2006/12/17 降臨節第3主日(C年)
旧約聖書:ゼファニヤ書3:14−20
使徒書:フィリピの信徒への手紙4:1−7
福音書:ルカによる福音書3:7−18
厳しさから喜びへ
−洗礼者ヨハネとイエス・キリスト−
降臨節第2主日と第3主日の福音書には、洗礼者ヨハネが登場いたします。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者、いわばイエス様の露払いですから、イエス様のご降誕を心待ちにする降臨節にはふさわしいテーマだと思います。
ルカ福音書によれば、洗礼者ヨハネはイエス様のお母さん、マリアの親戚であるエリサベトと祭司ザカリアの間に産まれていますので、イエス様の親戚筋に当たり、ほんの少し年上ということになります。天使から男子の誕生が告げられたとき、両親はかなり年配でしたので、二人とも半信半疑、とくにお父さんのザカリヤは「私は老人ですし、妻も歳を取っています」と反論します。そのためか、ザカリアはヨハネが産まれるまで口がきけなくなります。ヨハネが誕生して神殿で名前をつけるときになって、ザカリアの口が開いて話せるようになったと聖書には記されています。その時にザカリアが預言した言葉が、朝の礼拝でも用いられる「ザカリアの賛歌」です。成人いたしましてからは、罪の悔い改めを呼びかける洗礼運動を始めます。当時のユダヤ社会には、社会の腐敗とローマ帝国の支配を糾弾し、人々に神の律法に立ち帰るしるしとして水による洗礼(一種の清め、禊ぎ)を施す洗礼運動が広まっていました。エッセネ派と呼ばれるグループも有名でしたが、ヨハネはそうした洗礼運動の中でも最も人気のある有名な指導者でした。その風貌はと申しますと、マルコ1:6節には、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」と記されています。このような粗末な服装をするというのは、神の前におけるへりくだりと悔い改めのしるしでした。また、マタイ福音書の3章7節以下を見ると、ファリサイ派やサドカイ派を厳しく批判し、人々に激しく悔い改めを迫る説教を行ったと記されています。世の中の不正や罪に対しては厳しい裁きの言葉を語ったことが分かります。
では、ヨハネが目指した社会、人々に立ち帰ることを求めた神の律法とは一体なんでしょうか。当時のイスラエルは、ローマ帝国の属州とされ、ローマ帝国とユダヤの支配者から二重の支配を受けていました。ユダヤ教はサドカイ派やファリサイ派といった様々な分派に分かれていましたが、神とイスラエルの民の契約を守るという考え方では一致し、程度の違いはありましたが、様々な律法を守ることで救いが得られるという信仰を持っていました。本来ユダヤ教の律法とはモーセの十戒を始めとする神の戒めであって、人間が神の恵みの内に生活する上でどうしても必要なものでした。しかし、だんだんと煩雑になり、神の掟というよりは人間の掟、人々を束縛し支配するための道具に変わってしまたのです。当時のユダヤ教には口伝えにされたものを含めて実に613もの戒めがあったと言われています。こうした細々とした掟を完璧に守る人こそ、正しい人だとされていたのです。いわば、外的な掟で自らを縛ることによって、神様の命令に従おうとしたのであります。
今日の福音書にあるように、洗礼者ヨハネは、サドカイ派やファリサイ派の偽善と欺瞞を厳しく批判し、悔い改めを迫りましたが、苦行に頼り、水による洗礼以外には救いへの道を明らかにすることはできなかったようであります。ある意味ではヨハネは外的な律法を徹底しようとしたのかもしれません。
ではイエス様はどうでしょうか。イエス様は荒れ野での40日間の断食などの苦行もなされましたが、何よりもそのご生涯を通して、多くの人々に救いと癒しの喜びを与えられました。イエス様の周りには、きっと賑やかな、喜びに満ちた笑い声と話し声が絶えなかったのではないでしょうか。イエス様はその喜びを婚宴に譬えておられます。また、「大食漢で大酒のみ」と陰口を叩かれるほど、人々としばしば食事を楽しまれました。
イエス様の周りには子供たちも集まってきました。「天の国は子供たちのものだ」と教えておられます。子どもたちは、律法を知りません。しつけも行き届いていません。ですから当時の社会では子どもは取るに足らない者、これから教え込まなければならない者として軽視されていました。しかし、イエスさまは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)と教えられたのです。
そして何よりもまず、イエス様は病気の人、悩む人、苦しむ人、そして律法を守るすべも知らない「地の民」と呼ばれる人々の友となり、解放の喜びを告げられました。それは本日の旧約聖書ゼファニヤ書に示されているエルサレム、イスラエルの民の喜び、バビロンでの囚われの生活から解放された喜びと共通する喜びでありますが、さらに大きく、広く、ユダヤ人だけでなく、すべての人々に告げられた福音(良い知らせ)なのです。イエス様は人々を外からの規則である律法によって縛ることはなさいませんでした。そうではなく、弱く何もできない人、規則によってがんじがらめになっていたユダヤ社会からはじき出された人々にも、内から生まれる信仰による救いを告げられたのです。
