2008/4/6 復活節第3主日
 
使徒言行録:2:14a,36-47
使徒書:ペトロの手紙一 1:17-23
福音書:ルカによる福音書24:13-36
 
いつも共におられる方
 
 イエス・キリストが行った山上の説教の中に、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」という言葉があります。わたしたちは、自分の衣食住について思い悩むとき、心の目が曇り、神の恵みが見えなくなるということを教えられたものだと思います。わたしたちは、思い煩いに心を奪われるとき、本当に大切なものが見えなくなるのではないでしょうか。
 本日の第2日課として読まれましたルカ福音書には、復活のイエス様との不思議な出会いが記されています。私はこの美しい光景を彷彿とさせるお話が大好きです。夕暮れが近づいています。イエスさまの二人の弟子(クレオパともう一人=この人たちはいわゆる12人の弟子には含まれていません)がエマオ(エルサレムの北西20〜30キロ)という村に向かって歩いています。西に向かっているわけですから、美しい夕日が前方に見えていたかも知れません。しかし、二人の心は真っ暗でした。彼らは一人の人と道をどもにするのですが、彼らはそれがイエス様であることに気がつきません。不思議なことですが、絶望と苦悩の中にあり、それを肉の目、つまり常識であれこれと判断し、悲しみだけを心の中に持ち続けていると、自分のことしか見えず、イエス様が横におられるということに気付かない。そういうことを、これは示しているのではないでしょうか。彼らは自分たちの望みが潰えてしまったことについて不平を言います。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」それなのに…という嘆きの言葉です。それは、イエス様の受難の意味がさっぱり分からなかったからです。イエス・キリストは、この世のすべての罪、すべての憎しみ、すべての辱めを一身に引き受け、十字架上で処刑されました。言い方を変えると、ガリラヤの庶民として、労働の辛さ、貧しさ、ローマ帝国とユダヤ支配層による二重の抑圧を自ら体験し、というよりは生き抜き、罪人や見捨てられた子ども、病人、社会の片隅に追いやられた人々を限りなく愛されたイエス・キリストは、その帰結として、ローマとユダヤの支配層に憎まれ、その憎悪を一身に受けて殺されたのです。しかし、そのイエス様を神はご自分の子としてよみがえらせ、私たちに限りない希望をお与え下さったのです。苦悩の中の希望、苦難の果てにえられる喜び、喪失感の後に与えられる充実。それらはすべて、イエス・キリストの復活が私たちに与えてくれるものです。イエス様を復活させることによって、神様は私たちにそれらをお約束下さっているのです。2人の弟子はそのことを理解しなかった。だから、ただただ悲しみに沈んでいたのだと思います。
 では、2人の弟子がイエス様に気付いたのはいつでしょうか。それは、彼らがイエス様と知らずに招き入れた家の中で、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いて与えられたときでした。そのとき彼ら2人の心の目が開け、イエス様だということを悟ったのです。「パンを取り、賛美の祈りを取り、パンを割き、人々に与える。」それは、まさに主の食卓を囲む聖餐式をあらわしています。本日読まれました使徒言行録を見ますと、初代教会の生活の様子が生き生きと描かれています。少し理想化しすぎであるという意見もありますが、こんな風に描かれています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」そして、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」と証言されているのです。初代教会のクリスチャンたちは、こうして、パンを裂き分かち合うことによって、復活のイエス様の臨在を本当に身近に感じていたのです。教会の交わりの中に、そして、共にパンを割きブドウ酒をいただく聖餐式の中に、イエスさまが臨在されるということを、初代教会のクリスチャンたちは証ししているのです。
