2006/10/22 聖霊降臨後第20主日(特定24)
 
旧約聖書:イザヤ書53:4-12
使徒書:ヘブライ人への手紙4:12-16
福音書:マルコによる福音書10:35-45
 
仕えるとは…
 
 今日の聖書箇所は、私たちの信仰、イエス・キリストという方に対する信仰の中心を表している箇所であろうと思います。よく味わって、み言葉に耳を傾けてまいりましょう。先ず、イザヤ書ですが、いわゆる「苦難の僕」「僕の歌」と呼ばれるところです。ここには「彼」と呼ばれる不思議な人物が登場してまいります。時代は紀元前6世紀、イスラエル民族が50年に及ぶバビロン捕囚からペルシャ王キュロスによって解放され、イスラエルに帰還する頃と思われます。どういう訳か、イスラエルの指導者は帰国することは許されますが、神殿の再建はなかなかうまくいきません。すでにイスラエルの地に住み着いていた民族との軋轢もあり、またペルシャ王国もかつてのユダヤ王国のような国の再建を許したわけではなかったからです。その時代に、「彼」と呼ばれる人物が、自分は何の罪もなかったのに、人々の罪を担って、「屠り場に引かれる子羊のように」黙々と苦難の運命を引き受けて処刑されたために、人々は救われたというのです。この箇所は本当によく味わって読んでいただきたいのですが、ここに描かれている「苦難の僕」が一体誰であるかは、旧約聖書学者の間でも意見が分かれます。しかし、これを読んだそれから600年後の人々が、それはイエス・キリストのことだと考えたのは無理からぬところがあるのではないでしょうか。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」それはまさに、イエス・キリストの姿なのです。
 イエスさまは神の子でありながら、あらゆる苦難と虐げ、あざけりを受けられたと聖書に記されています。今日のイザヤ書の直前のところには「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」と描かれているのです。それは、栄光や名誉とは無縁の、軽蔑され、嘲られ、唾をはきかけられた受難のイエスさまを彷彿とさせます。本日の使徒書であるヘブライ人への手紙には、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と書かれています。それは、王としてお生まれになった方が、謙遜という美徳を発揮して、身を低くされた、というような生やさしいものではありません。もっと、もっと、徹底して、最も低く、最も小さな人々と共に生きられた方なのです。
 今日の福音書は、とても大切な箇所です。ヤコブとヨハネは、ペトロと並んで特別な地位を占めている弟子で、いわば弟子の筆頭格の一人です。ところがその彼らが、イエスさまにとんでもないお願いをしてしまうのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言うのです。いかがでしょうか。ここには私たち人間が一番陥りやすい誘惑が含まれているような気がしてなりません。彼らはイエスさまが栄光の王としてこの世で権力の座につくことを夢見て、その権力の一端に与りたいということを考えていたに違いありません。イエスさまが支配者になれば、自分たちも大臣の椅子はもらえるかも知れない…。私たちはそんな露骨なことは考えないかも知れませんが、やはりこの世的な価値観によって、他人よりも優れていたい、「一番になりたい」、「能力を持ちたい」、「人々に認められたに」、そんな願望に支配されてはいないでしょうか。人間は2人集まれば競争が始まります。どちらかが相手を押さえつけ、優位に立ちたいという誘惑に駆られます。ボンヘッファーという神学者は、『共に生きる生活』という本の中でこんなことを書いています。「キリスト者が一緒に集まると、いつでも必ずといって良いほど、誰が一番偉いのかという考えが、不和の種として現れる。人々が集まるとすぐに、互いに観察し、批判し、品定めをし始めるに違いない。だから、すでにキリスト者の交わりのはじめの時から、目に見えない、しばしば無意識のうちになされる恐るべき争いが起こるのである。」ボンヘッファーは更に、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」というルカ福音書の記事に触れ、「これは交わりを破壊するのに十分である。だから、はじめからこのような危険な敵に注意して、これを根絶することがキリスト者の交わりにとってきわめて重要なことなのである。」と鋭く指摘しているのです。私たちは社会の中でも、そして教会の中でさえ、人よりも強く、人よりも優れた存在でありたい、そんな思いを抱いてしまいます。強い者が弱い者を押さえ込んでしまいます。ですからボンヘッファーは、「仕えることを学ぼうとする者は、先ず第一に、自分自身を取るに足らない者と思うことを学ばなければならない。」と言うのです。
