2008/2/3 大斎節前主日
 
旧約聖書:出エジプト記 24:12,15-18
使徒書:フィリピの信徒への手紙 3:7-14
福音書:マタイによる福音書 17:1-9
 
塵あくた
 
 今日は、大斎節前主日です。大斎節というのは、英語でレント、四旬節と呼んでいる教派もあり、復活日までの40日(プラスその間の主日の数)を言います。この大斎節は、イエスさまの荒野での試練に倣い、節制と克己に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間だという意味があります。ちなみに「克己」という言葉は、「大斎克己献金」という言葉にもなっていますが、「己に克つ」という意味で、普段の物質的欲望を抑えて、例えば一日コーヒー一杯を節約して献金し、それを復活日にお献げして、全国の宣教活動に役立てていただこうというのが趣旨になっています。また、昔は大罪を犯した人がこの間に悔い改めて社会復帰を果たすことになっていましたし、洗礼志願者はこの間に身を慎み、過去の過ちを悔い改めて復活日に洗礼を受けるというのが習わしでした。今では、そのような慣例はだんだんと緩やかになっていますが、それでも、普段の自分の生活や生き方を見つめ直して、神さまの方に向き直る(メタノイア)ための特別な期間であることには違いありません。今週の水曜日は大斎が始まる大斎始日ですが、別名「灰の水曜日」とも言います。イスラエルの伝統では、悔い改めるときには「灰をかぶる」という習慣があります。ですから、ヨブ記の中でも、ヨブはさんざん神と言い争った結果、人間の無力さと傲慢さを悟り、「わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」と言って全面降伏をするわけです。灰の水曜日にも、私たちは昨年の復活前主日(こちらは「棕櫚の日曜日」(パームサンデー)といいます)に礼拝で用いた棕櫚の十字架を焼いて灰にして、それで額に十字のしるしをつけます。「悔い改め」の象徴的表現なのです。
 ところで、大斎節前主日の福音書には、必ず、イエスさまが山に登られて、栄光のお姿に変わられたという「変容貌」の箇所が取り上げられます。「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」というのです。この出来事は、イエスさまの公生涯、宣教活動のちょうど中程に起こり、いわばガリラヤを中心とした癒しと宣教の生活から、やがてエルサレムに向かい、十字架上での受難を成し遂げられる公生涯の後半に移り変わるその変わり目をなす出来事だということができます。そのとき、モーセとエリヤが現れて、イエスさまと語り合います。モーセは律法を象徴します。そして、エリヤは預言者を代表しています。「律法と預言者」は聖書(旧約)全体を指す言葉として用いられますから、この場面でのモーセとエリヤの登場はイエスにおいて起こる事柄が聖書(旧約)全体によって証しされていることの表現となっているわけです。そしてこの後、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえます。しかし、それは同時に受難への道行きの始まりなのです。教会暦では大斎節の最後の週が聖週、つまり受難週となりますので、全体がイエスさまの受難へと焦点を当てていくことになります。そういうわけで、大斎節前主日こそこの箇所が読まれるのはふさわしいということができるでしょう。
 さて、一同が山を下りるとき、イエスさまはご自分が神の子であることを、決して人に言ってはならない、とペトロたちを戒めます。これは一体どういうことでしょうか。イエスさまは他にも、奇跡を行ったときなどにも、決して口外しないようにという「禁止命令」をよくお出しになります。それは、何のためでしょうか。イエスさまは40日40夜、荒れ野でサタンに試みられたとき、こんな出来事がありました。皆様よくご存じの場面です。マタイ福音書4:5〜4:7の記事です。「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。」私はこの中に、イエスさまの「禁止命令」の謎を解く鍵が秘められているように思うのです。それは、イエスさまは決してご自分が神の子であるという事実、その権威と力を誇ることはなさらなかったし、人々にご自分の力をひけらかすことで人々にご自分が神の子であることを信じさせはしなかった、ということです。イエスさまが神の子であるとはどういうことかは、イエスさまが十字架につけられて復活されて初めて、はっきりと示されることであって、不思議な魔力を誇らしげに示すということではなかったのです。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」それは「誇り、おごり高ぶる」のとは逆に、徹底的に人々の低みに降り、徹底的に人々に仕えるイエスさまの姿を示しています。