 では私たちはどうでしょうか。イエス様の臨在を生活の中で感じ取っているでしょうか。聖餐に与るとき、イエス様を素直に私たちの内にお迎えしているでしょうか。復活のキリストは、いつも、どこでも、私たちと共にいて、私たちに寄り添い、私たちを見守ってくださるイエス様です。私たちは人生の中でさまざまな困難や苦しみ、悩み、試練に出会います。もちろん、よろこびの時もあるでしょう。しかし、どんなときにあっても、神様は決してあなたを見捨てない、いつも共にいて下さる。それが「復活の信仰」です。ところが、悩みや苦しみ、思い煩いの中にいるとき、わたしたちはいつも共にいて下さる方に気づかないものです。昨年、全国の大学チャプレン会で高野山に上りましたときに、大師廟に参りました。もちろん、拝みに行ったわけではありませんが、多くの日本人の信仰の対象になっている弘法大師の廟に関心を持って「見に行った」わけです。そのときに、「同行二人(どうぎょう・ににん)」という言葉が大書して掲げてありました。人々が人生の道を歩む中で、弘法大師がいつも共にいてくださる。そういう信仰を記したものだそうです。そのとき私は、今日の福音書の箇所、エマオへの道を思い出したのです。
 マーガレット・フィッシュバック・パワーズという人が書いた「あしあと」という詩があります。幾度か聞かれた方もおられると思いますが、読み上げたいと思います。
 ある夜、わたしは夢を見た。/わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。/そこには一つのあしあとしかなかった。
 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
 このことがいつもわたしの心を乱していたので、
 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、/あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」/主は、ささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。/あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていたのだよ。」
彼女はこの詩を、夫(ポール)との結婚の直前に書きました。二人で散歩していたときにポールが砂の中にある二組の足跡を見て「結婚式にはぼくたちの二組の足跡が一つになるんだね」と熱を込めて言ったそうです。しかし、マーガレットは不安で、「わたしたちだけでどうにもならない困難が訪れたときにはどうなるの。」と言いました。そのときにポールは「そのときには主が二人を抱きかかえてくださる。」と言って彼女を安心させたのです。その結果できあがったのがこの詩でした。ところが、その後かなりの年月が経って、彼女は自分自身のこの詩に再び出会うという経験をしたのです。夫と娘が水難事故にあって、自分も腕を折るという目にあったとき、朝早く看護婦がやってきて夫に尋ねました。「パワーズさん、あなたと奥さんと娘さんのために、祈らせていただいてよろしいでしょうか」ポールがうなずきいたので、看護婦は祈りました。祈り終わったあとに、詩を書いたカードを取り出し、夫の手を握って静かに一つの詩を読みました。そして看護婦は「私はこの詩の作者を知りません。作者不明なのです。」ポールは弱々しく手を上げてこう言いました。「私は知っています。作者を知っています。」「私は作者をとてもよく知っています。……私の妻です。」と。
 不思議なエピソードですが、この詩は、このように多くの人々を励まし続けてきました。その中に作者自身もが含まれていたわけです。わたしたちは辛いとき、苦しいときに、「神さま、あなたは助けてくださらないのですか。」と叫びます。詩編にも、神さまを非難する言葉がたくさん出てきます。「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(13編)詩編作者のこの「いつまでですか」という叫びは、わたしたちの叫びでもあります。そしてわたしたちは叫び疲れ、ときには神を恨み、神を忘れてしまうのです。今日のイエスさまの言葉によれば「物分かりが悪く、心が鈍く」なるのです。しかし本当は、わたしたちが絶望の中にいるとき、心打ち砕かれ、神からもっとも遠く離れていると感じられるとき、実はそのときに、神は最も近くにいてくださるのではないでしょうか。その真理をこの詩は表しています。どうか、どんなときにも、復活された主イエス・キリストは、いつもわたしたちと共に歩んでくださるということを信じて、希望をもって歩むことができますように。
 
<祈り>
主よ、感謝します。いつも、わたしたちの近くにおられ、わたしたちと共に歩んでくださることを感謝します。わたしたちの魂の叫びを聞き、わたしたちを抱きかかえてくださることを感謝します。わたしたちは自分の苦しみや思い煩いによってあなたの恵みに気がつかないことがありますが、どうか、聖霊によってわたしたちの心の目を開いてください。