2007年12月16日 降臨節第3主日(A年)
 
旧約聖書:イザヤ書35:1-10
使徒書:ヤコブの手紙5:7-10
福音書:マタイによる福音書11:2-11
 
忍耐と喜び
 
 クリスマスが近づいて参りますと、私は子どもの頃のクリスマスを思い出します。12月にはいると落ち着かなくなり、やがて終業式、もうすぐクリスマスです。父親がどこからかもらってきたもみの木を、手持ちのモールや脱脂綿(雪の代わりです)で飾り、一応色電球で飾ります。星などの飾りは手作りのものもありました。今と比べるとお粗末なクリスマスツリーだったかも知れませんが、精一杯の飾り付けでした。そのツリーの根元に家族がそれぞれのクリスマスプレゼントを置くのです。家族全員が家族全員にプレゼントをするというのが我が家の習慣でした。父親がサンタクロースになることもありましたが、たいていの場合は、数日前からこのツリーの根元がみんなのプレゼント置き場になるのです。もちろん、クリスマスになるまでは開けません。ワクワクして待つそのときの気持ちは今でも忘れられません。決して贅沢なプレゼントではありませんでしたが、家族が集まってそれぞれ感謝の気持ちを込めたプレゼントを贈り合い、互いに包みをほどき、メッセージを読む。その一瞬を待ち望んだものでした。
 そんな思い出を持つことができるのは、本当に幸せなことだと思います。そのような時間を持つことができない家庭環境では、クリスマスは嫌い、という子どももいるでしょう。また、現代の消費社会で、あまりにも安易に欲しいものが手に入るために、待つ喜びを知らない子どもたちが増えているのではないかと心配します。簡単に手に入ることに慣れっこになってしまうと、喜びがなくなり、逆に手に入らない場合に待つことを知らず、不平や不満がたまります。
 考えてみますと、私たちの人生でも、願ったことがなかなか実現しないことがあります。おもちゃや物などはすぐに手に入るかも知れないけれども、目に見えないものはそうはいかないのです。若い方なら、行きたい学校に行けなかったり、就職したい企業に行けなかったりするということを経験されているでしょう。恋愛が片思いに終わって、結婚したい相手と結ばれなかったということもあるでしょう。親になっても、子どもにこう育ってほしいと願うのに、思い通りにならないということもあるでしょう。そう考えると、人生は願いが叶わないことの方が多いのではないでしょうか。それは、祈りが足らないのだ、信仰が足らないのだ、という人がいます。果たしてそうでしょうか。私には、そうは思えません。信じて、信じて祈ったのにうまくいかなかったという人も多くおられるからです。
 「待つ」。ひたすら待つ、ということが大切であると、今日の使徒書は教えています。忍耐して待てというのです。「待つ」というのは決して消極的な態度ではありません。イエス・キリストの再臨を待つのは、神の栄光に与るためですが、私たちの人生においても、「待つ」というのは意味を持っています。一つには、「待つ」という時を経験することによって、自分の願いを点検し、それが神さまの御心にかなった願いであるかどうかを知ることができるという大切な意味を持っているのではないかと思うのです。場合によっては、自分の願いが間違っていて、実は神さまはそれよりもずっとすばらしいものを与えて下さっている、と気づくこともあります。パウロはその体験を、コリントの信徒への第二の手紙の中で、こう語っています。彼は持病を持っていて、それが刺のように彼の肉体に刺さっていたのです。それはまるでサタンの使いのようでした。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」このようにパウロは語ります。彼の目は、いっそう豊かな恵みに対して開かれたということができるでしょう。
 もちろん、待つにつれて、願いがだんだんと強まり、しっかりしてくることもあります。その場合、神さまはその人を強め、きっと願いを実現させて下さるでしょう。ヨハネ第一の手紙には、こんな言葉があります。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」そして、こうも言っています。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」既にかなえられている!それは力強い励ましです。私たちの願いが、よこしまな願いではなく、神のみ旨に適うものであれば、それはすでに実現しているというのです。私たちはただ、それに気づくことができればよいのです。
 今日の使徒書には、イエス・キリストの再臨を忍耐強くまちなさいというすすめの言葉が記されています。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。」「大地の尊い実り」を待つのです。待つことによって、神の恵みの大きさが分かります。待つことによって、自分に与えられたすばらしいたまものに気づきます。そして、神の助けによって願いが叶えられたとき、その喜びは深く、広いものになるのだと思います。
