2006/12/25 降誕日聖餐式
旧約聖書:イザヤ書52:7-10
使徒書:ヘブライ人への手紙1:1-12
福音書:ルカによる福音書2:1-20
喜びの訪れ
みなさん、改めてクリスマスおめでとうございます。昨日からずっとクリスマス礼拝が続いているような気分ですが、4回の一連の礼拝の、今日のこの礼拝が最後の礼拝になり、実は本来のクリスマス礼拝、降誕日聖餐式です。私たちの聖公会は教会の暦を大切に守るということから、このような礼拝の回数になったわけです。
さて、よく教会では「福音」という言葉を口にいたします。一種の教会用語(これは業界用語とは五十歩百歩で、あまり自慢できたものではありません)で、「喜びの訪れ」と訳すこともできます。英語ではGood News あるいはGospelと言われます。聖書が書かれているギリシャ語では「エヴァンゲリオン」(英語式にユーワンゲリオンと発音される方もおられます)と言います。それは、古代社会で、戦争の勝利や国の喜ばしい出来事を伝令が伝える、「よい知らせ」を表す言葉でした。
さて、今日の旧約聖書には、その伝令が福音をもたらすときの様子が記されています。それはイスラエルの指導者たちがペルシアによってバビロン捕囚から解放され、エルサレムへの帰還を許されたときの「福音」です。
「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。
このイザヤ書の言葉は、ヘンデルの「メサイア」の中にもあり、とても美しい曲です(ちなみにプール学院では高3生の有志が卒業を前にこの曲を重唱します。)How beautiful are the feet of them that preach the gospel of peace,で始まる曲です。しかし、このHow beautiful「いかに美しいことか」というのは、美しい景色や美しいものを見て「How beautiful」というのとは少し違っています。この伝令は、先発の使者に違いありません。本隊に先だって、山々を巡り、そして町々を行き、捕囚の民が帰ってきたことをイスラエルの民に知らせるために、命がけで走ってきたことでしょう。この伝令の足はおそらく美しいどころか、泥まみれになり、傷だらけになっていたと思われます。しかし、その足が美しい。エステで磨き上げたわけでもない、泥だらけの足が美しいというのです。そこには、イスラエルの民の解放への願いが込められています。イスラエルの民は、どれほどこのときを待ちこがれたことでしょう。バビロニアによって国が滅ぼされ、50年にわたる捕囚を堪え忍んでいたのです。イスラエルの民が、使者の足を美しいと思ったとしても不思議ではありません。
またそこには、ある種の価値観の転換が含まれています。私たち現代の都会人は、長い間足を泥で汚すことなく過ごしています。特に私などは、家を出て、プール学院に到着して、また帰ってくる、その間にまったく地面に足をつけることなく、一日中を過ごすことが多いのです。すべてがアスファルトやコンクリートの上です。雨が降っても昔のようにぬかるむということはありません。しかし、田んぼで働く人は、今でも泥んこになります。つい数十年前までは、裸足で水田に入って田植えをしていたのです。その足を美しいと思える感性を私たちはもっているでしょうか。古代イスラエルでも、働く人々は裸足で、あるいはせいぜいのところサンダルのようなもので、足を埃だらけ、泥だらけにして働いていたに違いありません。だからこそ、彼らは傷だらけ、泥だらけの伝令の足を「美しい」と感じる感性を持っていたのです。それは、現代日本、自然から離れ、あまりにも「クリーン」(社会や政治は決してクリーンではありませんが…)になりすぎた日本社会に生きる私たちからは、失われてしまったものかも知れません。
イエスさまのご降誕の最初の知らせを受け取ったのは、夜、羊の番をしていた羊飼いたちでした。このことは、非常に大きな意味を持っています。羊飼いたちは当時のイスラエル社会の主要産業である牧畜業を支えていた大きな力でした。ですから、羊飼いの生活に基づいた譬え話を、イエスさまも多く用いられたのではないかと思います。羊と羊飼いとの関係は、イスラエルの人々にはとても分かりやすい事柄だったのです。しかし他方で、羊飼いの仕事は、最も卑しい職業と見なされていました。彼らは羊の群れと共に生活するために、宗教的な掟を守ることができず、神殿での礼拝にも参加できないために、宗教的な罪人と考えられていました。一生懸命仕事をしているのに、そして社会を支えているのに、一部の人々からは罪人扱いされ、社会の隅っこに追いやられて、彼らはなんと割に合わない人生だろうと思っていたのではないでしょうか。あるいは、当然のこととして自分たちの境遇を甘受していたのかも知れません。いずれにしても、この夜、野宿をしていた羊飼いたちの姿は、当時の社会で苦しんでいた人々の姿と気持ちを集中的に表していたように思えます。今の日本社会でも、働いても、働いても報われない人々が増えています。ワーキングプアと呼ばれる若者たちがいます。農業でいくら作物を作っても、輸入に頼る経済構造の中で、採算がとれず、借金地獄に陥っている農業従事者がいます。朝から晩まで店番をしても、仕入れ代や原料代すらも出ない商店の人々がいます。ノルマに追い回され、契約が伸び悩むと無能呼ばわりされ、落ち込んでしまうセールスマンがいます。