2007/5/27 聖霊降臨日
 
旧約聖書:ヨエル書3章
使徒言行録:使徒言行録2:1-11
福音書:ヨハネによる福音書14:8-17
 
聖霊の働き
 
 皆さん、今日は聖霊降臨日(ペンテコステとも言います)、キリスト教ではクリスマス、イースターと並んで三つの大きな祭典として祝われています。しかし、日本では一般にあまり知られていませんし、教会でも他の二つの祝日ほど大切なものとしては受け止められていないかも知れません。しかし、この日は私たち教会に集う者にとっては、この上もなく重要な日だと言うことができます。それは、神さまが聖霊として私たちの上に降って下さったことによって、神が時間と空間を超えて、常に私たちと共に、私たちの内にいて下さるようになったからです。今日の福音書であるヨハネ福音書には、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」と記されています。聖霊は私たちと共に、私たちの内にいて下さるのです。
 しかし聖霊とは一体何なのか、あるいは、どういうお方なのか、ということになるとなかなか理解できないことが多いのではないでしょうか。キリスト教では、三位一体といって「父と子と聖霊」が唯一の神を表していると教えています。父とは天地万物を創造した神、子とはこの世に遣わされたイエス・キリストのことです。イエスさまというと、私たちは具体的な人格を持った方として思い浮かべることができます。それはこの世で実際の人生を生き抜き、十字架上で処刑されたあの方を私たちは自分の想像力の中で捉えることができるからです。父なる神さまも、人格を持った方として想像することはできます。創世記の中でも「神の姿に似せて人間を造った」とありますので、逆に神さまも人間のようなお姿なのかなあ、と想像力を働かせることができるからです。(実際には、私たちの方にある「神の似姿」は歪められ、全部ではないにせよ破壊されてしまっています。)
 しかし、「聖霊」はとても視覚的に想像することができません。「聖霊」はどちらかといえば、「感じる」ものだからかもしれません。少し聖書の中に登場する「聖霊」あるいは「神の霊」について整理してみましょう。「創世記」の天地創造の場面には「神の霊」が登場します。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」神の霊はすべての物に先立って存在し、すべての物を作り出す力として描かれています。また、人間が神によって造られたとき、その鼻に「命の息」を吹き入れられたという描写があります。これは、神の霊が私たちのうちに宿ったとき、命を与えられると言うことを意味しています。つまり、神の霊は私たちの命を支える息吹、命の力なのです。
 そしてイエス・キリストの生涯には、聖霊が重要な役割を演じています。まず、その誕生は聖霊によるものとされます。美しいクリスマス・ストーリーの中で、聖母マリヤは天使からお告げを受け、聖霊によって身ごもります。また、イエスが洗礼を受けて人々に教えを宣べ伝え始めるとき、聖霊が彼とともにいました。イエスが会堂でお読みになったイザヤ書には次のように記されていました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、「今日、この聖書の言葉は実現した。」と言われたのです。それはイエス・キリストがなさる業はすべて神の霊、つまり神ご自身の業であるということを意味しています。考えてみますと、イエスさまほど霊に満たされた方はおられなかったのではないでしょうか。そして、今日の福音書にあるとおり、イエス・キリストは、ご自分が十字架につけられ、3日目に復活され、天に昇られた後に、自分に代わって弟子たち、そして人々とともにいる聖霊を送ると約束されました。その霊は「弁護者」とも「真理の霊」ともいわれ、人々とともにいて、彼らを助け、真理へと導いてくださる方だと書かれています。やがて、50日近くが経って、集まって祈っていた弟子たちの上に聖霊が下り、弟子たちは勇躍、イエス・キリストの生涯と教えを世界中に広めるために立ち上がります。その日がペンテコステ(聖霊降臨日)。キリスト教会が誕生した日とされています。もちろん、人々の集まりとしての教会はそれ以前にも存在していましたので、聖霊を受けて弟子たちが勇躍宣教にでかける、いわば宣教開始の日ということでしょう。
 このように聖霊は、天地創造の初めから人間に吹き込まれた神の霊、命の息吹であるとともに、イエス・キリストによる救いを私たちに実感させてくれる力であると言えます。その霊は、時間と場所を超越して、いつもどこにおいても、私たちと共にいてくださり、私たちの内にいて、私たちが困難にあるときや絶望に陥ったときに、私たちを励まし、立ち上がらせてくれる。そのような力なのです。そのことを今日の福音書は、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」というイエスさまの言葉によって明らかにしています。今日の福音書ではさらに、「真理の霊」とも言われています。「真理の霊」とは何でしょうか。少し先の14章26節には、この霊が「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と書かれています。それは、イエス・キリストの恵みを私たちに理解させ、思い出させてくれる霊であるというのです。
