2006/12/3 降臨節第1主日(C年)
 
旧約聖書:ゼカリヤ書 14:4-9
使徒書:テサロニケの信徒への手紙一 3:9-13
福音書:ルカによる福音書 21:25-31
 
人生の秋に
 
 今日から降臨節、アドヴェントに入りました。アドヴェントのろうそくを毎週一本ずつ灯しながら、主のご降誕へと近づいて行きます。そして本日から、キリスト教の新しい一年が始まります。読まれます福音書も、昨年はマルコ福音書が中心的に読まれるB年でしたが、今日からは主としてルカ福音書が読まれるC年に入ります(私たちの聖公会は、カトリック教会と同じように3年周期の聖書日課を用いて、聖書の全体に耳を傾けるようにしているわけです)。そして、先主日にも申し上げましたように、降臨節には、(1)主イエス・キリストの再臨を待ち望む、という意味と、(2)幼子イエス・キリストのご降誕を待ち望む、という二重の意味があります。今日はまだ、先主日「聖霊降臨後最終主日=キリストによる回復」の延長として、王なるキリストが再びおいでになるというところに重点が置かれています。それは、今日の旧約聖書や福音書、特に特祷をご覧になればおわかりいただけると思います。特祷には、「終(お)わりの日(ひ)に生(い)きている人(ひと)と死(し)んだ人(ひと)を審(さば)くために栄(えい)光(こう)をもって再(ふたた)び来(こ)られるとき、永(えい)遠(えん)の命(いのち)によみがえらせてください。」と書かれているのです。
 では、キリストが再臨されるとき、一体どのようなことになるのでしょうか。今日の旧約聖書のゼカリヤ書とルカ福音書には、両方とも、天変地異が起こり、世界が崩壊する様子が記されています。宇宙的終末といっても良いかも知れません。そのような終末は、考えるだけで恐ろしいことです。考えたくもありません。しかし、環境破壊や戦争によって、そのようなときが近づいていると言う人もいます。「終末時計」というものがあるそうです。核の脅威や戦争による地球最後の日までの時間を示す時計で、米国シカゴの科学雑誌が管理しているようです。現在が終末を示す午前零時の何分前であるかによって危機の度合いを表わしています。1947年に7分前にセットされ、冷戦たけなわの1953(昭和28)年にアメリカが水爆実験を行なったときに2分前と最も零時に近づきましたが、その後冷戦の終結に伴い1991(平成3)年には17分前まで戻されていました。1998(平成10)年にはインド、パキスタンの核実験により9分前に進められています。
 まったく身の毛のよだつ予想です。しかし、聖書が告げる終末は、単なる破滅ではありません。それは、約束の日であり、希望と喜びの日でもあります。本日の福音書には、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と書かれているのです。おぞましい終末の時に、輝かしい希望がやってくる。破壊されるのは古い秩序であり、新しい秩序、神の国がやってくる、そう告げているのです。
 ここに記されているのは宇宙大の終末と新生です。それは、私たち人間には、少なくとも私には理解を超える事柄ですが、これを私たちの人生に譬えてみると、少しは分かるかも知れません。私たち一人一人、個人としての人間には着実に終末が訪れるからです。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩編90:10)そこには人生のはかなさが謳われています。人間は限られた命しか与えられていないのです。それはある意味で悲しく、寂しいことかも知れません。そしてある年齢になると、以前はできていたことができなくなる。体の自由がきかなくなる。記憶もあやふやになってくる…。人生の秋に起こるさまざまな事柄は、たしかに、ある意味では人生の危機です。今まで持っていた多くのものが失われていくからです。しかし、『人生の秋に』という随筆集を書いたヘルマン・ホイヴェルス神父は、自分の友人の祈りとして、次のような言葉を紹介しています。それは「最上のわざ」と題されています。
 
この世の最上のわざは?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に平静に、おのれの十字架をになう---。
若者が元気いっぱい神の道をあゆむのを見てもねたまず---、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも親切で柔和であること---。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために---。
おのれをこの世につなぐくさりを少しばかりはずしていくのは真にえらい仕事---。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる、それは祈りだ---。
手は何もできない、けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために---。
すべてをなし終えたら臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と---。
 