洗礼者ヨハネは、善を求め、正義を求める人間の側の最善の努力を表しているということができます。律法、つまり規則や、苦行、つまり人間の必死の努力は、私たちにとって必要なものかもしれません。人間は弱いものですから、規則がなければ社会は崩壊するかも知れません。しかし、規則はともすれば硬直し、人間を縛り抑圧する掟に変質します。また、私たちには努力だけではどうしようもないこともあります。人間の力の限界に直面するのです。あるいは、努力して正しさを得た場合には、それゆえに、他人を裁き、非難することにさえなるのです。その洗礼者ヨハネの限界を突き破り、まったく違ったところから、つまり神さまから送られてきた喜びの福音を携えてこられたのがイエス・キリストだったのです。マタイ福音書11章11節には「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」という言葉がありますけれども、イエス様の出現は、人間の知恵や努力を超えたところから来る全く新しい、思いもかけない神さまからの贈り物でした。ヨハネはイエス・キリストの露払いとして人々に悔い改めを迫り、洗礼を授けましたが、イエスさまは聖霊と火で洗礼をお授けになるとヨハネは言っています。ヨハネからイエスへのバトンタッチ。それは、律法から恵みの福音へ(イエス様はそれを別のところでは律法の完成と言っておられます)、束縛から自由へ、罪からの解放への根本的な転換だったのです。
皆様もご存じのように、今、学校現場はいろいろな意味で大変な状況にあります。学校での人間関係のつまずきや親子関係、様々な問題で子供たちは苦しみ、悩んでいます。私は、プール学院中学校・高等学校のチャプレンもしておりますので、そうした子供たちの状況にふれることも多いのですが、先日もある生徒が「自分の生きている意味が分からない」と言って、本当に暗い顔をして会いに来ました。「生きている意味」を考える…それは、とても素晴らしいことのように思えます。しかし、その彼女たちの思いの背景にあるのは、この競争社会の中でなんとしてでも「自己実現」をしなければならないという強迫観念のようなものではないかと私は感じています。ある方はそれは「〜ができる。故にわれあり」だという価値観だと言っておられます。自分という命が存在する、生きているからではなく、何かができるから人に評価される、人に重視される。そういう価値観の中で彼女たちは育ってきているのです。それはある意味で現代社会の「律法」とでも言うべきものではないかと思います。大人の社会でも同様です。勝ち組やセレブと言った人々がもてはやされ、社会に適合できなかった人々は見捨てられる。それが現代の律法です。生きているから、それぞれの個性を持って存在しているから大切なのではなく、能力や財産、地位があるから大切にされる。ですから、子どもたちも成績が上がらない、クラブもうまくいかない、ということが続くと、生きている意味、存在理由が分からなくなり、暗闇の中に落ち込むのではないかと思います。そして今度は外見で自己主張をするしかなくなるのかもしれません。そんな彼女たちに私は、本当の慰め主、「友なるイエス」に出会ってほしい、何かができるからではなく、あなたが生きているから大切なのだよ、と語りかけてくれるイエスさまに出会ってほしい。そんな思いで、毎朝の礼拝を続けています。この教会でもまた、一人ひとりの方がおられる、そのぬくもりが感じられるということを大切に、おつきあいを続けていきたいと思っています。それが私たちの喜びの源です。今日の福音書の言葉をもう一度皆様と共に分かち合いたいと思います。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
この世界の律法ではなく、神さまの導きに従うことができるように、そして心から喜ぶことができるように共に祈りましょう。
<祈り>
恵み深い神様。いつも私たちと共におられることを感謝いたします。御子イエス・キリストのご降誕を待ち望む降臨節第3主日の今日、多くの兄弟姉妹と共にあなたを賛美し、聖餐の恵みに与ることができることを感謝します。洗礼者ヨハネが告げ知らせたように、イエスさまは神の救いをもたらすために来られ、律法の鎖につながれ、社会の仕組みの中でうちひしがれた人々にまことの喜びを与えてくださいました。どうか私たちが、イエスさまがもたらしてくださった福音に与り、喜びと感謝のうちに生活することができますように。また、多くの人々にこの喜びの道を知らせることができますように、私たちを導き、強め、助けてください。