2006/6/11 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日
 
旧約聖書:出エジプト記3:1-6
使徒書:ローマの信徒への手紙8:12-17
福音書:ヨハネによる福音書3:1-16
 
生ける神
 
 キリスト教の暦は、イエス様のご降誕とかご復活とかいう出来事を記念するようになっているのですが、三位一体(一般にはサンミイッタイと読みますが、聖公会ではサンイイッタイと読むようです。)主日は、父と子と聖霊とが一体であるというキリスト教の教えを記念する珍しい祝日です。
 三位一体という教え自身は、古代教会の中でだんだんと確立され、それをはっきりと定式化したのは、テルトゥリアヌスという教父であると言われています。聖書の中にも、マタイ福音書に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」というイエス様の命令が記されており、「父と子と聖霊」という三位一体の表現が使われていますが、やはり教えとしてはっきりしてきたのは、後のことだと思われます。では、父と子と聖霊が一体であるというのはどういうことでしょうか。それは一体何を意味しているのでしょうか。今日の聖書のみ言葉から学んでまいりたと思います。
 今日の使徒書であるローマの信徒への手紙の中で、パウロは「アッバ、父よ」という呼びかけを非常に重視しています。この言葉はもともと、み子イエスさまが十字架につけられる直前、ゲッセマネの園で祈られたときの言葉です。マルコによる福音書14章36節には、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」というイエスさまご自身の言葉が残されています。「アッバ」というのは、アラム語(ヘブライ語と近い関係にある言語で、イエスさまの時代のイスラエル人は日常会話ではアラム語を話していました。)で子どもが父親に呼びかけるときの「パパ」という呼び方です。ちなみに韓国語でも「アバ」というそうですが、「パパ」とか「アッバ」とかいうのは、本当に親を信頼しきっている子どもの口から出る言葉なのです。イエスさまは、父なる神と(神さまにはもともと性別はないので、母なる神かもしれないのですが)それほど近い人格的関係にあったということができます。パウロは神が私たちにも私たちを「神の子とする霊」を送って下さったので、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのだと書いているのです。同じパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙4:6には「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」と記されており、この霊はイエス・キリストの霊であるとされています。つまり、イエスさまには神の霊が宿っていて、神さまと非常に近い人格的関係、つまり「アッバ」と呼びかけるような関係におられる。その同じ聖霊が私たちにも送られていて、私たちは神さまと親子のような近い人格的関係を結ぶことができる、ということではないかと思います。
 そのような人格的関係は、神は生きておられる、生ける神であるというところから始まります。神は死んだ神ではありません。高いところに鎮座ましまして、人間界を見下ろしている冷たい存在ではありません。生きて、私たちの間に働き、私たちを愛してくださる神です。私たちの神は、私たちの苦しみを分かち合ってくださる神です。子どもが苦しんでいるとき、それを心配しない親があるでしょうか。神は私たちを造り、それをとことんまで愛することを決断されました。今日の福音書であるヨハネ福音書の3章16節にはまさに次のように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」だから、神は罪に苦しみ、悩みの内にある私たちと同じ経験をされるために、み子イエスを私たちのもとに送り、イエス様が昇天されてからは、私たちに聖霊を送って下さったのです。私たちはそのことを知っています。
 それでも、私たちは人生の中で苦しみや悩みに出会ったとき、その苦しみの中から様々な問いを神さまに投げかけます。「どうして、私がこのような目に遭わなければならないのか」という怒りをぶつけることもあります。鬱状態に陥ってしまうこともあります。そして、いつまで経っても神さまから答えが与えられないことに、なお悩みを深めるのです。しかし、すぐに応えてくださらないとしても、神さまは私たちの苦しみをご存じです。そしてその苦しみをともに担ってくださるのです。それはちょうど、親が子どもの苦しみを知って、すぐには助けてやれないけれど、愛情に満ちた目で見守ってくれるのとよく似ています。私は映画『パッション』のとても印象的な場面がまぶたに焼き付いています。それは、イエスさまが十字架上でお亡くなりになるとき、一瞬時間が止まったかのように見え、その凍り付いた一瞬に天上から一滴の水滴が地上に落ちるのです。それは、我が子の死を悲しむ神の涙のように思えました。神さまは私たちの問いかけに沈黙されているようでも、必ず、それを見守り、ともに苦しんでおられる、そのように思えるのです。
