2008年12月14日 降臨節第3主日
 
「常に喜べ、絶えず祈れ」
 
 今日の使徒書でありますテサロニケの信徒への手紙一第五章に出て参ります「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」は、私たちキリスト者の日頃の生活態度を示した句として大切な言葉であろうと思います。最初の一句、「いつも喜んでいなさい」は、新約聖書の原文でありますギリシア語の中で最も短い句として知られています。「パントテ・カイレテ」というのだったと記憶しています。
 しかし、この言葉を差し上げたあるご高齢者から、「それはとても難しいことだ」というお言葉が伝わって参りました。たしかに、私たちの現実は、喜ぶどころではない、感謝どころではないということが多いと思います。経済危機、金融危機は社会でもっとも弱い立場におかれている人々、年金生活の高齢者や安定した仕事に就くことができない若者や中高年の人々、女性に襲いかかっています。最近、東京で派遣労働者の集会があり、政府に有効な施策を求める決議が出されたと新聞に報道されていました。新聞を開くと、国際面でも、社会面でも、悲しくなるような記事、眉をひそめるような出来事が載らない日はありません。そんな中で、常に喜んだり、感謝したりするというのは無理なことかもしれません。
 しかし、この手紙を書いたパウロは幸福な日々を送っていたからこのように書いたのでしょうか。パウロは悲しい現実を目にはしていなかったのでしょうか。喜ぶことができない人間の現実を知らなかったのでしょうか。そうではありません。
 パウロが活動していた頃も、人々の生活は、苦しみの中にありました。ご存じのようにパウロは「異邦人の使徒」として、主として海外に居住していた「ディアスポラ(離散)のユダヤ人」、そしてギリシア人、ローマ人などにイエス・キリストの福音を宣べ伝えていました。パウロが活動していた世界はローマ帝国の支配下にありました。ローマは当時繁栄を極め、周囲の諸民族を従え、いわゆる「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」を享受していました。しかし、民衆の生活は悲惨だったようです。また、数年後には「ユダヤ戦争」と呼ばれるユダヤ人の反乱が起こることからも分かるように、ローマの支配下にあった諸民族の不満が高まっていました。その点では現代と似通っているところがあるかもしれません。視覚的には想像するしかないのですが、映画『クオ・ヴァディス』に描かれているローマの様子は私たちの想像力をかき立ててくれます。現代は「パックス・アメリカーナ」と呼ばれる、アメリカを基軸とした世界体制が維持されています。世の中は、物質にあふれ、ごく最近までは景気も回復していると言われていました。しかし、私たちの生活は、人々の生活は、ということになると、最初にお話ししたように、かなり危ない状態にあるのです。世界をみると、戦争の火種があちこちでくすぶっています。パウロがイエス・キリストの福音を伝えていた世界も、似たような状況にあったといえるでしょう。
 しかも、イエス・キリストの福音は、順調に広がっていったわけではありません。苦しみを味わっていた人々は、こぞって信じるようになったと使徒言行録には書かれていますが、迫害もすさまじいものでした。ユダヤ教の支配層からの迫害の手は、パウロがどこにいようと追いかけてきました。ローマ帝国による迫害も始まりつつありました。皇帝ネロの時、多くのクリスチャンが捕らえられ、ペトロもパウロも処刑されたと、その後の伝承は伝えています。ペトロは逆さ十字の刑になり、パウロもおそらくは十字架刑に処せられたのでしょう。パウロ自身の証言に耳を傾けてみましょう。
「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(Uコリント1:8−9)「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Uコリント11:23−27)
 パウロはまさに文字通り苦難のただ中にあったのです。しかし、彼はそれにへこたれませんでした。へこたれなかったというよりは、むしろその中でこそ、神の恵みの豊かさと不思議さを受け入れ、感じ取っていたのではないでしょうか。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(11:30)「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(12:10)私たちが順調にいっているとき、人生において成功したとき、神に感謝するのは当然のことです。「リビング・フォー・パワー」という本が日本で無料で配布されています。その中には、キリスト教信仰に導かれて人生の成功を勝ち取った人々の証と感謝の気持ちがたくさん収められています。それはすばらしいことだと思います。というのも、私たちは人生において成功すると、それは自分の力によるものだと自惚れて、神への感謝を忘れてしまうからです。しかし、私たちが特に感動するのは、苦しみの中でつかんだ喜び、暗闇の中で見いだした光についての証しです。パウロの言葉は、そういう意味で、私たちを大いに励ましてくれるのではないでしょうか?「弱さの中でこそ強い」というのは、言葉の矛盾です。逆説です。論理的には説明できないことです。苦しいときには、神を呪う、神から離れ去るという人もいますが、その方が論理的かもしれません。しかし、苦しみの中で、苦しみの故に神に感謝する人の姿に出会うと私たちは大きな衝撃を受け、感動を覚えるのです。
 よく考えてみますと、イエスさまご自身の生涯、また、イエスさまがこの世にお生まれになった経緯とそれを取り巻く人々の経験それ自体が、苦しみと悩みの中で光を見出し、神の恵みの不思議さに感謝する姿を表してはいないでしょうか。来主日の福音書でありますルカ福音書1章26節以下は、有名なマリアに対する受胎告知の場面です。まだヨセフの許嫁であり、結婚前の体であったマリアに男の子が生まれる。それが、天使のお告げでした。「おめでとう、恵まれた方」と言って天使は彼女を祝福するのですが、どうしてこれが「おめでとう」なのでしょうか。今でこそ、赤ちゃんができてから結婚という方も珍しくはありませんが、当時のユダヤ社会では、これは大きな罪であり、恥辱でもありました。しかも、それはヨセフの子どもではないというのです。未婚の母というだけでも大変なことなのに、許嫁の子どもではない子どもを生むということになると、石打の刑、つまりよってたかって殺されるということを意味していました。マリアもおそらく、「え〜!」と思ったことでしょう。突然の災難のようなものです。彼女は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言って抗議します。しかし天使は重ねて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と言うのです。マリアはその後はすぐに返事をしたことになっていますが、承諾に至る時間はきっともっと長く、苦しみに満ちた時間であったことでしょう。一瞬のことではなく、長い時間がかかったかも知れません。しかし結局、彼女は天使の告知を受け入れる決断をします。「お言葉どおり、この身に成りますように。」英語で言うと、Let it be done to me. と言うのが彼女の言葉でした。ビートルズの有名な曲に Let it be という曲がありますが、これはもちろん、マリアのこの言葉からヒントをえたものです。マリアは苦しみの中から、それは神から与えられた恵みであるとして受け入れたのでした。それはなぜでしょうか。それは、来主日、降臨節第4主日に、もう一度考えてみたいと思います。
 最後に、瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんの「悲しみよ」という詩を読み上げて、祈りに代えたいと思います。水野さんは、1937年に生まれ、9才のとき、赤痢の高熱で全身マヒの体となりました。言葉を話すことも出来ませんでした。そして12才のとき、初めて聖書に触れ、13才で洗礼を受けクリスチャンになりました。母の手助けで、五十音図を瞬(まばた)きで指定する方法で、多くの詩を作りました。1984年、47才で天に召されました。水野源三さんのような信仰を私たちは持つことはできませんし、お互いにそれを要求することはできません。それでもなお、その詩の意味を味わってほしいと思うのです。
 
悲しみよ悲しみよ/本当にありがとう/お前が来なかったら/
つよくなかったら/私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ/お前が私を/この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある/主イエス様のみもとに/つれて来てくれたのだ