2007/1/1 主イエス命名の日
旧約聖書:出エジプト記 34:1-9
使徒書:ローマの信徒への手紙 1:1-7
福音書:ルカによる福音書 2:15-21
主イエスのみ名
みなさん、新年あけましておめでとうございます。お正月早々から、このようにみなさんとご一緒に礼拝を献げることができて、本当に感謝です。
今日は教会の暦の上では、「主イエス命名の日」という特別の日です。幼子イエスさまがお生まれになって8日目に「イエス(「主は救い」という意味)」と名付けられた日です。ユダヤ教の律法では、男児の場合は出産後8日目に割礼(性器の包皮の一部を切り取る手術)を施さなければならないことになっており、そのときに「イエス」と名付けられたのでした。
みなさんはそれぞれ名前をお持ちです。「誰々さん」と呼ばれるとそれは自分のことだということがすぐ分かります。名前を聞いたり見たりすると、その人の顔や声が思い出されます。それに、私たち一人ひとりの名前には私たちをこの世に生んでくれた親たちの思いが込められています。わたしの名前は「聰」と言いますが、これは親たちが「聡明であるように」と願ってつけたものです。この教会には幸子さんや幸子さんがたくさんおられますが、それぞれ「幸せであるように」、あるいは山上の説教の「幸いなるかな」という思いが込められているのではないでしょうか。そうして与えられた自分の名前を大切にするということは、自分を大切にする、自分の命を大切にするということを意味しています。イスラエルの人々にとっても、「名前」というのは特別な意味を持っていました。日本でも「名は体を表す」と言いますが、人や物の「名」はその本質を表すものと考えられたのです。例えば創世記で、アダムがあらゆる動物に名をつけるところが出てきますが、それは単に名前をつけるということだけではなく、それぞれの生き物をあらしめる、その存在を定義するということでもありました。また、モーセが初めて神の啓示を受けたときに、神の名前にこだわり、「有りて有るもの」(ヤハウェ)という名を知らされたのもそのためだと思います。また、旧約聖書の中では神が「エルサレムにわたしの名を置く」と繰り返し語られており、また、ソロモンが神殿を建てたときも「わたしはこの神殿に、とこしえにわたしの名を置く。」という約束をされているのです。本日の旧約聖書でも「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」と書かれています。私たちが祈るときに、「主イエス・キリストのみ名によって」と言うのも、やはり実はイエス・キリストご自身を通じてということを表しています。昨年話題になった映画で『ゲド戦記』というアニメーションがありましたが、そこでも、魔法使いの能力の一番大切な部分は、「真の名」を知ることにあるとされていました。興味深い話ですね。ですから、今日はイエスさまがそのお名前の通り「私たちの救い」として、全ての人間の前に宣言されたその日だということができます。そして、1月6日は顕現日と言って、すべての人間の前に実際のそのお姿が露わにされたことを記念する日になっているのです。
さて、今日の福音書の中で私たちが注目しなければならないもう一つの事実があります。それは、幼子イエスさまがユダヤの他の赤子と同様に、「割礼」を受けたという事実です。割礼という儀式は、今でもアフリカなどの文化圏に残っていることもありますが、信仰とはなんの関係もない、人間が作り上げた文化的な伝統です。パウロは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」(フィリピの信徒への手紙3:2)と言って、それが信仰にとっては何の意味もないことを指摘しています。しかし、イエスさまはその割礼を受けられた。昨日の使徒書であるガラテヤ書で、パウロはそのあたりのことを「神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」と書いています。それは、イエス・キリストが真の人間として生まれる、つまり「受肉」した当然の結果でした。イエスさまは、ユダヤの下層の人々の間に生まれ、彼らと同じ生活をし、同じ労苦をなめられたのです。それが、神さまが私たち人間を憐れみ、愛する仕方だったのです。イエス・キリストはその生き方を貫いたことで、ユダヤの指導者から憎まれ、十字架上で磔にされます。しかし、神はそのイエスさまを復活させられることによって、そのご生涯を全面的に肯定されたのでした。
来週のイエスさまの洗礼という出来事についても言えることですが、イエス・キリストは神の子として、真理を体現する方として、私たちから超然としておられたわけではありません。いわばお高くとまっていたわけではないのです。貧しい人々と同じように泥まみれ、汗まみれになって働き、ファリサイ派や祭司たちから罵られ、軽蔑されて、とうとう殺されてしまったのです。ここに私たちは、神さまがどのようにして私たち人間を愛してくださっているかを見ることができます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるとおりです。では、その神の愛に応えて、私たちはその愛をどのようにして人々に伝えていけばよいのでしょうか。
