2008/2/17 大斎節第2主日
 
旧約聖書:創世記 12:1-8
使徒書:ローマの信徒への手紙 4:1-6,13-17
福音書:ヨハネによる福音書 3:1-17
 
神の懐に帰る
 
 大斎節第2主日の今日、与えられた聖書の主題は信仰と生まれ変わりです。ご一緒にみ言葉に耳を傾けて参りたいと思います。
 学校の教員の間では良くいわれることですが、子どもたちを厳しく叱るにはその前提条件として人格的な信頼関係がなければなりません。経験の浅い教員は、騒ぎ回る子どもたちに負けてなるものかと、相手との関係を考えずに叱りつけることもあります。しかし、生徒との間に信頼関係が築けないうちに叱りつけますと、反発が生じるだけで、それから後関係が築けなくなることが多いのです。かといって、優しいだけではいけない。とても難しい立場に教師は立っていると思います。しかし、信頼関係があれば、少々厳しい叱り方でも生徒は受け入れます。そして、その後ゆっくりと話すことによって、教師が叱ったその理由と今後の解決方法を共に見出すことができるのです。
 神さまと私たちの関係も、これと似ているかもしれません。旧約聖書の時代に、神は私たち人間を救う手段として律法をお与えになりました。人間が神の掟を知るために、律法は必要なものでした。しかし、私たちの心が神の愛から離れ、神に対する人格的信頼が亡くなってしまったところでは、律法は単なる束縛、外的な強制でしかなくなります。ファリサイ派や律法学者たちは、それでもなお、律法の強制によってのみ救いが得られるとして、事細かに定められた決まりを人々に押しつけたのです。律法主義です。今日の使徒書の中でパウロは、「律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。」と教えています。また別の箇所では「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と書いています。律法が不必要だというのではありません。しかし、そこには神さまの愛に対する信頼が前提としてなければなりません。だからこそイエスさまは、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねた律法学者に対して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えられたのです。
 パウロはそのことを、「信仰によって義とされる」という言葉にまとめました。今日の箇所の直前の3章で、「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」と書いています。律法を知らない外国人もイエス・キリストを信じることによって、救われるというのです。また、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による。」と強調しています。そして、今日の使徒書では、もっと分かりやすく「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」と教えているのです。そして、その模範としてアブラハムを取り上げています。
 ここで、「不信心な者を義とされる方」というところを少し考えてみたいと思います。もとのギリシア語で「不敬虔な者」「信心深くない者」という意味の言葉が使われており、これには「悪人」という意味もあるようです。それは、当時のユダヤ教の文脈では、「律法を守らない者」という意味であり、パウロはそれに対する強烈な皮肉として「不信心な者を義とされる」という表現を使ったのでしょう。私は、すぐに親鸞の言葉とされる「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という歎異抄の一節を思い出しました。「善人でさえ救われるのだから、悪人が救われることは言うまでもない」という意味です。「えっ、反対じゃないの」と思うのが普通です。しかしここで言う「悪人」は決して、私たちが考える「悪人」「悪い心を持った人」という意味ではありません。当時の日本の社会状況の中で、お寺にたくさん寄進をし、写経をし、信心行を積むことができる「善男善女」以外の一般の人々、特に下層の働く人々を指していたと言われています。そういう人たちこそ、救われると親鸞は教えたのです。パウロもまた、強烈な皮肉を込めて、当時の律法主義者たちを批判し、「信心深くない者」こそ救われるのだと言っているのです。では、アブラハムの場合はどうでしょうか。考えなければならないのは、アブラハムは、律法が成立する以前の人だということです。モーセの遙か以前の人であり、異教に取り囲まれる中から真の神を探し求め、神への信仰にたどり着いた人です。ですからパウロは、「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」と書いています。割礼とはユダヤ教の律法の中心的な習慣です。イエスさまも割礼を受けられました。割礼を施されたユダヤ人だけが「信心深い」とされていた世の中です。この基準から言えば、アブラハムも「不信心な者」でした。しかし、そのアブラハムを神は認められ、受け入れられたとパウロは語ります。割礼は二義的なものだと言い切り、もっと根本的な神に対する信頼こそが大切なのだと言うのです。それは、律法以前の、人間にとって根源的なあり方ではないでしょうか。