 私は先日、『マリア』(原題は「The Nativity Story」つまり、降誕物語)という新作映画を見て参りました。少女マリアが受胎告知を受け、実際に幼子イエスさまを生むところまでを聖書に従って克明に描いた作品です。その中で、人々がローマとヘロデ王朝の下で圧政に苦しみ、救い主を待ちわびていた状況が、リアルに描かれていました。兵士に税金を強奪されていく有様も残酷でしたが、一人の年老いた羊飼いがベツレヘムに行く途上のヨセフとマリアを呼び止めて、たき火で暖まらせ、つくづくと述懐する場面も印象的でした。「わしの一生の中で、よいことなど何一つなかった。神さまは何も与えてくれなかった。」しかし、その羊飼いは、荒れ地を旅する二人に暖をとらせる優しさを与えられていました。そのおかげでしょうか、彼は、救い主イエスの誕生を真っ先に知らされ、真っ先に幼子イエスさまに出会う栄誉を担うことになったのです。マリアは幼子を差し出して言います。「さあ、すべての人々の救い主です。」羊飼いは、イスラエルの主な産業である遊牧の担い手でありながら、羊と共に方々をさすらわなければならないということから、汚れた人たち、律法を守れない人たちとして差別され、苦しんできました。その羊飼いこそが、実は神さまの恵みにもっとも近いところにいたのです。
 イエス・キリストの先駆者として遣わされたヨハネもまた、救い主キリストを待ち望んでいました。ヨハネは獄中にあって、イエス・キリストの活動について噂を聞いていました。かつて自分が洗礼を授けたあの方。あの方こそきっと救い主メシアに違いないという思いはあったものの、迷いもありました。そこで、弟子たちを送って確かめさせるのです。イエスさまは、直接自分がメシアであるとはお答えにならず、現に起こっていること、見聞きしていることを伝えなさいと言われます。それは、癒しと解放と命の出来事でした。それは旧約聖書に記されている預言の成就でした。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)ローマ帝国とヘロデ王朝の軛はまだ人々を支配していましたが、それを他の地上の支配者に置き換えることによってではなく、神に立ち返り、若いと平和を実現することによって、本当の解放と癒しを実現する道を、イエスさまは示して下さいました。それは、喜びの知らせでした。「福音」という言葉は、「よい知らせ」という意味ですが、まさにイエスさまが来られ、この地上でなさったことは、癒しと解放とを待ち望んでいた人々にとっては、「よい知らせ」Good Newsだったのです。
 今日の旧約聖書のイザヤ書35章は、バビロン捕囚からの解放の預言です。そこには喜びが満ちあふれています。イスラエル民族は、紀元前10世紀に南北に分裂し、北のイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされ、南のユダ王国の指導者たちは、数千人、数万人とも言われる規模で、バビロニア帝国の首都バビロンに連行され、収容所生活を余儀なくされました。それを「バビロン捕囚」というのですが、それはおよそ50年間続きました。ユダヤの人々はどんなに解放を待ちわびたことでしょうか。その日は遠くない、必ず主は解放して下さる。そして、エルサレム(シオンというのはエルサレム神殿のある丘のことです)への帰還が実現する。その喜びを、預言しているのです。そしてその預言通り、人々はエルサレムへと帰ることができたのです。
 では、私たちが帰るべきところとはどこでしょうか。それは、神さまの懐です。この世での生を終えて帰って行く天国もそうですが、この世で営んでいる生のただ中で私たちが招き入れられる神さまとの正しい関係、和解の関係もそうです。自分自身の方にではなく、神さまの方に私たちの心が向かうとき、私たちは平安のうちに、また喜びのうちに毎日を生きることができ、周りの人々に神さまの愛を伝えることができます。その神の懐への道筋を示して下さったのが、イエス・キリストです。そのイエス・キリストのご降誕を私たちは待ち望んでいます。そして、その中には、イエスさまが示して下さった神さまとの正しい関係にこの世界全体が招き入れられることを待ち望むということが含まれています。現在の不正義と戦争、飢餓と貧困に満ちた世界ではなく、正義と平和、豊かさに満ちた世界を待ち望みつつ、クリスマスを迎えたいと思います。
<祈り>
主よ、あなたは2000年前にこの地球の片隅、ユダヤの地に全人類の救い主イエス・キリストを誕生させて下さいました。イエス・キリストは、私たちに本当の解放、罪からの解放、死からの解放を告げ知らせて下さいました。どうか、私たちがこの降臨節の期間に自らを省み、心を空しくしてイエスさまのご降誕を待ち望み、喜びをもって降誕日を迎えることができるように、毎日の生活において私たちをお導き下さい。