イエスさまは、ユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の男児としてその文化的習慣に従って割礼をお受けになりました。私たちはこの日本文化という中に生まれ、あるいは暮らすようになって、その文化にどれほどの関心を払っているでしょうか。かつて、日本に宣教されたキリスト教は、日本の文化的伝統や霊性にほとんど関心を払ってきませんでした。かえって、それらを異教的なものとして排斥してきました。それが必要な時と状況があったことは確かです。容易に屈すると、キリスト教の福音の中心を失ってしまうこともあるからです。しかし、人々、ことに社会の底辺で苦労している人々の文化や習慣からあまりにもかけ離れ、いわゆる「ハイソサイエティ」の宗教になってしまったのではないかという反省が日本のキリスト教会全体に必要なのではないかと思います。正しいことでも、人々の文化や習慣からかけ離れていては、「宝の持ち腐れ」です。もっと、もっと人々の生活と密着し、地域の文化と結びつき、人々の心の奥深くに入っていかなければならない、と思います。先日、韓国の神学者20数名が京都を訪れて、日韓双方の神学者や協会関係者が意見を交換する機会がありました。わたしもその場に出席させていただき、そのやりとりを聞いていて、韓国の教会は人々の生活や心と結びつくために本当に大きな努力を払っている、という感想を持ちました。例えば、19世紀末の朝鮮半島に東学党という運動がありましたが、彼らは天に仕え人に仕える、そして少数者と弱者を大切にする考えを広めましたが、韓国の神学者の中にはその東学の思想に学び、民衆の中に根を下ろすことを真剣に追求した人もいます。軍事政権による迫害の下で働く人と共に信仰を守り抜いたクリスチャンもいます。私たちはそんな韓国キリスト者の姿勢に学ぶことができるのではないかと思います。もちろん、文化の違いもあり、歴史の違いもあり、同じことができるわけはありません。また、同じキリスト教と言ってもさまざまなグループや傾向があり、一概に論じることはできません。ただ、イエスさまがユダヤ人として生きられた、その生き方から私たちが学ぶとき、お隣の、ほとんどキリスト教国と言ってよい韓国の教会から学ぶところが大いにあるのではないかと思うのです。
もう一つ、私たち人間同士が出会うときを考えてみましょう。イエスさまがユダヤ社会の中で生まれ、その底辺の人々と交わって人生を生きられたということは、人々のところにまで自らを低くし、そしてそこから共に生きる道を追求する、そして共に神を仰ぎ見るということを意味していると思います。それと同じように、二人あるいは数人の人間が出会うとき、私たちは互いに相手のところにまで歩み寄って、相手を理解し、受容することが大切なのではないでしょうか。そうすることによって、相手も変わり、自分も変わることができます。そうではなく、自分が正しいという思いから一段高いところに立って相手を見下ろすとき、そこには対話も相互理解も生まれません。私たちが自らを低くし、互いに受け入れ会うとき、信頼が生まれ、共同体が生まれます。一昨年、天に召されたテゼ共同体の創始者であり指導者であるブラザー・ロジェのことを憶えておいででしょうか。ブラザー・ロジェは世界の和解のための呼びかけと人々への奉仕を貫かれた偉大な霊的指導者でしたが、黙想のための多くの手引きを書いておられます。その中で、次の言葉に耳を傾けてみましょう。「教会という交わりの中において、キリストを選択するということは、さまざまな形の自己放棄へと人を導きます。人々の上に立とうとする気持ちを捨て去るのは、その一つです。」それはどうしてでしょうか。相手の気持ちに心を向けてみましょう。ブラザー・ロジェはこう言っています。「すべての人は、愛するだけでなく、愛されたと願い求めています。誰かが耳を傾けてくれるとき、いらだちによって生まれた壁や、最近あるいは遠い過去に負った傷は消えていきます。誰かに聞いてもらうこと、それは魂のいやしの始まりです。」つまり、私たちが互いに自らを低くし、相手を受容しようとするとき、そこに癒しが始まり、愛の共同体が生まれるのだと思います。
みなさん。新年にあたって、イエスさまの名前によって祈ること、そして、自らを放棄して互いに受け入れ合うことの意味を、じっくりと考え、これからの信仰生活の中で深めていこうではありませんか。
<祈り>
恵み豊かな神よ。あなたは、独りのみ子をこの世に送り、「主は救い」を表すイエスと名付けられました。私たちは、そのイエスさまの名を賛美し、この上もなく大切なものといたします。どうか私たちも、イエスさまの模範に従い、互いに自らを低くし、受け入れ合い、仕え合うことができるように、私たちをお導き下さい。