2006/09/10 聖霊降臨後第14主日(特定18)
 
旧約聖書:イザヤ書35:4-7a
使徒書:ヤコブの手紙1:17-27
福音書:マルコによる福音書7:31-37
 
『エッファタ』
 
 谷川俊太郎という詩人の作品に『みみをすます』というのがあります。とても有名な詩で、学校の教科書などにもよく取り上げられていますのでご存じの方もおられるかと思います。
 
みみをすます/きのうの/あまだれに/みみをすます
みみをすます/いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに
みみをすます
めをつむり/みみをすます/はいひーるのこつこつ/ながぐつのどたどた
ぽっくりのぽくぽく/
みみをすます/あみあげのざっくさっく/ぞうりのぺたぺた
(…)
<今はないものもありますが、ここまでは、日常世界の聴覚です。続けます>
みみをすます/しんでゆくきょうりゅうの/うめきに/みみをすます
かみなりにうたれ/もえあがるきの/さけびに/なりやまぬ/しおざいに
おともなく/ふりつもる/プランクトンに/みみをすます
なにがだれを/よんでいるのか/じぶんの/うぶごえに/みみをすます
<そろそろ想像力の世界です。滅び行くもの、そして生まれてくるものに対するときめきを感じます>
そのよるの/みずおとと/とびらのきしみ/ささやきと/わらいに/みみをすます
こだまする/おかあさんの/こもりうたに/おとうさんの/しんぞうのおとに
みみをすます
<そして、その想像力は時を超え、時代を超えて、過去と未来を自由に駆けめぐります>
みみをすます/じゅうねんまえの/むすめの/すすりなきに/みみをすます
みみをすます/ひゃくねんまえの/ひゃくしょうの/しゃっくりに/みみをすます
みみをすます/せんねんまえの/いざりの/いのりに/みみをすます
みみをすます/いちまんねんまえの/あかんぼの/あくびに/みみをすます
みみをすます/じゅうまんねんまえの/こじかのなきごえに
ひゃくまんねんまえの/しだのそよぎに
せんねんまえの/なだれに
いちおくねんまえの/ほしのささやきに
(…)
みみをすます/きょうへとながれこむ/あしたの/まだきこえない/おがわのせせらぎに
みみをすます
 
