2007年8月19日 聖霊降臨後第12主日(特定15)
 
旧約聖書:エレミヤ書23:23-29
使徒書:ヘブライ人への手紙12:1-14
福音書:ルカによる福音書12:49-56
 
この世の痛みを共有される神
 
 先週の木曜日、高橋昇三さんのお母様、マリア高橋トミ子さんが神さまの御許に召されました。98歳でした。ほぼ1世紀にわたる人生を生き抜いてこられたトミ子さんの最期は、ある意味でいわゆる天寿を全うされた幸せな旅立ちであったということができるでしょう。通夜の祈りと葬送式に、本当にたくさんの子孫とご親族が集まられたこと自体、トミ子さんがみなに敬愛され、その愛の眼差しを受けてこの世での務めを終えられたことを表しています。しかし、桜井ムツさん、竹中眞一さん、そして高橋トミ子さんというご高齢の先輩方を相次いで神さまの御許に送り出すというのは、私たち聖テモテ教会のメンバーにとっては寂しく、悲しいことです。どうか、トミ子さんが神さまの懐で平安のうちに憩われますように、また神さまの慰めと励ましが、ご遺族の上に豊かにありますように、お祈り申し上げます。
 さて、福音書の中のイエスさまの言葉には、本当に癒しとなり、慰めとなる言葉が多いのですが、同時に、厳しく私たちに決断を迫る言葉もあります。本日の福音書のみ言葉は、実に厳しく、ある意味では恐ろしい警告を含んでいます。まず、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と言うみ言葉ですが、これは私たちぬるま湯につかっているキリスト者には激しい挑戦となります。「火」とはもちろん信仰の火でありましょう。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」それがイエスさまの願いでありました。しかし、その火は当時のユダヤでは消え去っていました。だから「火を投じるために来た」とイエスさまは宣言されるのです。火はすべてのものを清めるとともに、焼き尽くします。それは、私たちの罪を焼き尽くし、私たちを救う火です。しかしそれは同時に、私たちには苦難をもたらします。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」何という恐ろしい言葉でしょうか。実はこの言葉は、旧約聖書のミカ書7:6にある言葉、「息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」に基づいています。ミカ書の言葉は終末の預言です。終末が到来するとき、私たちのこの世での人間関係はいったん破壊されるというのでしょうか。
 しかしよく考えてみますと、終末でなくとも、信仰や生き方を巡って、家族や友人の間に対立が生じることは、しばしば起こりうることです。避けがたい場合もあるでしょう。家族の中で自分だけがクリスチャンである場合、その信仰を守り通すことは必要なことです。最後には家族の方も理解してくださる、そういう希望を抱いて、ねばり強く理解を求めることが大切なのだと思います。最終的にやはり自分一人であっても、コリントの信徒への手紙7章にあるように、「信徒でない夫は、信徒である妻の故に聖なる者とされ、信徒でない妻は、信徒である夫の故に聖なる者とされる」のですから、やはり信仰を堅く守ることは大切なことです。ノアが箱船を築いて、それにすべての家族を乗せて救ったように、私たちも信仰の箱船を築くことが大切だからです。
しかしもちろん、家族が相別れ、争うことは悲しく、不幸なことです。できることなら、同じ信仰に生きたい、と誰もが思うのではないでしょうか。イギリスの聖公会の神学者フレデリック・デニソン・モーリスもそうした経験に苦しんだ一人でした。彼はユニタリアンという三位一体論に批判的な教派の牧師の息子として生まれましたが、母親と二人の姉は、厳格なバプテストになり、一人の姉は聖公会の信徒となっていました。家族の中では論争が絶えず、父親の提案で、それぞれが言いたいことがあれば、手紙を書き合うことにしたといいます。口頭では理性的な話し合いにならず、感情的な口論になったからでしょう。そうした経験から、モーリスは、教会が党派に分かれることに反対し、すべての人々がキリストのもとに集う「普遍的教会」を追求しました。カトリックもプロテスタントもない、ハイチャーチもローチャーチもない、キリストの体としての世界的、普遍的な教会です。彼の考えは「キリストは全人類の頭である」という言葉によく表されています。イエス・キリストがこの世に来られたことによって、ある意味ではすでにキリストの王国は来ている、つまり私たちはみな十字架による救いに与っている。そうした確信を、モーリスは強く持っていました。こうしては、自分自身の苦しみ、試練の中から、「多様性を保ちつつ、一つにまとまる」「多様性の中の一致」という現代の聖公会の考え方の基礎を生み出したのです。
