2006年5月25日 昇天日
 
使徒言行録:1:1-11
使徒書:エフェソの信徒への手紙1:15-23
福音書:マルコによる福音書16:9-15,19-20
 
寄り添ってくださるイエス
 
 今日は昇天日礼拝という大切な礼拝に、私のような新参者をお招きいただいて、本当に光栄に思っています。どんなお話ができるのか私には全く自信がないのですが、どうか神さまが私の口を通じて語ってくださいますように、ひたすら祈るような気持ちでお話をさせていただきます。
 先日のある新聞に、こんな記事が載っておりました。「雨降り」というテーマを与え、そこからどんな光景を連想するか、子どもたちに絵を描かせるテストをしたという記事です。傘を差すか、雨宿りするか、「雨雨降れ降れ、母さんが」という童謡のように傘を持ったお母さんが迎えに来るか、母と子どもが手をつないで歩く姿を思い浮かべるか、いろんな姿が考えられます。ところが、最近では、ずぶ濡れになった自分自身を描く子供が増えているのだそうです。このテストは「雨の中の私」と呼ばれ、いわゆる問題行動を起こした青少年の家庭環境や養育歴などを測る精神分析的手法として行われてきたそうです。ある鑑別所では42パーセントが雨に濡れた自分を描いているとのことです。少年事件の関係者は、それを親子関係や人間関係の歪みを投影する不気味な現象として受け止めている、とその新聞には記されていました。しかし、鑑別所の少年でなくても、この現象は今の若い人や子どもたちの心象風景を表しているのではないかと私は思います。私はプール学院中・高のフルタイム・チャプレンのお役もいただいておりますが、生徒たちはよく「寂しい!」と言います。友人との他愛もない話で寂しさを紛らわす生徒、一人寂しく教室の隅っこにいる生徒、家に帰るとおそらくは四六時中携帯を手放さず、友達とメールや電話でやりとりする生徒、夜中もテレビをつけっぱなしの子ども。中には、寂しさから逃れるためにとんでもない行動に走る子どももいます。「寂しい」、どことなく不安である、より所がない。よく考えてみれば、それは子どもだけの問題ではなく、大人や高齢者を含めた現代社会、私たちすべての心の問題かもしれません。
 金子みすずという詩人のことをご存じの方も多いと思いますが、彼女のこんな詩があります。「玩具のない子が」という詩です。
 
 「玩具のない子が/さみしけりゃ/玩具をやったらなおるでしょう
  母さんのない子がかなしけりゃ/母さんをあげたら嬉しいでしょう
  母さんはやさしく/髪を撫で/玩具は箱から/こぼれてて、
  それで私の/さみしいは/何を貰うたらなおるでしょう。」
 
