2007/2/11 顕現後第6主日・日本聖公会組織成立記念日
旧約聖書:エレミヤ書17:5−10
使徒書:コリントの信徒への手紙一 15:12−20
福音書:ルカによる福音書6:17−26
幸いなるかな
今日は日本聖公会組織成立記念日です。日本には明治になる以前から英米の聖公会の宣教師が宣教活動を始めていましたが、明治22年(1887年)2月11日、当時日本で宣教していた英米の宣教師と日本人聖職、そして信徒代表が大阪で総会を開き、正式に日本における聖公会として発足したわけです。ですから今日で、120周年ということになります。このテモテ教会はそれからまもなく誕生しています。その間に、私たちの先輩は一方で失敗もしましたが、神の恵みのもとで尊敬に値する立派な仕事をたくさんしています。その中には、立派な聖職者もおられますし、また、その他の分野で今では有名人に数えられる人もおられます。例えば滝廉太郎。彼も、聖公会で洗礼を受けた信徒です。そして、詩人として活躍した山村慕鳥も聖公会の信徒であり、しかも伝道師でもあります。
彼は1884(明治17)年、群馬県に生まれ、複雑な家庭環境と貧困のため、11歳で小学校中退を余儀なくさ、その後、働きながら教会学校に通い、学びます。当時の教会学校は本当に学校としての役割も果たしていたようで、その中で聖書を学びながら、その他の勉強もしたのです。18歳で前橋聖マッテア教会にて受洗。東京・築地の聖三一神学校に進み、23歳で日本聖公会の伝道師となります。その伝道活動の傍ら、萩原朔太郎、室生犀星と人魚詩社を設立して詩人として活躍を始めます。非常に革新的な詩を発表して、口語自由詩を完成させますが、当時の文壇には容れられず、排斥され苦しんだと言われます。キリスト者としても、真剣に神を求めるがゆえに「教会に於て上級聖職と相容れず、家具蔵書の一切を売り飛ばし……身をもつて走つた。全所有として懐中に一冊の赤くして小さきボードレールがあつた。」(『半面自伝』より)と自伝に書かれています。気性の激しさがうかがえます。34歳で結核に倒れ、闘病生活が始まります。しかし、非常に貧しい生活の中で十分な治療もできません。そのうちに、聖公会からも仕事ができていないという理由で俸給を停止され、友人の室生犀星らの援助で童話や詩集を発行して生活を支えます。やがて病状が悪化し、40歳の若さで生涯を閉じます。
彼はたくさんの詩を残していますが、その詩の中にこんな詩があります。
「妻よ子どもたちよ
よろこべ
このまづしさを
このくるしみを
すべてはこのさんたんたるどん底から来る」
貧しさこそが慕鳥の原点であった、とでも言いたげな詩です。しかしそこには悲惨さは感じられません。むしろ、自分の境遇をあえて引き受け、その中で堂々と生きていこうとする楽観主義を感じるのは私だけでしょうか。
小学校の教科書で学んだような気がする「雲」の一部を読みます。
「丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる(…)
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平《いはきたひら》の方までゆくんか」
さて、今日の福音書に目を向けてみましょう。 「幸いなるかな」が繰り返し語られる「山上の説教(山上の垂訓)」は、マタイ福音書の中で飛び抜けて有名な箇所だと思います。この同じ伝承に基づいてルカ福音書に記されているのが、今日読んでいただきました福音書の「平地の説教」というところです。マタイ福音書の「山上の説教」ほど有名ではなく、簡潔な内容になっていますが、簡潔なだけに、イエス・キリストの福音が非常に明快に示されていると言えるでしょう。その最初の「幸いなるかな」は「幸いなるかな、貧しき者」です。貧しい者が幸いであるというのです。マタイ福音書では「心の貧しい者は幸いである。」と幾分精神化された形で語られています。この場合、「心が貧しい」というのは、日本語から表面的に想像するような「貧弱な心」という意味ではなく、精神において清貧を表している者、神の前にへりくだる心を表しているわけです。豊かな人々もたくさんおられた初代教会の状況を考慮した表現だとも言われています。しかし、ルカによる福音書は端的に「貧しい者」とだけ語っています。どうしてこんなことが言えるのでしょうか。貧しさを理想化しているのでしょうか。あるいは、「貧しくても幸せだ。だから我慢しなさい。」と言っているのでしょうか。昔、四畳半でも幸せな人もいる、と言った政治家がいましたが、そのような発言は無責任のそしりを免れないでしょう。イエスさまのこの言葉を、そうした意味で批判する人々もいます。しかし、わたしはそれを別の角度から、つまり、イエスさまは本当に貧しさを経験されたからこそ、心の底から「幸いである」と言われたのではないかという角度から学んでみたいと思うのです。イエス・キリストは、神の子でありながら、ふつうの、というよりはむしろ下層の大工の家に生まれました。