 先週、大阪教区の教区礼拝があり、この教会からもたくさんの方が参加してくださいました。お身体の都合やその他の予定で参加できなかった方もおられると思いますので少しご紹介いたしますと、その礼拝でお説教を担当された京都教区の高地敬主教は「針の穴を通れますか?」というお話をされました。その中で先主日のマルコ福音書10:25に、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだ(ちなみに高地主教のニックネームは駱駝というのです!)が針の穴を通る方がまだ易しい。」というイエスさまの言葉がありますが、これは、私たちに本当に「小さくなる」ことの難しさを教えていると言われました。私たちは本当に小さくなることができるだろうか。「わたしたちは毎日の生活の中でいつも無意識のうちに、何とかして強くあろう、頑張ろうとしています。どちらかといえば大きく強くなろうとしています。特につらいことがいっぱい降りかかってくる時などは、何とかして今の状況を乗り越えようとして、身の丈を大きくしようとしているように思います。ですから余計に小さくなることが難しくなります。小さく柔軟な人でなければ針の穴を通って神様の国に入ることはできません。小さく小さく低く低くなっていく。」高地主教はそのように語られました。そして、「<私は人よりも謙虚だし、毎日人のお世話を一生懸命しているし、社会の不正義とも懸命に戦っているし、小さくされた人と連帯しようとしているし、つらい目に遭っていることでは人には負けない>と考えた瞬間に、私たちは強く大きくなってしまっている。」と言われました。その話を聞いていた日本ボランティアセンターの藤屋理加さんは、礼拝後に、「自分たちは海外の子どもたちや貧しい人々を支援している、そんな立派な活動をしているんだと思った瞬間に、私たちは相手の人々を見下す態度をとってしまうことになるのです。」と自戒の念を語っておられましたが、藤屋さんのそのようなしなやかな感性こそが、人より優位に立ちたいとする私たち無意識の願望に対する歯止めになるのだと思いました。
 平安女学院の教授であり、臨床心理学者でもある工藤信夫先生は、この支配・被支配を抜け出た人間関係の形成を説いておられます。工藤先生は、「奉仕」というと何か困っている人のために何かをしてあげるという行動を示すと思われがちだけれども、実は、もっと大切な奉仕があると、ボンヘッファーを引用しながらこんな風に説いておられます。キリスト者の奉仕には、@言葉を慎むという奉仕、A謙虚という奉仕、B聞くという奉仕、B積極的な助力という奉仕、D重荷を負うという奉仕、Eみ言葉の証しという奉仕、F権威の奉仕、があり、実は最初の三つが非常に重要であるというのです。神さまの導きによって人間同士が出会い、関係を結んでいくとき、最初の三つの奉仕がなければ、関係そのものが築けない、歪になってしまうということではないでしょうか。私たちは相手に投げかける言葉を慎むことによって、まず第一歩を踏み出します。現代社会では、容赦のない言葉を投げつけることによって大打撃を相手に加え、そのことによって優位に立とうとする人たちがいます。親子の関係でもこのことは現れてきます。「子どもの悪いところばっかりを責めて、良いところをほめてあげることができない。」そんなお母さんの声も聞きます。そして、一旦築き上げた人間関係も、相手よりも自分を優れた者と思うプライド、傲慢というサタンの力によって簡単に崩れてしまうのです。聖パウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3-4)と諭していますが、これこそ、「互いに仕えあう」ことの基本になければならないというのです。工藤先生は臨床心理学者ですから、医者と患者の関係についても突っ込んだ考えを示しておられます。臨床医はなかなか患者の訴えに耳を傾けず自分の判断で相手を判断しようとします。夫も妻の言うことになかなか耳を貸そうとはしないものです。親は子どもの言うことを本当には聞こうとしません。学校の教師も同じです。みな、自分は相手より優れたもの、相手より上に立つものであるという無意識の判断があるのではないでしょうか。それが正しい関係を妨げているのではないだろうかと工藤先生は指摘します。
 さらに、「聞くという奉仕」です。私たちが人の話を聞くとき、何かを提供しなければならない、何か良いアドバイスをしなければならない、と思いがちです。しかし、「語るよりも、聞くことの方がより大きな奉仕」なのです。神は私たちに二つの耳と一つの口を与えられた、ということは、聞くということがいかに大切かを教えています。兄弟姉妹に聞こうとしない者(私も含めて)は、やがて神にも聞かなくなり、神のみ前においても、いつもただ語るだけの人になってしまうのです。
 私たちは、「人に仕える」ということを、様々な状況、様々な文脈で理解することができると思います。そして、その中で、イエスさまの「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という教えの意味をしっかりと毎日の生活と人間関係の中で理解していきたいと思います。
<祈り>
 いつも私たちを見守り、豊かな恵みを注いでくださる神さま。感謝いたします。私たちは人々との関係を築くときに、ともすれば相手よりも優位に立ち、自分を相手よりも優れた者と思いたいという誘惑に駆られます。しかし、み子イエスさまが教えられたように、私たちは自分を小さく、低くすることによってのみ、正常な人間関係を築くことができます。どうか、私たちの傲慢をくじき、私たちが出会う人々に謙虚に耳を傾け、人に仕えることができるようにお導き下さい。