2007/11/25 聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)
 
旧約聖書:エレミヤ書 23:1-6
使徒書:コロサイの信徒への手紙 1:11-20
福音書:ルカによる福音書 23:35-43
 
救いは今
 
 先主日は、子ども祝福式ということで、聖書日課のお話をしませんでした。今日は先主日の日課を含めてご一緒に考えて参りたいと思います。
 降臨節(アドヴェント)が近づいてくるにつれて、世の終わり(終末)とキリストの再臨のことが福音書のテーマになってきます。そして、やがてイエス・キリストのこの世界への降誕が浮かび上がってくるのです。先主日の福音書では、まさに世の終わりが告げられています。当時エルサレムにはヘロデ大王が築いた壮麗な神殿がありました。それは、ヤハウェの栄光を表し、エルサレムは永遠に不滅であるかのような偉容を誇っていました。イスラエルの人々にはそれが崩れ去るなどとは夢にも思えなかったでしょう。しかし、イエスさまの目には、空しい構築物としか映りませんでした。そして、イエスさまはその崩壊を預言されるのです。学者の中には、このイエスさまの言葉には、後にローマ帝国がユダヤ戦争の中でエルサレム神殿を破壊し尽くしたという事実が反映しているのだ、後で編集者が付け加えたものだとする人もいますが、それにしても、偉容を誇った神殿がもろくも崩れ去るという点には変わりはありません。すると弟子たちは、いったいそれはいつ起こるのかと尋ねます。とても信じられなかったのでしょう。そのときのイエスさまのお答えをよく見ると、まるで現代のことであるかのように思えます。救い主の名をかたる者が現れて人々を惑わし、「時が近づいた」と言っては人々を恐怖に陥れる。戦争や暴動があり、民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。大きな地震が起こり、飢饉や疫病が起こる。それは、私たちが目にしている現代の世界のようです。新興宗教が流行り、二千何年には世の終わりがくる、といって布教に走り回るグループもあります。世界のあちこちで、新たな民族紛争が起こり、戦争が絶えない。アフリカで、アジアで、ヨーロッパで、これまでは仲良く平和共存していた民族が、突然憎悪を募らせ、殺し合いを始める。そんな悲しい現実が世界にはあふれています。もう10年以上前になりますが、覚えておいででしょうか。アフリカのルワンダで、二つの民族が対立し、フツ族によるツチ族の大量虐殺がありました。「あいつらはゴキブリだ。ゴキブリを退治しろ。」というラジオ放送が流され、作られた民族的憎悪が煽られ、昨日まで仲良く暮らしていた人々が、隣人を襲い始めるのです。中にはフツ族とツチ族が結婚して作られた家庭もあり、そんな場合には、家族の中で対立が深まりました。本当に恐るべき、悲しい出来事でした。そのようなむき出しの民族対立ではありませんが、私たちの周りにも、民族的憎悪が育ち始めています。また、「あなた方は親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。」とありますが、昨今の家庭内暴力や児童虐待などを見ていますと、まさに、家族の中ですら裏切りや殺人が始まっていると思わざるを得ません。最近も、このごく近所で29歳のお母さんが3歳の女の子を虐待し、女の子は重体で発見されたという悲しい事件が起こりました。そして、最近の異常気象です。世界各地で、地球温暖化が原因としか思えない自然災害が起こっています。11月15日から16日にかけてバングラデシュを襲い、未だに多くの人々が被害に苦しんでいるサイクロンなどもその現れだと思います。
 それらはまさに、世界が終わりに瀕していることを示しているように感じられます。しかしイエスさまの言葉によれば、そういうことが起こったからといって驚いてはならないのです。さらに、「世の終わりはすぐにはこない。」ともおっしゃっておられます。弟子たちは、そのときがいつ来るのだろうかと怯えています。しかし、イエスさまは「忍耐によって命を勝ち取りなさい。」と言われます。いったいどういうことでしょうか。その理解の鍵を与えてくれるのが、今日の福音書です。それは、イエスさまの十字架刑の場面です。イエスさまと共に二人の犯罪人が十字架にかけられています。一人はイエスさまをののしります。ところが、もう一人の犯罪人は、「この方は何も悪いことはしていない。」と言い、イエスさまに「イエスよ、み国においでになるときには私を思い出してください。」と語ります。それは、罪の悔い改めの告白であり、神にすべてを委ねるという信仰の表明です。彼がどのような意味で「犯罪人」であったのかは分かりません。それはどうでもよいことです。重要なのは、彼がイエスさまに心を開き、迎え入れたということです。それに対して、イエスさまは、「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう。」と宣言されるのです。テゼ共同体の美しい賛美歌があります。ご存じの方も多いかと思います。