ご存じのように生まれたときは、糞尿の臭いの立ちこめていたであろう家畜小屋でした。父親のヨセフは比較的早い時期に亡くなり、長男のイエスさまは家族を支えるために大工の仕事をされたに違いありません。そして、宣教活動に入られたイエスさまの公生涯は、おそらく極貧の生活であったろうと思われます。時には食事に招かれることもあったようですが、多くの弟子たちと共に旅を続けられていたときは、きっと空腹を覚えられたこともしばしばだったでしょう。ルカ福音書6:1以下には、安息日に弟子たちが麦の穂を積んで食べた、そしてそれをファリサイ派の人々が非難したということが書かれていますが、よほどお腹が空いていたと思われます。また、ルカ福音書9:58(マタイ8:20)には、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自分のこと)には枕するところもない。」とその宣教の旅の厳しさを弟子たちに語っておられます。そのようにイエスさまご自身が貧しさのただ中におられたからこそ、その中で与えられる神の恵みを大らかにたたえられたのではないかと思うのです。また、これもルカ福音書とマタイ福音書に共通している記事ですが、イエスさまは「思い悩むな」と次のように教えておられます。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなた方の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。」
山村慕鳥もまた、心を尽くして神を愛する者として、極貧の中にあってイエスさまのそのような底抜けに明るい楽観的な精神を植え付けられていたと言うことができるでしょう。
幸いなのは、貧しい人々ばかりではありません。「今泣いている人々は幸いである。あなた方は笑うようになる。」イエスさまもまた、多くの悲しみを経験されたことでしょう。マルタとマリアの弟ラザロの死に直面したとき、イエスさまは涙を流されましたご自身がお生まれになったとき、ベツレヘムの男の幼子が皆殺しにされたということを、大きくなられてからいつかはお聞きになったでしょう。そのとき、どんなお気持ちだったでしょうか。また、重い皮膚病にかかった人をごらんになって、「腸が千切れるような」思いをされました。そのような幾多の悲しみをご存じだからこそ、その中で与えられる神の慰めと恵みがどれほどの幸せであるかをご存じだったのです。貧しい人、悲しんでいる人に、神は不公平なまでの恵みを与えてくださるということを、イエスさまは人間としてのご自身の経験からご存じだったのではないでしょうか。
今日のエレミヤ書には、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」と書かれています。人生には思いもかけない出来事、悲しく辛い出来事が起こります。しかし私たちはそれをどうすればよいのか分かりません。また、自分で自分の心が分からなくなることさえあります。神のみが私たちの心の奥底を見極め、正しい解決方法を示してくださるのです。さらにエレミヤ書は、「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。」と書いています。今日の詩編である詩第1編にも、同じような言葉があります。「流れのほとりに植えられた木のように‖ 時が来れば実を結び、葉もしおれることがなく‖ この人は何をしてもすべては実る。」はじめは乗り越えられないように思える出来事もあるでしょう。しかし、神は常に私たちを見守り、恵みを注いで下さいます。水のほとりに植えられた木は、水に渇くことがありません。水のほとり。それは私たちクリスチャンにとっては教会生活ではないでしょうか。週に1回のリズムでみ言葉を聞き、聖餐の恵みに与る。そのことによって私たちは、この砂漠のような世の中で、枯れることなく、命をいただき続けることができるのです。恵みの雨のように、また絶えざる川のように、私たちに注がれるその恵みによって生かされていきたいものです。
<祈り>
恵み豊かな神様。あなたは今から150年前に日本に宣教師を派遣し、私たちに御子イエス・キリストの福音を伝えさせてくださいました。そして、120年前、日本聖公会が成立いたしました。この間にあなたから与えられた豊かな恵みに感謝すると共に、私たちが信仰の先輩たちに学び、これからもこの日本の地であなたの宣教の器として用いられることができますように、私たちをお導き下さい。
御子イエス・キリストは、この世において、あらゆる苦しみ、貧しさも悲しみもすべて経験され、私たちとそれらを分かち合ってくださいました。また、貧しさや苦しみの中にあってもあなたの恵みを受けて、胸を張って生きていくことを教えてくださいました。どうかわたしたちも、あなたの恵みによって生かされ、水のほとりに植えられた木のように、本当の幸せを結ぶことができますように。