2006/4/9 復活前主日(棕櫚の日曜日)
 
旧約聖書:イザヤ書52:13-53:12
使徒書:フィリピの信徒への手紙2:5-11
福音書:マルコによる福音書15:1-39
 
もっとも小さい者に仕える
 
 今日は、復活前主日という特別の日に当たります。私たちはイエスさまの40日間に渡る試練に倣って今日まで大斎節を守って来たわけですが、いよいよイエスさまの苦難はクライマックスに達します。私たちはクリスマスにおいて主のご降誕を祝い、それから、大斎節を経て一挙にイエスさまのご生涯の最後、受難週に入ることになるのです。今日という日が特別なのは、イエスさまがご生涯の最後に、十字架にかけられることを承知しながら、あえてエルサレムに入城し、この日には群衆が歓呼の声を上げ、棕櫚をうち振って歓迎するという出来事があったからです。ですから日曜日は「棕櫚の日曜日」(英語でパームサンデー)と呼ばれます。そして、それからわずか5日後にイエスさまは十字架上で亡くなるという急転直下の運命をたどられるわけです。今度はエルサレムの群衆は、「イエスを十字架につけろ!」という叫び声を上げるのです。
 今日の聖書は、それぞれ、そのイエスさまの劇的な運命、十字架上の死に至るご生涯の中心的なところが示されています。先ほど読んでいただきました使徒書には、イエスさまのご生涯、イエスさまがこの世に来られた意味が、本当に要約され、簡潔な形で、しかも力強く記されています。その中心は、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」というところにあります。神が自分を無にして、苦しみ悩む人間を救うために、私たちとおなじ姿になり、同じ苦しみをなめ、最後には十字架につけられたというのです。ここに神の愛の本質があります。全能の神が自分を無にすること、自らを低くすること、それをギリシア語では「ケノーシス」と言うのだそうですが、それは単に「へりくだる」とか「謙虚に振る舞う」とかいう意味以上のことを示しています。私たちを遙かに超えた、ある意味で異質な神が、私たちと同じところに降りてきて、人の子となり(これを受肉というのですが)、私たちと同じ苦しみ、痛みを経験されるというのですから、これは、私たちの常識を超えた出来事だと言うことができます。お金持ちのお坊ちゃんやお嬢さんが、ちょっと経験するためにつらい仕事をしてみるというのとは、訳が違うのだろうと思います。
 そのお姿をよく描写しているのが、今日の旧約聖書のイザヤ書です。ここに描かれている人物は「苦難の僕」と呼ばれ、イエスさまがお生まれになる500年以上も前のことですから、実際にイエスさまのことを描いたはずがないのですが、この箇所に描かれている「苦難の僕」の姿はまさにイエス・キリストではないでしょうか。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」本当に不思議なことです。これはまさにイエスさまがゴルゴタの丘に引かれていくお姿です。
 この運命に従うこと、この世のすべての人間のために、命を投げ打つことは、大変な苦しみでした。今日の福音書の直前、14:36節でイエスさまは「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られます。「この杯」とは十字架刑のことです。人間としての弱さもまとわれたイエスさまのうめきの声だったように思われます。しかし、その直後に、イエスさまは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られるのです。これは、私たちには真似のできないことかもしれません。しかし、イエスさまに従って自らを「低くする」ことは、キリスト者としての私たちにも求められていることではないかと思います。では、私たちにとっての「ケノーシス」とは、いったいどのようなことでしょうか。
 私は、先月の31日から4月4日まで、大阪教区台湾交流委員会の代表として、台湾聖公会を訪問してきました(当教会の奥村さんも委員の一人として、ご一緒していただきました)。台湾聖公会の状況については、週報のコラムに書いておきましたので参考にしていただきたいと思います。台湾には13の教会があるのですが、そのうち11の教会を訪ねて来ました。日本聖公会が戦前に台北に建てた大聖堂(今は長老教会のものになっていますが)も見てきました。狭いと言っても九州ぐらいの広さはある島です。始め台北に行って、聖ヨハネ大学を訪問し、それから飛行機で南方の高雄に行き、車で北上しながら教会巡りをしたわけです。かなりのハードスケジュールでしたが、たくさんのことを学び、たくさんの話し合いを重ねることができました。教会にもいろいろなスタイルがあり、大きな教会もあれば、本当に小さな教会もあります。たいていの教会には幼稚園があり、幼稚園の教育活動を通じて地域社会に根を下ろしているようです。台中の聖ヤコブ教会の幼稚園は400人の園児がおり、台中でも指折りの優秀な幼稚園として高い評価を受けているそうです。高雄の聖テモテ教会はとても大きな教会ですが、比較的新しく建設された教会なので、幼稚園を作らずに、土曜学校を組織し、70人ほどの地域の子供が集まっています。絵画教室や音楽、スポーツ、聖書の学び、勉強の補習など、小学生から中・高生までが集まっています。中・高生は小学生の世話の手伝いもしているようです。