人生が終わりに近づくということは確かに受け入れがたいことですが、しかしそこには大きな神の恵みが働いているということはできないでしょうか。謙虚さと柔和さを身につけ、まことのふるさとに行くために、心に磨きをかける。それは素晴らしいことです。何かができるからではなく、ただその方がおられるだけで人々を力づけることができる。手を合わせて、人のために祈ることで、世界を変えることができる。人生の秋はそのような力を持っているのではないでしょうか。
 そしてもっと大切なこと、それは、私たちの人生の実り(実りの秋といいます)は、実は私たちがこの世に別れを告げた後に初めて完成されるということです。それはある意味では私たちが永遠の命に与るということです。私たち自身は、自分の人生の実りを見ることも経験することもほとんどありません。私たちは自分の生きてきた航跡に目を奪われ、どれほどのことをしてきたのか気にかけるのですが、しかし、人生の美しさは人生が終わったずっと後にその実が結ばれるということにある。これは、ヘンリー・ナウエンの言葉です。イエスさまは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と教えられました。イエスさまご自身も、30数年の人生の間に、ほとんど郷里を出ることもなく、生きている間に彼に出会った人々にほとんど理解されることなく、十字架の上で命を献げられました。そのとき、イエスさまの人生は挫折、失敗に見えました。しかし、その後の歴史の中でイエス・キリストほど人々に大きな影響を与え、人類の歴史を動かしてきた方は他にはいないのです。世界のすべての人にとって、イエスさまは救い主、つまりキリストになられたのです。「死んで後多くの実を結ぶ」それはイエス・キリストや、その後信仰のために命を献げた人々だけではありません。私たち一人一人が、死の後に人生の実りを実現するということができるでしょう。私の叔母は今、93歳を迎えようとしています。耳はほとんど聞こえず、寝たきりの状態です。その叔母が先日、このような葉書を書き送ってくれました。「聰さんが司祭になったことを一番喜んで祝福してくれているのはお父さん(吉村大次郎)だと思います。父は天国であなたを見守っていてくださると私は信じています。」細い細い、ミミズのはうような頼りない字で書かれていました。私は祖父にあったことはありません。私の生まれる前に、祖父は亡くなっていたからです。しかし、なぜか、叔母の言葉は私にはよく分かるのです。私たち一人一人、皆様方一人一人を、私たちの親や祖父母、曾祖父母は見守ってくれている。祝福してくれている。そして、私たちもまた、次の世代を見守り祝福する立場に立っていくのです。ヘンリー・ナウエンはこう書いています。「新しいものが生まれ、それについて今は考えることもできませんが、その新しい誕生は、私の個人史をはるかに超えるものであり、代々受け継がれ、永遠に生き続けるのです。このようにして、私は新しい親、未来の親となるのです。」
 私たちの人生の秋は、決して寂しいものでも、暗いものでもなく、明るく希望に満ちた未来へと続いています。イエス・キリストは「身を起こして頭を上げなさい。」と教えておられます。人生の秋ではなく、春や夏におられる方でも、どうしようもない苦境に立ち、暗闇の中を歩むことがあると思います。そのようなとき、前方に光が差し込むことを信じて、「身を起こして頭を上げ」ようではありませんか。中学生や高校生も、今日では、しばしば暗闇の中に置かれます。親子関係を含めた人間関係につまずいたり、いじめに会ったり、あるいは劣等感にさいなまれたり、さまざまな悩みを抱えているのです。不登校の生徒もいます。ごく最近も、下級生からの集団的ないじめ(暴力ではなく、態度や言葉によるいじめ)に会って、制服を見ただけで拒絶反応を起こし、ついに学校に来ることができなくなった生徒がいました。いじめも問題ではあるのですが、彼女の生育の仕方にも問題があり、周りの生徒からはずっと孤立した状態が続いていました。しかし、なんとかして卒業はしたいということから、現在では、教室ではありませんがなんとか先生方とご両親の支えによって登校を続けることができるようになりました。私も何度か話し合ってみましたが、現代の競争社会に組み込まれた学校の現実と、そして、彼女自身が持つ心の問題とが複雑に絡み合って、なかなか解決方向が見つからないケースでした。わたしはただ、彼女が希望をもって歩むことができるように、寄り添うしかなかったのです。彼女は今自分の中で闘っていますが、やがて「身を起こして頭を上げて」歩み始めると私は信じています。
 私たちもみな、困難なとき、苦しいとき、生活苦や心の病に苦しんでいるときでも、それはやがて明るい希望へと連なっているということを信じて、「身を起こして、頭を上げて」歩みたいものです。
<祈り>
神さま、み子イエスさまは、必ず再び私たちのもとに来られ、世界を再び神さまと和解させてくださることを約束してくださいました。それは、世界の終末における希望であるとともに、私たち一人一人の人生が永遠の命に与ることができるという希望でもあります。この世における私たちの人生は限られたものですが、どうか、それを祝福し、将来にわたってよき実りを結ぶことができるようにしてください。私たちが苦しみ悩むとき、苦しみの中でこそ希望と喜びとを与えてください。