 私は、聖職志願をしたときに、ある方から、「あなたは、社会経験をずいぶんお持ちだろうから、何ができるかを語って欲しい」と言われたことがあります。例えば「私は企業で経営に携わってきたから教会運営を上手にできる」とか「私は青年を相手に仕事をしてきたので、青年に対する伝道に自信がある」とかいう具合にです。それは、たしかにある程度の年齢になって聖職志願をする人に求められていることかもしれませんし、本人もそう考えたいのだろうと思います。しかし、私は少し変だなと思いました。むしろそれは大いなる誘惑であると感じたのです。ですから、こうお答えしました。「わたしはこれまでの人生の中で得たことを誇ろうとは思いません。むしろそれらは、今となっては<塵あくた>に過ぎないと思います。しかし結果として、それらが用いられ、生かされることがあればそれは大きな恵みだと思います。」そんな風にお答えしたのです。ちょっと模範的すぎる回答だったかも知れません。これは、聖職になろうとするときの誘惑の一つなのですが、聖職でなくとも、すべてのクリスチャン、すべての人にとって、自分の経歴や能力、地位や経済力、あるいは容姿を誇りたいというのは大きな誘惑です。避けがたい誘惑だろうと思います。しかし、パウロはこのことについてどう教えているでしょうか。今日の使徒書であるフィリピの信徒への手紙の中で、パウロは(少し前から読みます)「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」「塵あくた」それは、私たちの生き方の根拠とはなり得ない、つまらないものという意味です。パウロは、別の箇所で、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。(…)それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(…)『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(コリント一 1:27-31)パウロにとって誇るべきものは、イエス・キリストその方以外には何もなかったのです。私たちの人生やその中で苦労して得たものを誇ってはいけないというのではありません。しかし、私たちの人生が肯定され、よいものが与えられているとするならば、それは神の恵みによる他はないということを私たちは覚えなければならないのではないでしょうか。そして、すべての栄光は神にお返しする。それが、神さまの恵みに対する私たちの応答なのです。
 先日私は、面白い話をクーパー司祭から教えていただきました。ある大学の同窓会が開かれ、恩師である教授の家を訪れたときのことです。そこでの話はすぐに、毎日の仕事と生活でのストレスの話になったそうです。教授はすぐにコーヒーを入れるためにキッチンに行き、大きなコーヒーポットと様々なコーヒーカップを持って現れました。陶磁器のものもあればガラスやクリスタルのものもあり、プラスチックのものもありました。見るからに高価そうな凝ったものもあれば、実用本位の素朴なものもありました。みんながそれぞれ手にカップを持ったところで、教授はこう語ります。「みんなの手には、高価そうな立派なカップがあるね。素朴で安そうなものを取ったものはだれもいない。自分にベストなものをとるのは自然なことかも知れないが、それこそが、君たちの悩みとストレスの根源だとは思わないかね。君たちが欲しかったのはコーヒーで、カップではなかったはずだ。しかし、君たちはみな、一番よいカップの方に行って、それからみんなのカップを密かに比べていたね。人生はコーヒーだ。そして仕事や地位はカップだ。それらは単に人生を入れるための道具に過ぎないし、人生の質を変えることはできない。時に私たちは、単にカップのことだけを考え、神さまが入れてくれたコーヒーを味わうことを忘れてしまうのだよ。」
 いかがでしょうか。私たちが誇るべきもの、それはイエス・キリストの死と復活に与ることによって得られた新しい生き方であり、私たちの人生を神さまが祝福してくださった、つまりコーヒーを神さまが入れてくださったという事実ではないでしょうか。私たちは自分のわずかばかりの能力や地位、あるいは人と比べて立派と(あるいは「まし」)と思えるもの(つまり「コーヒーカップ」)を誇るのではなく(そうすることは、他人の不幸を密かに喜ぶことにつながります)、神さまの恵みそのものを素直に受け入れ、感謝することが必要ではないかと思うのです。
<祈り>
恵み深い主よ。み子イエス・キリストは、公生涯を始められるときに、40日40夜にわたって荒れ野で試みを受けられました。私たちはそのことを覚え、また、私たち人間のすべての罪を負って十字架にかかられる受難の道を歩まれたことを覚え、大斎節を迎えようとしています。どうか私たちがあなたのみ旨を深く心に刻み、人生の中でイエス・キリストによる恵みだけを誇ることができるようにしてください。