 大切なのは、このとき、イエスさまがおっしゃったのは、将来まず世の終わりが来て、最後の審判があって、それからあなたは天国に行くことになるということではなかったという天です。「今日、あなたはパラダイスにいる。」と言われたのです。これは、私たちにとって大いなる慰めであり、また、大いなる要求です。ルカ福音書は、しばしば、「今日」救いが実現したということを強調します。ご降誕の場面では、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と天使に語らせていますし、イエスさまも最初に会堂で聖書を朗読されたときには、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されます。また、中風の人を癒されたイエスさまを見て、人々は「今日、驚くべきことを見た。」と語り合います。また、神の国についてイエスさまは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と教えられるのです。神の国、天の国、あるいはパラダイス。それらは、神様との正しい関係にいる状態、人間の本来の状態を表しています。決して遠い未来のことではありません。死後の世界だけを意味しているのでもなく、遠い世界の話でもありません。それは日々、私たちの前に開かれ、神様は私たちをその中に招き入れてくださっているのです。
 そのことを私たちは「救いの現在化」と呼ぶことができるかも知れません。私たちは、忍耐強く生きることによって、その中で、復活のイエスさまと出会い、罪を赦され、心の平安を与えられます。死を直前にしても、永遠の命を確信して、おそれることなく生きることができます。今日の使徒書であるコロサイの信徒への手紙は、そのことをこう言い表しています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」というのも、イエス・キリストの十字架によって、神と私たちの平和が打ち立てられたからだというのです。コロサイの信徒への手紙は、イエス・キリストの永遠性と、その救いの現在性を同時に言っています。私たちはすでに罪の赦しを得ているのです。つまり、今このときに、時を超越した方、永遠から神と共におられた方が、私たちのところにやってきてくださるのです。それこそが、イエス・キリストのご降誕が意味するところです。私たちのもとに、今、イエスさまが来てくださるのです。それは、私たちにとって大いなる喜びであり、慰めです。
 しかしそれは逆に言えば、私たちが日々の生活の中で「審き」に直面しているということでもあります。「審きの現在化」といってもよいでしょう。神からの「大いなる要求」と私が申し上げたのはそのことです。私たちは、イエスさまをののしった罪人になってはならない。いつも、自己中心の生き方しかできない自分を見つめ、自分を空しくして、イエスさまに自分を明け渡さなければなりません。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」とイエスさまは、常に私たちが備えていなければならないと教えておられます。すでに救われているという大いなる慰めと共に、私たちは「用意しなさい」という神の命令にも従わなければならないのです。
 始めに私は、この世の終わりかと思えるほどの現代世界の状況についてご一緒に見て参りました。それらは、神様の罰というよりは、私たち人間の自己中心性、聖書的に言えば「人間の罪」がもたらした事態だと思います。それは私たち自身の姿なのです。ですから、私たちはぼんやりしていてはならないのだと思います。罪の赦しを宣言されていることを知っている私たちは、その赦しが現実のものとなるように、神様の愛に応答しなければならないのではないでしょうか。私たちの教会の働きが今ほど求められているときはありません。この教会でも、子育て支援プログラムである「テモテぷれいるーむ」が始まりました。地域の子どもたちとお母さん(だけには限らないと思いますが)たちが、少しでも安らぎの時を与えられ、神様のご臨在を感じ取ることができれば、それは私たちが用いられているということです。ほかにも、この地域には独居の高齢者が数多くおられます。野宿者も少なくありません。心に苦しみ、痛み、病を抱えておられる方もおられます。私たち自身も、その一人かも知れません。そういう人々と寄り添い、イエスさまの愛を伝えること、それが教会に与えられた使命ではないでしょうか。神様の宣教の業に与るということではないでしょうか。
 
<祈り>
 恵み深い主よ。御子イエス・キリストは十字架の上で、共に十字架にかかった罪人に対して「今日、私と共にパラダイスにいる」と約束してくださいました。イエスさまは日々、私たちをこのように招いていてくださっていると信じます。しかし同時に、イエスさまは私たちに大いなる要求を突きつけておられます。「我に従え」という要求です。どうか、主よ、私たちに豊かな聖霊を注ぎ、私たちを強め、御子イエスさまの後に従うことができるように、また、私たちの教会が、あなたの恵みによって、この世で苦しみ、悩み、救いを求めている人々に仕えることができるようにお導きください。