 なかなかすてきな詩ではありませんか。耳をすまして、肉体的な聴覚の範囲を超えて、心の耳で聞くというか、魂に与えられている自由な想像力を最大限に遠くまで届かせる。そんな作者の姿が浮かんできます。私たち人間には、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった感覚が与えられていると言います。しかし、私たちが大切なものを知るためには、その根底に、自由な魂、豊かな感性、想像力が必要です。いわゆる五感というのは、年齢を重ねるにつれて衰えてきます。こんなはずではなかったのに、ということが良くあると思います。私なども、最近では妻との間で「えっ?」「なんて言った?」と聞き返すことが多くなりました。また、生まれつき、あるいは人生の途中から、目が見えない方、耳が聞こえない方もおられます。しかし、目が見えないからといって、ものの形や性質を想像したり、認識したりすることが出来ないわけではありません。かえって優れた触覚やその他の感覚と、想像力を駆使して豊かな世界を育んでおられる場合もあるのではないかと思います。ヘレンケラーは、耳も聞こえず、目も見えませんでしたが、豊かな知性と想像力を発揮して、全てのものには名前があることを理解し、世界を理解し、素晴らしい業績を残すことができました。また、サンテクジュベリは『星の王子様』の中で、「本当に大切なものは目に見えない」と語っています。肉体的な意味で目が見える、耳が聞こえる、というのは、かえって本当のものを見たり聞いたりする妨げになるということもあるのです。
 先日、朝日新聞の記事で「リスニング(気持ちを聴くこと)」という言葉について記事がありました。「傾聴」とでも訳せば良いのでしょうか。米国の心理学者が提唱した技法の一つで「目の前の人物の、あるがままを受け入れる」ことが基本だといいます。「まず、心を白紙にして相手の気持ちに添ってあげること」が大切で、その中から人を愛する気持ちが生まれてくる、と書かれていました。私たちは、相手の言うことを聞いているようで、実はよく聞いていない、ということが良くあるのではないかと思います。それは、自分の心が相手に向かっていない、相手の気持ちに寄り添っていない、ということです。私は本当に皆様に謝らなければならないことがあるのですが、細々した忙しさにかまけて、一人一人の皆様のお話を十分に気持ちを集中して伺うことができないことがよくあるのです。本当に申し訳なく思っています。相手に寄り添う気持ちがあって、初めて相手の話が十分に理解できる、そうして初めて相手を本当に受け入れることが出来るのだということなのです。
 耳が聞こえない方のために考案された「手話」というコミュニケーションの方法があります。日本では今から130年ほど前に京都の古川太四郎という方が考案されたそうです。大阪教区でも「つたえて」というグループがあって、教区礼拝や大きな礼拝では必ず手話通訳をなさっておられます。私はいつも、よくあれで十分な通訳が出来るものだな、と感心しているのですが、私と同じように不思議に思われた方がおられました。車椅子で障害者のための運動を続けておられる聖ヨハネ教会の信徒、牧口一二さんで、あるとき、聾唖者の方と対談をされたときに、手話通訳の方が一寸しか手を動かされない。どうも通訳しているように思われないので、「ちゃんと通訳してほしい」と言われたそうです。すると、その通訳の方は、「手話は互いの目と表情でほとんどのコミュニケーションをするのです。手の動きはその上で役目を果たすのです。」と言われました。つまり、普段から通訳をしておられる方の間では、手の動きはわずかでもそれで十分に伝わっているということなのです。牧口さんもそれには驚いたと仰っておられました。よく考えてみますと、私たちは饒舌におしゃべりをしていても、本当に必要なことはよく伝わっていない。音声としてはたくさん聞いていても、本当に必要なことは聞き取れていないということがよくあります。現代のように饒舌に言葉が飛び交う社会にあって、残念ながらコミュニケーションの断絶があるということではないでしょうか。コミュニケーションの断絶、それは人間関係の断絶です。
 さて、今日の福音書、マルコによる福音書7章31節以下にもう一度耳を傾けてみましょう(よく「福音書は読むのではなく、聞くものだ」と言われます。神の言として、心を空しくして耳を傾ける、ということなのでしょうか)。イエスさまは異邦人(つまり非ユダヤ人)の地であるデカポリス地方からガリラヤ湖へやってこられ、「耳が聞こえず舌の回らない」人を癒されました。人々が連れてきたその人を群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の舌にさわり(当時の世界では唾液には特別の力があると信じられていました)、「エッファタ(開け)」と言われたと書かれています。すると、たちどころに彼の耳は開け、舌のもつれが解けて不自由なく話し出した、というのです。奇蹟が起こったのです。イザヤ書には、「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」(35章4:5)、そして42章には「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」と書かれていますが、まさにそのような解放の奇蹟がそのとき起こったのです。
 私にはイエスさまのこの「エッファタ」という言葉は、現代において断絶した人間関係を修復する、閉ざされた私たちの心を開く命令のように思えます。イエスさまに癒されたこの人は、小さい子供の時から耳が聞こえなかったために、話すことができず、人との意思の疎通ができませんでした。私たちは、肉体的な意味では十分に聞こえる耳を与えられている場合でも、互いの気持ちを聞き取る、心に耳を傾けるということができていないのです。(逆に、耳が聞こえない方の方が心のコミュニケーションを大切にされているように思えます。)イエスさまはそのような私たちに、「エッファタ」、心の耳を開け、と命じられているのではないでしょうか。
 現代は本当に喧噪に満ちています。町にはパチンコ屋の音、自動車の音、工事の音があふれていますし、電車に乗っても、多くの人が携帯用のプレーヤーで音楽を聞いています。まるで、音が無くなるのが恐ろしいかのようです。しかしそのような音の氾濫の中では、本当の意味あるメッセージは聞こえてきません。列王記下19:9節以下に預言者エリヤが洞穴にこもったとき、神さまがエリヤに語りかける場面が出てまいります。当時のイスラエルの人々は、他国の神々を崇拝していた王様やお妃の影響で、真の神を離れ、バアルという偶像を拝むようになっていました。エリヤはそれに対して強い警告を発するのですが、人々はなかなか言うことを聞きません。そこでエリヤは、弱音を吐き、神様に向かって文句を言います。そして洞穴の中にこもってしまいます。そのとき、神様との出会いがあります。エリヤは、神様の声をどのように聞いたでしょうか。神様は風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられなかった。神様はそのような激しい形でご自分の存在を顕示される方ではありませんでした。もちろん、時には火や風の中に姿を現されることもあるでしょう。しかしここでは、そうではなく、「静かにささやく声」で神は語られた、とあるのです。神様の声は静かにささやかれます。私たちはその静かな声を聞き逃してはならないのです。静かにささやく声に耳を傾けなければならないのです。
 ここで、もう一度、谷川俊太郎の「みみをすます」に耳を傾けてみましょう。
みみをすます/きのうの/あまだれに/みみをすます
みみをすます/いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに/
みみをすます
 
<祈り>
いつも私たちを支え、いやし、勇気をお与え下さいます神さま。感謝します。私たちはこの喧噪に満ちた社会の中で、ともすれば大切なことを聞き逃し、人々の訴えの声、辛い思いを込めた話に十分に耳を傾けることができません。どうか私たちに、互いの思いを聞き取る気持ちと力とを与え、互いに耳を傾け合うことができるようにしてください。