 私たちは、悩みの中で様々に動揺します。しかし、私たちの心の状態がどのようであろうとも、神さまは必ずともにいて下さるのです。藤井理恵さんという淀川キリスト教病院のチャプレンをしておられる女性の牧師が、最近『たましいのケア』という本を出されました。一卵性双生児の姉妹の美和さんとの共著です。彼女は、「神さまがともにおられる」ということを、多くの出会いの中で経験し、それをこの本の中に記しておられます。例えば、Mさんといわれる55歳の女性で、肺ガンを患ってホスピスに入院された方のことです。彼女は長い間教会から離れておられましたので、罪意識があり、ずっと抑鬱状態でしたが、一時退院後近くの教会に通われるようになり、一時はとても明るくお元気になられたようでした。しかし、まもなく、すぐに落ち込んでしまわれたそうです。Mさんはまた、「どうして私が?」と思うようになりました。「一生懸命してきたのに悔しい」「助けてほしい」そんな思いを藤井先生にぶつけられるようになりました。表情も硬く、看護師さんもMさんを避けるようになりました。しかし、藤井先生は「苦しんでいる人ほど孤独になる。苦しんでいるからこそ、良い表情を出せないのだ。」ということに気づきます。人間は人の外見で、その人の内側の状態まで判断してしまいます。しかし、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)と記されているように、神さまは心の中をご存じです。人は外側から判断し、「Mさんはクリスチャンなのだから、もっと明るくならなければならない。これでは本当に救われているとは言えない。」と言って、Mさんを励ますつもりが、ますます孤独に追い込むのですが、神さまはその孤独や必死の思いをずっとご存じだった。そして神さまは決して「こうあるべきだ」だとか「こうしなさい」とは命令しない、そう藤井先生は語ります。やがて、亡くなる数週間前からMさんの表情は優しくなり、「心が軽くなりました」と言われるようになりました。亡くなる5日前には、藤井先生が枕元で賛美歌517番を歌うと、「三番の歌詞が私にはぴったりです」といわれたそうです。賛美歌517番(英語ではJesus is callingというのだそうです)は聖公会の聖歌集では455番にあり、少し訳が違っておりますが、賛美歌の方では三番の歌詞は「迷う子らの帰るを、主は今待ちたもう。つみとがもあるまま、きたりふせ。帰れや、我が家に帰れや、と主は今呼びたもう。」となっています。「罪も咎もあるまま」というところが、本当に神さまの御心を表していて、素晴らしいと思います。長い間、罪の赦しを求めてきたMさんに、神さまは罪も咎もあるままで、すでに赦していることを伝えてくださったのだ、と藤井先生は語っておられます。
 ですから、神さまの前で、肩を張らなくても良いのです。「良いクリスチャン」になろうと無理をしなくても良いのです。最近、桃山学院に来られてお話をしてくださったそうですが、カトリックの晴佐久神父は、『だいじょうぶだよ』という詩集で有名な方です。その中に『病気になったら』という一篇の詩があります。その一部を読んでみましょう。
「病気になったら どんどん泣こう
 痛くて眠れないといって泣き
 手術が怖いといって涙ぐみ
 死にたくないよといって めそめそしよう
 恥も外聞もいらない
 いつものやせ我慢や見栄っ張りを捨て
 かっこわるく涙をこぼそう
 またとないチャンスを貰ったのだ
 自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを」
 実はこの詩は、晴佐久神父自身が病気にかかったときに生まれた詩なのです。彼は、その事情についてこう書いています。「真っ先に思いついた言葉を一行目に置いた。<病気になったら、どんどん泣こう>この一行で、ぼくは自分自身を救ったのだと思う。後は一気に、一晩で書き上げた。」私たちは、立派に生きて、立派に死にたい、そんな思いに駆られます。しかし、そんな風には行かないのです。自分の思いとは逆に、無力な自分を発見してしまうのではないでしょうか。くやしくて、そんな自分を受け入れることができないこともあります。病気でなくても、生活の中で、他の人と比べて自分も能力ある人間でありたいと願うのが人間です。しかし、神さまはそうではありません。「何かができる」から私たちを愛してくださるのではなく、ただ「ここにいる」というだけで私たちを愛してくださるのです。私たちの存在そのものが、神さまにとってはこよなく大切なのです。幼子は、ただ泣くことによってしか自分の存在を訴えることができません。泣き声によって、自分がそこにいることを知らせるのです。私たちも、神さまの前で、泣いてもいい、わめいてもいい。ありのままの自分をさらけ出そうではありませんか。イエスさまも、ゲッセマネの園で祈られたとき、苦しみのあまり血の汗を流したと言われています。もちろん、さすがイエスさまです。その後で、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と言い切られます。しかし、私たちにはそれは不可能です。それはイエスさまが私たちに代わって、私たちのために十字架上でなしとげてくださったのです。私たちはただそのことを感謝し、神さまの前で甘えて、苦しみや悩みをすべて打ち明けるだけでよいのではないでしょうか。
 
<祈り>
 天におられる造り主である神よ。あなたは私たちを造り、命を与え、支えていてくださっています。私たちはただ、「アッバ」と呼んであなたにおすがりする他ない小さな存在です。どうか、私たちの苦しみや悩みをあなたが包み込んでくださいますように、そして、私たちのわがままな叫びを受け入れてくださいますようにお願いいたします。