 今日の旧約聖書である創世記12章で、アブラハムは「私が示す地に行きなさい」という、それだけの神の命令に従い、「あなたを大いなる国民にする」という約束を信じて旅立ちました。地名もどのような土地なのかも分からないのです。しかも、75歳という高齢でした。しかし、それが彼の出発点だったのです。ヘブライの信徒への手紙11書8節には、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」と書かれています。ちょうど、日曜日に子どもがどこへ行くかも分からずに、喜び勇んで親と一緒に外出するときのようです。アブラハムは、神がいつも共にいて、守ってくれると信じ、ただ神に対するその人格的信頼によってのみ旅を続けることができたのだと思います。
 今日の福音書に注意を移したいと思います。ニコデモというファリサイ派の議員がイエスさまのところにやってきました。ファリサイ派といっても、彼は決してゴリゴリの石頭ではありませんでした。イエスさまのことを「神のもとから来られた教師」であると認めていました。でも、公然とは来ることができないので、夜中にこっそりと来たのです。いささかほほえましい情景ではありませんか。そのニコデモに対してイエスさまは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と教えます。しかし、ニコデモは「新たに生まれる」という意味が分からず、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」とトンチンカンな質問を返すのです。イエスさまは、生まれ変わるというのは「水と霊によって生まれる」、つまり洗礼を受け聖霊を受けて新しい生き方をする(それこそが、神の方に「向きを変える」真の意味での悔い改めなのですが)ことを教えられます。ニコデモの質問はトンチンカンではあります。しかし、私はそこにも一つの真理が潜んでいるのではないかと思っています。「母の胎内に帰る」ということは、再び子どもに帰る、無垢な状態に帰るということではないでしょうか。もちろん、私たちは赤ちゃんに戻ることはできません。しかし、「第二の無垢」「第二の素朴さ」という言葉があります。私たちは、人生の中でさまざまな体験をし、自分の無力さと罪深さを悟り、どうしようもなくなって、立ち往生してしまいます。それを「砕かれた心」と聖書は表現します。そのとき、私たちは再び神との人格的信頼関係の中に招き入れられ、ただ神の前に自らを投げ出す以外になくなります。それが「第二の無垢」です。「母の胎内に帰る」ように「神の懐に帰る」のです。今から200年以上前、黒人奴隷貿易船の船長として働き、回心して後牧師になったジョン・ニュートン、あの「アメージング・グレイス」の作詞者であるジョン・ニュートンの最晩年の言葉はそのことを印象的に言い表しています。彼についてはいろいろと批判もあるのですが、この言葉は信仰者の真実を表していると思います。
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。
一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」
 単純な事実です。しかしそれこそが、神の懐に帰ろうとするニュートンの真実だったのです。また、今から1500年以上前に活躍した偉大な聖アウグスティヌスの言葉に、「あなたはわれわれをあなたに向けて造られた。そのためわれわれの心はあなたの内に憩わない限り、安らぎを得ません。」という言葉がありますが、それもまた、神の懐に帰るという信仰のあり方を教えていると言えないでしょうか。
 今日の福音書の最後は、とても有名で、私の大好きなみ言葉で終わっています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「一人も滅びないで」というところが心に響きます。神の愛は、すべての人々に注がれています。私たちは、その愛を信じて、神さまのみ手の中に飛び込んでいきたいものです。
<祈り>
天地万物を創造された主よ。私たちは大斎節にあたって、人間の罪というものを見つめ、そこから生まれ変わる道を探し求めています。み子イエス・キリストは、「新たに生まれなければならない」と教えられました。どうか、私たちにアブラハムのような、あなたに対する揺るぎない信頼を与え、無垢で素朴な気持ちであなたの指し示す道を歩むことができるようにしてください。私たちは、時には疑いをもち、不信心に陥り、道に迷ってしまいますが、あなたはそのような不信心である私たちを救ってくださると信じます。どうか、信じて生まれ変わった私たちを、あなたの懐へと迎え入れてくださいますように。