2006年2月26日 大斎節前主日(B年)
 
旧約聖書:列王記上19:9-18
ペトロの手紙二 1:16-19
マルコによる福音書9:2-9
 
神の子イエスさまの証し
 
 今日見ていただいた絵本を読めば、イエスさまがまさに神の子としてこの世においでになったことがよく分かります。この罪深い世の中を全く新しくするために、救い主として私たちの中に来られたのです。いつまでも戦争がなくならず、飢えや寒さで苦しむ人々が後を絶たない、いやそれどころか増え続けている。そのような世界に対して、今もイエスさまは語り続けておられるのです。
 さて、本日の福音書は、まさにイエスさまがこの世を新しくする神の子であることを弟子たちに示すために姿を変えられたという場面です。イエスさまの姿が変わり、栄光のお姿になられたというのです。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(9:2−4)。十二使徒の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は特に大切な場面で主イエスに同行を許され、その証人となります。受難の夜にも、ゲツセマネでの祈りの時、主はこの3人を伴って行かれます。イエスさまと共に語り合っていたモーセは律法を象徴します。そして、エリヤは預言者を代表しています。「律法と預言者」は聖書(旧約)全体を指す言葉として用いられますから、この場面でのモーセとエリヤの登場はイエスにおいて起こる事柄が聖書(旧約)全体によって証しされていることの表現となっているわけです。そしてこの後、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえます。
 しかし、それは同時に受難への道行きの始まりであるとも言えます。福音書において、この変容貌の記事はイエスの生涯における分水嶺の位置を占めています。マルコ福音書はこの9章を境に前半と後半に分けられ、後半においてはイエスさまの言葉と行いは、受難の時に向かってまっすぐに進み始めるのです。ですから大斎節前主日こそこの箇所が読まれるのにふさわしい日であるということができるでしょう。
 ところが、イエスさまはご自分が神の子であることを、決して人に言ってはならない、とペトロたちを戒めます。これは一体どういうことでしょうか。ご自分の姿が変わり、天から声がする…これほどはっきりした神の子の証明があるでしょうか。それを目撃した人は、誰でも信じるでしょう。しかし、イエス様はそのような形でご自分を神の子であると証明しようとはされませんでした。そうではなく、多くの人々に罵られ、唾を吐きかけられ、とどのつまりはあの残酷な十字架刑につけられるという道を歩むことによって、本当に苦しむ人々の友となる、そういう仕方でもって神の子としての証しとされたのです。イエスさまはヨハネから洗礼をお受けになり、公生涯を始められるに当たって、荒野で40日、40夜の間サタンから誘惑を受けるという試練を受けられましたが、そのときにも、サタンが「神殿の屋根から飛び降りてみろ。神が天使に命じて助けてくれるだろう。」と誘うのに対して、それをきっぱりと退けられました。また、十字架にかけられたとき、祭司長や律法学者たちが「十字架からおりてこい。そうしたら信じてやる。」と嘲ったのに対しても、その誘惑に陥りはされなかったのです。そのような仕方で、神の子であるということを証明するのは、容易かったかもしれません。しかし、それは決して本当の神ではありません。イエスさまがそのご生涯を通じて選ばれた道は、徹底して私たち人間と同じ立場に立ち、苦しむ人、悩む人、貧しい人、病める人の苦しみ、悩みをご自分のものとして引き受けられ、進んで私たち人間のために犠牲になるという道でした。そのことを通じて、神は私たちを限りなく愛しておられることを証ししてくださったのです。
 本日の旧約聖書の列王記にも、興味深い話が載っています。それは、預言者エリヤに対して神がどのように語られたかということです。エリヤはイスラエルの人々の間で預言活動をすることに疲れ、絶望し、そこから逃れようとします。そして山の中で神と出会う経験をいたします。そのとき、激しい風が通り過ぎたが、その風の中には神はおられなかった。地震が起こったが、その中にも神はおられなかった。火の中にも神はおられなかった。そうではなく、神の声は静かにささやく声だった。そのように、列王記は記しています。神の声は、華々しくご自分を示されるようなものではなかった。そうではなく、ともすれば喧噪の中に聞き逃してしまうかもしれない「ささやく声」として、私たちに語りかけておられるのです。私たちは、雷鳴のように神が私たちを目覚めさせてくれる、と期待するべきではないのです(そのようなことも時にはあるでしょうが)。そうではなく、私たちのすぐそばに、あるいは、私たちの中に、静かに語りかける声、それが神様の声ではないでしょうか。それは、イエスさまが徹底して人間として、そして私たちの友となってくださることによって、神を示してくださったのと共通しています。
 では、なぜイエスさまは栄光のお姿を弟子に示されたのでしょうか。それは、決して人々にご自分が神の子であることを証明しようとしたり、その地位をひけらかしたりするためではありませんでした。そうではなく、イエスさまの道を歩むことによって、私たちもまた、神に近づくことができるという希望を示してくださったのです。本日の特祷の言葉をもう一度かみしめてみたいと想います。「わたしたちが、信(しん)仰(こう)によってみ顔(かお)の光(ひかり)を仰(あお)ぎ見(み)、自(じ)分(ぶん)の十(じゅう)字(じ)架(か)を負(お)う力(ちから)を強(つよ)められ、栄(えい)光(こう)から栄(えい)光(こう)へと、主(しゅ)と同(おな)じ姿(すがた)に変(か)えられますように。」今週から始まる大斎節は、日々の生活の中で繰り返し犯している罪を懺悔し、私たちがイエスさまの模範に従い、自分の十字架、つまり担うべき宣教の責任を自覚するための40日です。どうか、私たちもまた、イエスさまのお姿を仰いで、自分を見つめることができますように。ともに祈りつつ、毎日を生かされていきたいと想います。
 
<祈り>
 恵み豊かな神様。御子イエス・キリストが私たちと同じ姿でこの世にこられ、この世のすべての苦しみを引き受けてくださったことを感謝します。今の世界には、未だに人間同士の争いや不幸が絶えませんが、どうぞイエスさまが示してくださったように、互いに愛し、助け合うことによって新しい世界をもたらすことができますように、あなたの力をお与えください。