 訪問した教会の中で印象深かったのは、台北の牧愛堂(よき羊飼い教会)と基隆の聖三一教会でした。牧愛堂の方は、比較的大きな教会で、立派な幼稚園や中国風の礼拝堂などの特徴がありますが、素晴らしい奉仕活動だと感心したのは、地域の独居老人100数十人にいわゆる配食サービスを教会がやっているということです。50人以上のボランティアが参加し、配食だけでなく、病院に連れて行くなどのヘルパーの仕事もやっているようでした。日本の介護保険のように制度化されていないために、かえって、教会が地域社会に奉仕するよい活動の場を見つけることができているようです。もう一つは、基隆の聖三一教会の活動でした。礼拝堂はちょうど梅田の聖パウロ教会ほどの大きさで、こじんまりした教会です。この教会は50年近くの歴史を持ち、台湾では古い教会なのですが、一時期は教会活動が停滞し、信徒も5人程度に減ってしまったようです。ところが、若い牧師が着任し、今では、30人ぐらいの信徒、特に若い人を中心に、元気よく礼拝やその他の活動をやっています。何が起こったのでしょうか。
 この基隆という町は、台北の東にある港町で、以前は非常に栄えていたのですが、次第に寂れ、今では貧しく、問題の多い町になっています。牧師さんの話では、基隆の町には3つの悩みがあるとのことで、それは@失業、A離婚、B自殺、だそうです。港が寂れ、仕事がなく、失業者が増えています。その結果、離婚が増え、絶望の中で自死する人が増えているのです。その中で、子どもたちにも大変な影響が出ていまして、片親家庭や貧困家庭が増え、子どもたちは行き場所がなくなっているのです。塾に行くこともできない、遊び場もない、そういう貧困地域の真ん中に教会が建っているのです。ある日、二人の青年が教会を訪ねてきました。学童保育のような活動を始めさせてほしい、ということでした。牧師さんはその青年とは初対面でしたが、神様の導きだと思って、その青年の申し出を受けました。はじめは4,5人の子供でしたが、次第に子供が子供を連れてくるようになり、小学生から中学生まで30人ぐらいの子どもが毎日教会の門を潜るようになりました。次第に、成長して青年になっていった子どもたちから受洗者が出て、その青年たちがまた学童保育を支える、といったように、今この教会は成長を続けています。礼拝も青年を中心に、新しい賛美礼拝を取り入れ、力強い礼拝が行われています。地域の中で本当に神様を必要としている貧しい子どもたちの中に入り、子どもたちに仕えることによって、教会は新しい命を与えられたと言えるでしょう。イエス・キリストは、マタイ福音書の中でこんな風に教えています。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(18:4-5)そして、別の箇所では、有名なたとえ話が出てきます。裁判が行われ、人々は2つのグループに分けられます。片方のグループの人々に対して、王が「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」と言います。人々が、いつあなたをお助けしたでしょうか、と尋ねると、王はこう言います。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」旅人や寄留者、困難の内にある人に対して、また世の中で虐げられている人々に対して手を差し伸べるのは、神様に対して手を差し伸べることなのだ、と言うのです。3月26日にビデオでご覧になった方もおられると思いますが、マザー・テレサはカルカッタ(今ではコルカタと言いますが)からダージリンに行く途中で死にゆく貧しい人に手を差し伸べ、その人の口から「私は渇く」というイエスさまの声を聞きます。もっとも苦しんでいる人の中にイエスさまがおられるということを彼女は感じ取ることができました。こうして、イエスさまは自らをむなしくし、自らを私たちに差し出して下さったのですが、私たちがそれに応えるただ一つの道は、私たちもまた感謝の内に、もっとも小さい者に対して自らを差し出すことでしかありません。
 台湾の教会には、大きなビルを建てて宣教の拠点とする教会もあるのですが、私はこの基隆の教会に、宣教の原点を見る思いがいたしました。私たちにとっての「ケノーシス」。それは、教会の宣教活動や私たち一人一人の生活の中で、身の回りの人々、世の中で困難の内にある人、苦しみ悩む人々に、自らをそっと差し出すことではないでしょうか。
 
 
<祈り>
 全能の神様。台湾への旅から無事に私をこの場に戻してくださったことを感謝いたします。み子イエスさまは自らをむなしくして、私たちのために苦しみを受け、十字架についてくださいました。今週は、そのイエスさまの受難を記念する聖なる週です。どうか私たちを導き、私たちもイエスさまのお姿を仰ぎ見て、自らを献げ、身の回りにいる苦しみ悩む人々に手を差し伸べることができるように、豊かな聖霊を注いでください。