何者によっても癒されないさびしさ。もちろん、お母さんを貰えるわけはありませんし、取り戻せるわけでもありません。愛するお母さんを失った方の寂しさは、何にもたとえようのない寂しさだと思います。しかし、それを超えるというか、それとはまた別の、何ものにも癒されない寂しさ、どうしようもない寂しさが私たちにはあります。金子みすずの研究家である矢崎節夫さんはそれを倉田百三の言葉を借りて「人間の運命としての寂しさ」と表現しておられます。
 私たちキリスト者は、それを神から切り離された寂しさと表現しても良いかもしれません。子どもたちは安定した、愛情あふれる家庭や社会の中に置かれれば、ほとんどの場合きっと癒され、安心することでしょう。それは親子の絆の中に、また人と人との絆の中に神と人間の関係の写しのようなものが現れているからなのです。しかし、現代社会では、そのような親子関係や人間関係が歪められ、ずたずたに断ち切られてしまっているのではないでしょうか。だから、子どもたちは寂しい、私たちもどうしようもない寂しさを抱えているのではないでしょうか。
 さて、今日は昇天日、イエスさまが復活され、40日の間弟子たちと共におられた後、天に昇られた日を記念する礼拝です。この40日の間、復活されたイエスさまは弟子たちのもとにご自分を現され、弟子たちの目を開かれました。弟子たちは愛するイエスさまを十字架上で失って、茫然自失、絶望の底に沈んでいたのですが、その弟子たちに現れ、食事も共にし、励まし勇気づけられました。そして、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」と命じられたのです。マタイ福音書28章では、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と仰っておられます。いわゆる大伝道命令と呼ばれるイエスさまの命令ですが、その中で「いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっていることを覚えたいと思うのです。そのことをさらに明確な形で語っておられるのがヨハネ福音書です。14章18節で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と約束してくださっているではありませんか。「あなた方をみなしごにはしておかない。」何という力強い約束ではありませんか。そして、こうも語っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14:16) 別の弁護者(以前の口語訳では助け主)というのは、もとのギリシア語では「パラクレートス」と言うのだそうですが、それは本来、法廷で誰かの横に立ち、弁護と証言をする人のことです。援助者として呼ばれた者という意味です。それは、そっと寄り添ってくれる人です。落胆している人を励ましてくれる人です。暗闇にある人にとっては、足下を照らしてくれる人です。悲しみに沈んでいる人には、慰め、元気づける人です。イエスさまは昇天され、私たちの前からは目に見える形ではおられなくなったのですが、常にご自分と一体である聖霊として私たちと共にいて下さることを約束してくださったのです。その約束が、具体的な形で歴史の中で実現したのが、聖霊降臨という出来事です。今日の使徒言行録にはその予告がなされています。「前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」というみ言葉です。
 神はペンテコステの日に聖霊を下されただけではありません。今もなお、私たち一人一人の中に聖霊を注ぎ、私たちを生かしてくださっています。私たち人間は、アダムの罪によって神から切り離され、金子みすずが歌ったような「運命としての寂しさ」を背負っています。現代社会においてはなおのこと、人間同士の絆も断ち切られ、寂寞とした思いをもって生きていると言っても言い過ぎではないでしょう。しかし、イエスさまが「孤児にはしておかない」と約束されたように、神は私たちの内に助け主を送り、たえず神との正しい関係に招き入れてくださっているのです。私たちキリスト者はそのことを知っています。そして、そのことを信じ切れるとき、私たちの心は平安で満たされます。安らぐことができるのです。そして、そのことを表現しているのが毎主日、私たちが与る感謝の祭典、聖餐式なのです。
 私の知り合いに、橋本山吹さんというカトリックの信徒で、詩人の方がいらっしゃいます。彼女はいわゆる精神障碍を抱えています。心の病をもっておられる方は実に多く、ある報告によれば、全国に220万人、そのうち入院されておられる方は約30万人ということです。これらの人々は自分を受け止めてくれるところが家族にも社会にもないまま、寂しさ、むなしさに打ちひしがれながら、病院の壁の中で暮らしています。しかしこれは、誰でも実に簡単に陥ってしまう病気なのです。つい最近まで元気でおられた方が、あることがきっかてになって鬱病やその他の症状で人にも会えなくなってしまう。仕事にもでかけられず、外出もできない。私の周りにも、そのような方が、様々な年齢層におられます。人間の心は、本当に精密で美しいものですが、同時に脆いものでもあるのです。橋本さんも19歳の時に躁鬱病にかかり、苦しみの中で生きてこられ、28歳の時に結婚されてからは、ご主人と支え合いながら詩を書き、この病と共に生きておられます。橋本さんのお話では、心に病を抱えておられる方は、どんなに症状が軽くても「瀕死の病人」だと思わなければなりません。それほど、死に直面している、つまり自死する可能性が高いからです。橋本さん自身も、幾度となく自殺未遂を繰り返し、生活保護の担当のケースワーカーに「ああ、どうぞ。死んで下さいよ。」と言われたこともあるそうです。「どうか、死なないで。ありもままのあなたが生きてくれていることが嬉しいのよ。」そういってれる人をどれだけ待ち望んだか分からない、と彼女は言います。「こうあるべきだ」とか「こうしろ、ああしろ」と指図するのではなく、ありのままの自分に寄り添って、共に生きてくれる人がいてくれさえすれば、と願い続けました。そして、「なぜいつまでも、この苦しみを取り除いてくれないのか。私が世の中で一番不幸だ。」と神を呪いました。その苦しみのさなかに、彼女は美しい幻を見たと書いています。そしてその幻の中で、神は橋本さんに、こう語りかけました。「おまえは不幸じゃないんだよ、一生懸命生きてきたじゃないか。それに、おまえの周りには、おまえを支えてくれる人が、友人がいるじゃないか。」真理の霊が彼女に語りかけたのだと、私は思います。彼女は、寄り添って生きてくれている人々の存在に気がつくのです。夫がいる。自分を信仰に導いてくれた妹、母代わりになって支えてくれた教会の人々がいる、シスターがいる。そして何よりも、いつも自分を見つめてくれるイエスさまがおられる。そのことに気づいた橋本さんは、生きる力を与えられます。
 その日の朝、一篇の詩ができました。
 「昨夜、私が死んだ。/絶望し、絶叫し/すべてをはき出し/のたうち回り
  癒されぬ渇望の果てに/うつろな骸が横たわり
  ただそこに/きみがいた/苦悩に耐え/愛を秘めて/いつでもそこに立っていた
  その愛が/私の亡骸に染み渡り/命の息を吹き込んだ
  天のやさしさ/きみのやさしさ/人のやさしさ
  そうして今朝/私は新たに生まれた」
 苦しさの中で出会った安らぎ、暗闇の中で見つけた光明、それは、寄り添ってくださるイエスさまの存在に気づいたことによって与えられました。雨の中で、一緒に傘をさして歩んでくれる人がいる、共に歩んでくださる方がおられる。私たちもまた、人生の中で雨に出会ったとき、ひとりぼっちで濡れて行かなくても良い、「蛇の目でお迎え嬉しいな」ではありませんが、イエスさまの傘を共に差して歩こうではありませんか。そして、「ひとりぼっちじゃない」ということを心の底から実感し、聖霊に満たされて、イエスさまの命令に従ってその喜びを全世界に伝えようではありませんか。とくに教区婦人会に集う皆様は大きな役割を担っています。子どもたちにも、また大人にも「寂しい」と言わせない、そして自分自身にも「寂しい」と言わせない働きを、聖霊に導きによって果たされますように。皆様の上に神さまの豊かな祝福がありますように祈っています。
 
<祈り>
 いつも私たちと共にいて下さいます神さま。感謝します。私たち人間は、あなたから離れるとき、孤独感にさいなまれ、「寂しさ」の中に取り残されます。しかし、み子イエスさまは、私たちに弁護者を送り、寄り添い、共に歩むことを約束してくださいました。どうかぼろぼろになり、破れてしまった私たちの心を癒し、私たちがあなたによって造られ愛されていること、聖霊が私たちの内に注がれ、蘇りのキリストが常に共におられることを固く信じることができますように、私たちに真理を悟らせてください。