪も犯しておられないはずのイエスさまが、なぜ罪の清めである洗礼をお受けになる必要があったのでしょうか。罪深い人間の一人であるヨハネの方がイエスさまから洗礼を受けるべきではなかったでしょうか。今日の福音書であるマルコ福音書には、その理由は何も示されていません。ただ、その時に天が裂けて、「聖霊」が鳩のようにイエスさまの方に降ってきた。そして「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきた、とのみ記されています。イエスさまが神の子であることが神によって宣言さえたわけです。ところが、同じ場面を記したマタイ福音書によれば、ヨハネが「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言ったのに対して、イエスさまは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とお答えになった。と書かれています。「今は止めないでほしい」というイエスさまの言葉には、固い決意が感じられないでしょうか。それは、私たち人間と全く同じ立場に立とうとする決意です。神であるイエスさまが、様々な苦しみ悩みに捕らわれ、罪の中でもがく私たち人間と共に、同じ苦しみ悩みを味わい、分かち合い、共に立ち上がろうとする決意です。罪人である私たちとの連帯、と言ってもよいでしょう。神さまがなぜ?と不思議にお思いになる方もおられるかもしれません。そんなまどろっこしいことをしないでも、神さまは全能なのだから、上から引っ張り上げて私たちを苦しみから救ってくださればよいではないか。そんな風に感じるかもしれません。
 しかし、神さまは、上から、力づくで私たちを引き上げることはなさいません。そうではなく、苦しむ私たちに寄り添い、その苦しみを分かち合うことによって、私たちと共に立ち上がる、そして立ち上がる力と勇気を私たちに与えてくださる神さまです。それは、私たち一人ひとりに対する神の愛から出ています。愛する子どもが転んだとき、だれが、突っ立ったままで子どもを引き上げようとするでしょうか。まず、駆け寄って、しゃがみ込んで子どもを抱き上げ、「痛いの、痛いの、飛んでいけ」と言わないでしょうか。子どもと共に、その痛みを感じないでしょうか。そして、子どもと共に立ち上がるのではないでしょうか。それが愛する者への振る舞いです。新約聖書のヘブライ人への手紙の中に、次のようなことが書かれています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:7〜8)イエスさまご自身が人生の苦しみを味わい、罪深い私たちと同じ洗礼を受け、私たちと共に歩もうとなさる。だからこそ、私たちはこのイエス・キリストの愛を信じ、様々な苦難の中で近づいてきてくださる方を信じることができるのではないでしょうか。
 イエスさまの洗礼について、もう一つ私たちが気付くことは、イエスさまが洗礼をお受けになったときに、聖霊が注がれたということ、また、ヨハネがイエスさまは「聖霊によって洗礼をお授けになる」と語っていることです。つまり、単なる「禊ぎ」や「清め」ではなく、そこには新しい意味と力とが付け加わっているのです。それが聖霊の力です。聖霊は造り主である神とイエス・キリストとを結ぶ絆であり、また私たちを父なる神、そしてイエス・キリストと結びつける絆なのです。旧約聖書の創世記に、「神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されているように、私たちは命の霊を吹き込まれて毎日を生かされています。洗礼は、罪の赦しの洗礼であると同時に、私たちに新たな聖霊を注ぎ、私たちに生きる新たな力を与えてくれる出来事なのです。そして、それはイエス・キリストの復活と永遠の命に与ることでもあります。来主日に読まれる使徒書であるコリントの信徒への手紙一の6章19節には「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」と書かれています。私たちは洗礼を受けることによって、聖霊を吹き込まれ、新たに生まれ変わるのだと言うことができるでしょう。その「生まれ変わり」は、一挙に、瞬間的に訪れるものではありません。もちろん、すぐに劇的な生まれ変わりを実感される方もおられるでしょう。しかし、徐々に、次第に、聖霊によって私たちの生活が作り替えられ、信仰者として成長していくことの方が多いのではないでしょうか。
 生まれ変わる。それは一体どんな状態なのでしょうか。ある人は言います。今まで人生の暗い、悪い面だけに目が向いていたのが、喜びにあふれた、前向きの生活を送ることができるようになった。また、自分が嫌で、自己嫌悪に陥っていたが、神様に愛され肯定されていることを知り、自分が愛おしく思えるようになった。さまざまな個人的な救いの経験があると思います。中でも、今まで憎しみを感じていた相手を赦すことができるようになった、これまでのこだわりを捨て、人を愛することができるようになった、というお話は私たちを感動させます。十字架上から、自分を磔にしている人びとのために祈り、「父よ、彼らをお赦しください」と語られたイエス・キリストの生き様に触れ、イエス・キリストのゆえに私たちは神から赦されているという限りない恵みを受け入れたとき、私たちは人を赦すことができるようになります。人を愛することができるようになります。それが、洗礼によって始まる「生まれ変わり」、つまり新生の意味ではないでしょうか。
 正月の間に、私は妻と二人で、「アルプスの少女ハイジ」の原作を幾度も読み返しました。あのテレビアニメで人気者だったハイジです。しかし、よく読んでみると、このお話は、楽しい児童物語である以上に、イエス・キリストの愛によって生かされるとはどういうことかを描いた物語であるということが分かります。特に後半の場面で、ハイジのお祖父さんであるアルムおやじさんが変えられていく、そして、ハイジの祈る姿に触れて自らも祈る気持ちを取り戻していく、そんな描き方は、まさに、人を赦すことができない一人の頑固者が、自分が愛されている(直接的には、一人の無邪気な女の子によって、しかしそれは、ハイジを通じて神の愛が表されているのです)ことを受け入れることによって、人を赦し、人を愛することができるようになる、一つの根本的変化を示しているのです。アルムおやじというのは、ハイジのお祖父さんですが、もともと結構な金持ちだったのですが、やがて没落し、それと共に親しくしていた友人たちが次々と去って行き、孤独な人間嫌いになっていくのです。しかし、ハイジの清らかな魂に触れ、「神さまは決して誰も忘れない。きっと戻れるわ。」というその言葉に動かされます。そして、「放蕩息子」の話をハイジの口から聞いて、過去のこだわりと憎しみを捨て去り、人びととの交わり、そして教会の交わりに復帰するのです。そのアルムおじいさんがこんな台詞を言います。「神さまとも人間とも仲良くしていることは本当に良い!」
 みなさん、私たちの生活の中で、人を恨んだり、人を憎んだりして、そこから抜け出せないことはよくあることです。また、そんな憎悪の上に組み立てられると、社会は戦争と報復の絶えない殺伐とした世の中になります。ちょうど今、私たちはそんな世の中に暮らしているのではないかとさえ思われます。しかし、洗礼を受けて生まれ変わった私たちは、イエスさまの約束された聖霊を注がれ、導かれているのです。どうか、日々の生活の中で、この世に対してその証しをしていくことができますように。
 
<祈り>
恵み豊かな神さま。2000年前、み子イエス・キリストは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、私たち人間と同じ立場に立ち、同じ弱さを引き受けられました。どうか、私たちがイエスさまによってそのように愛されている事実を受け入れ、私たちもまた人を愛することができるように、豊かな聖霊を注いでください。そして洗礼によって生まれ変わるということを日々経験させてください。