 私たちはよく、あのときはよく分からなかったけれども、後になってハッと分かったということがあります。苦しみ悩んでいる人のことを「気の毒に」とは思っても、本当に共感できる、分かち合うことが出来るというのは難しいことです。しかし、後になって自分が怪我をしたり、病を得たりすると、その方たちの気持ちが痛いほどよく分かる。それは神様の導きのように思えることがあります。今週私と妻は、ケニアからこられたジェーン・ワマイサさんに会う機会がありました。そして食事を共にしながら、彼女が昨年大変な目にあったことを知りました。また一度お話をしていただきたいと思っていますが、実は昨年の7月彼女の乗ったバスが交通事故に遭い、彼女も大けがをしたのです。その事故では3人の方がなくなったそうです。ワマイサさんは右腕と左脚を骨折、また運転手席のすぐ後ろにいたために上あごを骨折されました。何ヶ月もの間病院で歩けず、話すことも、食べることもできない状態が続きました。そのときの苦しみはどんなだったでしょうか。でも、彼女はそのとき、亡くなった方のことを思い、神の恵みとみ守りとを感謝したそうです。そして、身体に怪我や病を負うことの苦しさを初めて理解したと言います。またそれを聞いて、わがことのように痛みを感じたのは、私よりも妻の方でした。一昨年の暮れに足の腱を切断して、大変な痛みと苦しみ、不便とを経験していたからでしょう。そうした経験を通じて、神様は私たちに大切なことを教えてくださるのです。しばらく経ってそれをしみじみと感じさせてくれる方、それも聖霊なのだと思います。
 「真理の霊」、それは私たちを自由にしてくれる霊であり、私たちを癒してくれる霊でもあります。ラルシュ共同体という障害者を中心とする共同体(あのヘンリー・ナウエンもこの共同体で、障害者との交わりの中で魂の救いを得た人の一人です)を始めたジャン・バニエさんは、「自由でないとは、恐れること、つまり現実を恐れ、他人を恐れることに他なりません。そして幻想や偏見に、ときには嘘にまでもしがみつくことになります。自由でないとは、自分だけが真理を持っていて、他人は間違っている、馬鹿であると考えることです。すなわち、偏見に支配されることです。」と語っています。彼は、数多くの障害者とふれ合い、生活を共にすることによって、そこにある壁を打ち破る、いや、壁が打ち破られることを経験します。一つはアントニオの物語です。アントニオは何年もの病院生活の後、ラルシュの家にやってきました。歩くことも話すことも手を使うことも出来ませんでした。呼吸するのにも特別な酸素を必要としました。しかし、アントニオにはすばらしい笑顔と美しい目の輝きがあったのです。彼には怒りや暗さがありませんでした。そして彼はひたすら人々を信頼しました。他人を信頼する。それは自分自身を差し出し、心の絆を呼び起こすことだと、ジャン・バニエは言います。「アントニオが私の人生を変えてくれた。彼のおかげで、私は強く攻撃でなければならない競争社会から、優しい助け合いの世界へと導かれたのです。」と言った人もいます。彼とふれあう中で、心の壁が崩され、この世界の価値観から解放され、新しい愛の世界が開かれました。そしてその中で、会った人自身が癒されたということが出来るでしょう。私たちは、日常生活の中で、現代の能率本位、能力本位の競争社会の中で、生き残るためにストレスと不安の中にあります。しかし、聖霊は私たちをそこから連れ出してくれるのです。逆に、自分とは異質な存在とふれ合い、その存在に耳を傾け、受け入れようとすることによって、私たちは社会の価値観から自由になり、それとはまったく別の世界、和解と癒しの中に導き入れられます。
 私たちは、内にいて下さる神、聖霊を十分に感じ取っているでしょうか。私たちを生かす力、命の源である聖霊、私たちを突き動かし、真理へと向かわせてくれる聖霊、私たちの偏見や心の壁を打ち破り、広い世界へと連れ出してくださる聖霊を、自分たちの内に感じ取ることが出来ているでしょうか。聖霊の息吹を一杯に感じ、イエスさまの弟子として「喜びの年」を告げ知らせようではありませんか。
 
<祈り>
恵み深い主よ。み子イエス・キリストは弟子たちに約束されたとおり、聖霊を私たちに送り、常に私たちと共に、また私たちの内にいるようにして下さいました。どうか私たちがその聖霊の息吹を全身全霊で感じ取り、その力によって、この世のゆがんだ価値観を打ち破り、愛と平和の作り手として働くことができるようにして下さい。豊かな聖霊を注ぎ、私たちを強め、導いて下さい。