 さて、今日の使徒書には、「主が私たちに鍛錬を与える」ということが書かれています。「主は愛する者は鍛え、子として受け入れる者をみな、鞭打たれる」だから、苦しみの中にあるときにはそれを神による鍛錬として忍耐しなさいというのです。そして、ヘブライ人への手紙の著者は、次のように言って私たちを励まします。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」その通りだな、と感じる方も、「そんな馬鹿な」と反発される方もおられるでしょう。このような言葉は、一般的には慰めとは感じられません。私たちは決して軽率に慰めや励ましの言葉として、聖書のこの言葉を用いるべきではありません。しかし、それにもかかわらず、このみ言葉は力強い響きを持っています。それは、私たち人間のために十字架につけられたイエス・キリストの愛、そのイエスさまをこの世に送ってくださった神様の愛が、根底にあるからではないかと思うのです。神様はこのような試練に私たちを合わせるとき、ご自分も共に痛みを分かち合っていいらっしゃるのではないでしょうか。親が子供を鍛えるとき、親もまたつらく、心が痛むものです。今は親が子供に体罰を加えることは少なくなりました(虐待という歪んだ現象はむしろ広まっているのかも知れませんが)が、以前は子供を諭すときにはよく手を上げたものです。でもそれは決して子供が憎くてそうするのではない。親も自分自身が打たれているように、同じように、いやそれ以上に痛みを感じるのです。子を遠くの町に修行にやるとき、家を出て行く子の後ろ姿を見て、親はみな涙したのだと思います。そのような姿は少し昔風かも知れません。しかし、今も、子が自立し、この競争社会の中でも、挫けずに立派に生き抜いてほしいと願って、親は暖かく子どもを包み込みつつも、時には厳しく接することがあるのではないでしょか。そのとき、本当に辛い。それは共通した思いです。私たちの親である神さまは、私たちを鍛錬しようとされるとき、ご自身もその痛みや苦しみを共に担っておられる、分かち合ってくださっていると、わたしは信じています。そうでなければ、神さまは、恐ろしいだけの、勝手気ままな方ということになってしまうでしょう。
 鍛錬というものは「後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる。」とヘブライ人への手紙の著者は書いています。辛さと苦しみを乗り越えたとき、私たちには平和と豊かな実りが約束されています。モーリスは、家族がそれぞれ別々の教派に引き裂かれていた、まさにそれ故に、彼は教派主義に反対し、教会の一致を求める立場を豊かに発展させることができました。また、それ故に、彼は階級や人種や宗教で引き裂かれているこの世界の苦しみを感じ取り、「全人類の頭」であるキリストによる平和と癒しの福音を力強く説くことができたのです。
 ですから、引き裂かれ、破れた世界の中に私たちが暮らしている。私たち自身もある意味で引き裂かれ、破れている。そのことは、実は積極的な意味を持っているのではないでしょうか。多宗教の日本の社会では、家族や親類に宗教的分裂が生じるのは避けられないことです。しかし、だからこそ、そこには豊かな宗教間対話の可能性もある、と考えることはできないでしょうか。最近、イギリスやアメリカでキリスト教以外の信仰をもつ人びとが増えています。多くは中近東やアフリカからの移民ですが、中国の人もいます。イスラム教、ヒンズー教、仏教、さまざまな宗教が欧米社会に流れ込んできていて、宗教多元化という現象が起こっています。ずっとキリスト教だけの社会で存在してきた欧米のキリスト教はそれにどう対処すればよいのか分からない。それで、日本のキリスト者の経験が非常に貴重になってきているという指摘が、欧米の教会の側からなされています。私たちが、互いの信仰を尊重しつつ、対話を重ねることによって、必ず真理は明らかにされ、家族全員に救いが訪れると確信しましょう。
 宗教的分裂だけではありません。さまざまな問題をめぐって、家族や親類は分裂し、社会は分裂し、世界全体が分裂しています。それは悲しいことです。しかし、わたしたちは自分自身の分裂の痛みを経験することによって、初めて世界の痛みを共感し、その癒しの業に与ることができます。考えてみますと、イエス・キリストの十字架はまさに、この破れ、傷ついた世界の痛みを共に担おうと決断された神の業だったのではないでしょうか。そのイエス・キリストの出来事によって、この世界には平和と癒しの道が開かれました。神さまのその限りない愛の業に感謝しつつ、今日の使徒書にあるように「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」、わたしたちも、自らの痛みを引き受け、しかも、豊かな実によって報われるという希望を抱きつつ、歩んで参りたいと思います。
 
<祈り>
恵み深い主よ。あなたは、私たちを鍛えるために、かずかすの試練をお与えになります。しかし、それはあなたの愛によるものだと信じます。だからこそ、あなたは、み子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの苦しみを共に担い、共に傷つき、そしてついには十字架上で命を献げるようになさいました。しかし、そのイエスさまを復活させることによって、私たちに平和と癒し、そして限りない希望とを与えてくださいました。感謝いたします。この恵みを心から感じ、私たちが、この破れ、傷ついた世界の中で、イエス・キリストによる平和と一致を指し示すことができるようにお導きください。