2010年12月25日 降誕日聖餐式
 
「あなたは救われていますか?」
 
 みなさん、クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストがお生まれになったこの日に、みなさんと共に、聖書のみ言葉を聞き、聖餐の恵にあずかれることを主に感謝いたします。
 みなさんの中で、クリスマスとは何の日ですかと問われて、ご存じのない方はおられないはずです。世間でも以前は「サンタクロースの誕生日」などという答えが返ってきたこともあるのですが、今では多くの人々が「イエス・キリストの誕生日」と答えてくれます。
 誕生日、それは喜ばしい時です。誕生日を迎えた人に対して、多くの人がその人生を祝福し、今後の人生の幸せのために、「おめでとう」と言ってくれます。誕生日を祝ってくれる人がいない方もおられるでしょう。それは寂しいことですが、それでも自分自身でどことなくこれまでとは違う自分を発見するのではないかと思います。
 しかし、単に「イエスさまの誕生日」だからお祝いをする、ということでよいのでしょうか。孫の◎◎ちゃんの誕生日、お友達の△△さんのお誕生日と同じように考えることができるのでしょうか。もちろんそうではありません。クリスマスの出来事は、全く違った特別な意味をもっているのです。私たちクリスチャンは、そのことをしっかりと覚えておかなければなりません。
 今日の福音書、ルカによる福音書2章には、羊飼いに主の天使が現れ、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と告げる言葉が記されています。これはすべての人々に対するみ告げですが、そこには時代や場所を越えて私たち一人ひとりがもちろん含まれているわけです。ですから、それは「今日、あなたのために救い主がお生まれになった。」ということでもあるのです。私のため、あなたのため、みなさん一人ひとりのための救い主です。では、救い主というのは、何からの救い主なのでしょうか。何から救って下さったのでしょうか。2000年前のユダヤでは、ローマ帝国とユダヤ支配層による二重の圧政のもとで人々は苦しんでいました。ですから、人々が「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。」と祈るように、救い主の到来をまちこがれたのは言うまでもありません。今日のわたしたちはどうでしょうか。確かに、そのような状態ではないかも知れません。しかし、私たちもまた、さまざまな苦しみの中に置かれています。仕事がなく、生活が不安定な方。家庭で不和を抱えておられる方。こどもの現状や将来について憂いておられる方。仕事でのストレスに苦しんでおられる方。心に深い傷を持ち、心の病に苦しんでおられる方。ご自分の高齢を受けいれられずに、苦しんでおられる方。ご高齢の親や、闘病生活を送っておられるご家族の方の看病や介護でつらい思いをしておられる方。青年でしたら、進路や就職に悩んでおられる方。そうした苦しみや悩みの中で私たちは毎日を暮らしています。
 イエス・キリストは、まず第一に、私たちのさまざまな悩み苦しみを分かちあい、出口のない暗闇から救い出して下さる方です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエスさまは仰いました。2000年前のクリスマスの夜に、あの家畜小屋に生まれ、小さな、弱い、傷つきやすい幼子として私たちの前にイエス・キリストが現れたのも、私たちの弱さや、苦しみを共に分かちあって下さるためでした。ですから私たちは、さまざまな問題を抱えつつ教会にやってきて、イエスさまの前にすべてを投げ出し、聞いていただくことができるのです。お互いの間でも悩みを語り合い、祈り合いましょう。雑談の中での愚痴の語り合いではなく、真剣に共に祈る中で、きっとイエスさまの声が聞こえてくると思うのです。単なる雑談も時には必要ですが、共に祈ることを始めましょう。