一日20時間も運転しても売り上げが伸びす、しかも水揚げの半分以上を会社に持って行かれるタクシー運転手がいます。心に傷や病を持っているために、ちゃんとした働き口から閉め出されている人たちがいます。建設ブームの時に地方から出てきたものの、長引く経済不況(景気は回復していると言う人もいますが、実感としてはまったくその逆だと多くの人々は感じています)で、仕事もなく、寒空のもとで野宿を余儀なくされている人々がいます。若いときには一生懸命に働き、まじめに保険料や年金の掛け金を納めたのに、わずかしか年金がなく、生活に怯えている高齢者がいます。そのような人々(実は私たち自身もその一人なのです)は、現代における羊飼いということができるのではないでしょうか。そして、そうしたさまざまな人々の思いを投影して、その夜羊飼いたちが野宿をしていたと考えてみてください。
その羊飼いたちに、思いもかけない「喜びの訪れ」「福音」が告げ知らさます。先ほど読んでいただきましたルカによる福音書では、こう記されています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」もちろんそれは「民全体に与えられる喜び」なのですが、直接的には「あなた方のために」、つまり羊飼いを代表とする、苦しみ、悩み、働いても働いても楽にならない人々のためにイエス・キリストがお生まれになったというのです。ここには、根本的な価値の転換があります。社会の片隅に追いやられた人々(それは、あなたかも知れません)、それらの人々のところへ先ずイエス・キリストが訪れた。それらの人々に、神は先ず眼を向けられた、ということではないかと思います。
今年は、子どもたちにとって大変な一年でした。親にとっても同様でした。多くの子どもたちが遺棄され(放置され)、十分な食事も与えられず、命を奪われました。折檻のために部屋に閉じこめられ、手の届かないところに鍵をかけられていた子どももいました。また、いじめが原因の自殺が何軒も報道されました。そして、そのことを苦にして、責任を感じ命を絶った校長先生も何人もおられました。何がこのような事態を生み出しているのか、何か私たちの手の届かないところで、とんでもないことが進行しているような気がいたします。そんな子どもたちにとって、一番大切なこと、それは神さまに愛されていること、いつも神さまが自分と共におられるということを実感することではないかと思います。いじめの構造を生み出す社会と、その根源である競争社会、格差社会を正すための努力がもちろん必要です。しかし、それには時間がかかります。神さまは独りのみ子イエス・キリストをこの世に送り、私たちと同じ人間生活を送らせられましたが、それは私たち人間を肯定し、祝福し、その苦しみを取り除こうとする神さまの愛の表れなのです。そのイエスさまを十字架につけ、復活させられたのも、人生の苦しみや悩みを含めて、私たち人間を肯定してくださった。私たちのありのままの姿を肯定してくださった、ということを意味しています。ですから先ず私たちが、神さまによって愛されているこの事実を受け入れ、神の愛を実感することが必要です。そうすれば、社会の中で小さな存在である私たちも、強くなれます。楽天的になれます。前向きになれます。苦しみや悩みを乗り越える強さを与えられるのです。
イエス・キリストについて、マタイ福音書は「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」と書いています(マタイ1:22-23)。ここに書かれているように、「インマヌエル」というのはイエス・キリストを示す言葉です。しかし、私たちが「主われとともにいます」と言うとき、その主とは創造主なる神と共にイエス・キリストという方を意味しています。私は、クリスマスの本当の、一番大切な意味は、「イエス・キリストが私たちと共におられる」「私と共におられる」「インマヌエル」ということを実感することではないかと思っています。私たちは独りぼっちではない。どんなに辛いとき、どんなに寂しいときでも、どんな境遇にあっても、主が共におられる。そう実感したとき、私たちのうちには無限の力が沸いてきます。聖霊に満たされます。子どもたちはそれを「聖霊」とは呼ばないでしょう。「元気が出てきた」とか「励まされた」ということでしょう。しかし、そこには確かにイエスさまの霊の力が働いているのです。子どもたちにそうした元気が与えられてほしい、ということを願いつつ、共に祈ろうではありませんか。
クリスマスに当たって、私たちはもう一度、最初に羊飼いたちにキリストの誕生の福音がもたらされたということを心にとめ、そして私たち自身もまた「インマヌエル」「主われとともにいます」ということを改めて確信したいと思います。それこそが「喜びの訪れ」「エヴァンゲリオン」なのですから。
<祈り>
天地万物を創造された神さま。あなたは独りのみ子イエス・キリストを世に送り、普通の人間としての私たちと同じ境遇を生き抜くようにされました。それほど、あなたは私たちを愛してくださっています。感謝いたします。どうか私たちが、どんなに苦しいときでも、どんなに悲しいときでも、あなたの愛を信じ、「主われとともにいます」ということを信じて生きていくことができますように、また、その喜びを多くの人々と分かち合うことができますようにお導き下さい。