 第二に、イエス・キリストは、私たちを罪の縄目から解き放って下さいました。「罪」というと、日本の文化ではなかなか分かりにくいのですが、私たちのすべての苦しみや悩みの根底には、「罪」の問題があると考えて下さい。人間関係のつまずきも、その根底には相手を支配し、自己を認めさせたいという支配欲という罪があります。ストレスに苦しむ中にも、神によって創造され、豊かな命を与えられていることに対する不信と孤独感があります。使徒パウロは、「罪」という問題について、深く掘り下げて私たちに教えています。そして彼自身、罪人の一人であるということを痛いほど自覚していました。「正しい人は一人もいない」という有名な言葉を残しているのはそのためです。ところで「罪」と訳されているもともとのギリシア語は「的外れ」という意味を持っています。人間は、神によって造られ、本来神に心を向けるべきなのに、自分のことのみを考え、神に背を向けています。私たちが、悪循環に陥り、出口を見失ってしまうのも、すべて、この「罪」のためです。ローマの信徒への手紙の中で、パウロはこんな風に書いています。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」私たちは自分を振り返るとき、ズキンと心に響かないでしょうか。「私は悪いことはしていないから関係がない。」と思うならば、実はそれこそが、「傲慢」という最も大きな罪なのではないでしょうか。
 では、その「罪」から解放され、赦されるにはどうすればよいのでしょうか。パウロはそれを有名な「信仰による義認」という教えにまとめています。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:22−24)私たちはただ、イエス・キリストが私たち一人ひとりのためにお生まれになり、十字架にかかられ、復活された。そのことを信じるだけでよいのです。そのことに感謝しましょう。律法を守ることによって、つまり外的な行いによって努力して神に近づこうとしなくても良いのです。ただ、ひたすらイエス・キリストを信じる。そのことによって私たちは神の前で義とされるのです。宗教改革において、マルチン・ルターが宗教改革の基本原理として建てたのも、この「信仰義認」という教えでした。
 第三に、私たちは死の影から、死の不安から解放され、永遠の命への希望を与えられます。死は決して恐ろしいものではありません。「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(テモテU1:10)と聖書には記されていますが、私たちはすでに洗礼を受け、キリストにつながれたときから、神の永遠性の中に抱かれています。「永遠の命」とは、千年、万年もこのままの人生を生きるということではありません。そうではなく、神の永遠性に包まれているということなのです。だから、死後においても、神のふところに抱かれ、私たちは平安の内に安らぐことができるのです。キリストの復活とは、まさに、そのような希望を私たちに与えてくれます。
 今年、この教会には悲しい出来事がいくつかありました。柳原信さんの死がありました。光成さんも亡くなられました。ご病気でご奉仕ができない方も増えました。また、信仰の違いを理由にこの教会を離れる決断をされた方もおられました。同時に、新しい方をお迎えするというよろこびにも恵まれました。しかし今、テモテ教会は試練の時を迎えていると言えば言い過ぎでしょうか。私は思うのです。新しい方を私たちが兄弟姉妹として心から迎え入れるためにも、私たちはもう一度、信仰とは何か、救いとは何か、教会とは何かという根本的な問題に立ち帰って、私たちの信仰生活を変え、強め、主にある交わりを深めて行かなければなりません。そのためには、まず、私たちが、主イエス・キリストのご降誕と十字架と、復活によって、救われているという実感と確信を持たなければなりません。そうでなければ、この教会はバラバラになります。考え方、信仰のあり方は多様であって良い、多様でなければならないと思います。しかし、主イエス・キリストに対する信仰だけは共有しなければなりません。私たちの交わり、生活、教会は、信仰に基づいてこそ正しく建てられるからです。「あなたは救われていますか?」という説教題をあえて選ばせていただきました。「そうです。私は救われています」という答えがきっと返ってくると確信しているからです。
 
<祈り>
恵み深い主よ。あなたは今から2000年前に一人のみ子イエス・キリストを私たち一人ひとりのためにこの世に生まれさせられました。感謝いたします。どうか、私たちがイエスさまの誕生と十字架上での死、復活によって、神さま、あなたの前で罪を赦され、希望を与えられているという事実を、確信を持って肯定することができるように、私たち一人ひとりを強めてください。このテモテ教会を祝福し、成長させて下さい。そして、この浜寺の地で宣教の器として用いて下さい。降誕日に当たって、この祈りと感謝を、一人ひとりの祈りと共に、主イエス・キリストのお名前によって、み前にお献げいたします。