2008年1月27日 顕現後第3主日
旧約聖書:アモス書 3:1-8
使徒書:コリントの信徒への手紙一 1:10-17
福音書:マタイによる福音書 4:12-23
「我に従え」
イエスさまが最初の弟子たちをお招きになった聖書の記事は、四つの福音書のすべてにありますが、そのうちルカ福音書を除く三つには、「私についてきなさい」(文語では「我に従え」、ラテン語では桃山学院の標語になっていますSequiminime)というイエスさまの言葉が記されています。今日のマタイ福音書では「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とあります。ちなみにこの「とる」という言葉は、文語では「漁る(すなどる)」となっていて、なかなか趣のある表現になっていたかと思います。
ところで、今日の福音書によく耳を傾けてみますと、イエスさまが宣教活動を始められたときに世の中はどうであったかが、イザヤの預言を借りて語られています。「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」。それは直接的にはガリラヤのことですが、イエスさまの当時のユダヤ全体の状況をも表しています。当時ユダヤは、ヘロデ王朝や伝統的なユダヤ支配層と、ローマ帝国の二重支配の下にありました。形の上ではガリラヤは王様がいて、ユダヤにはローマ総督がいたという違いがありましたが、いずれの場合も、ユダヤ支配層とローマの二つの支配が人々の上にのしかかっていたという点では違いがありませんでした。また、そんな中で人々の心も荒んでいました。展望のない世の中で、絶望していた人もいたことでしょう。律法を守れば救われると言って、律法の徹底化を唱えたファリサイ派、ローマ軍を暴力で排除しようとした熱心党。ローマにすり寄ることで生き延びようとしたヘロデ派。さまざまな思いと社会的暴力とが渦巻いていた世の中でした。時代はさらに700年以上遡りますが、今日の旧約聖書の預言者であるアモスも、不正義と格差が広がっていた当時のイスラエル社会を厳しく批判します。「打ち合わせもしないのに/二人の者が共に行くだろうか。獲物もないのに/獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに/若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。餌が仕掛けられてもいないのに/鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに/罠が地面から跳ね上がるだろうか。」これは、原因があって初めて結果がある、神の罰が下るのは必ずその原因があるのだ、ということを表しています。この言葉に心ある人々は、神の裁きが近づいていることを感じたことでしょう。
洗礼者ヨハネの洗礼運動は、その暗闇に、火を投げ入れました。彼も人々に神の裁きが近づいたことを知らせます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。」それは厳しい審きの言葉です。そのヨハネがガリラヤ王ヘロデ・アンティパスにとらえられた後、イエスさまもまた、悔い改めを呼びかけ神の国の到来を告げる宣教活動を開始されました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これが、イエスさまの最初の宣教の声です。マルコ福音書では「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」となっています。どんな運動でも、選挙運動でも、最初の一声が肝心だと言われますが、まさに、イエスさまの第一声にも、それから始まる宣教活動の核心が込められていると言えるでしょう。まず、「悔い改め」という言葉ですが、これはもとのギリシア語では「メタノイア」といいます。単に悪いことをしたから反省する、というのとは違っています。「反省なら猿でもできる?」という広告もありましたね。そうではなく、これは「向きを変える」「方向を転じる」ということを表しています。漢字で言うと「改心」よりは「回心」という方が適切なのでしょう。どのように方向を変えるのでしょうか。それは、自分中心の心の向きを、神さま中心、そして他者中心の心の向きに変えることです。神さまの方に向き直って、その愛を受け入れ、他者つまり隣人のために生きるように方向転換を図ることが「メタノイア」です。旧約聖書のヘブライ語では「シューブ」といいますが、これは「神に帰る」「立ち帰る」ということを意味していて、やはり、生き方の方向を表しています。さらにイエスさまは、「神の国は近づいた」(マタイ福音書では「天の国」)と教えておられます。神の国とは、私たちが死後に誘われるところでもありますが、同時に、私たちの現在の生き方に関わる事柄です。私たちが自分に命を与え、命を支えてくださる神に向かい、隣人と共に生きる関係を結んだとき、そこに神の国は生まれます。さらに神の国は、決して、領土や政府を持つ「国家」ではありませんが、この世界での広がりを持っています。それは、この私たちが住む世界に、神の正義と平和が行われるという希望です。「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と「主の祈り」にあるとおりです。身の回りやこの国、さらに世界に目を向けてみますと、目を背けたくなるような現状があります。子どもたちの心の中にも、暗闇がぽっかりと穴を開けています。子育て中の親の中にも、とまどいと暗闇があります。この教会でも行っている子育て支援のプログラムがその中に明るい希望の光を点すのに役立つように願っています。最近『ルワンダの涙』という実話に基づいたDVDを入手しましたが、アフリカのルワンダという小さな国で今から10数年前に起こった民族大虐殺を描いた映画です。大統領の飛行機事故死をきっかけにして起こったこの紛争では、フツ族がツチ族を襲撃し、100日間でおよそ100万人のツチ族が虐殺されたと言われています。そしてその中で真っ先に犠牲となり、難民となるのは、子どもたちと女性です。映画では、その衝撃的な場面がリアルに描かれていますが、それはまさに、極端なナショナリズム、部族主義が煽られることで、人々の生活が、人々の心が悪魔に乗っ取られてしまう有様を示しているのです。ケニヤで起こっている事態が、このルワンダの再現にならないように、私たちは本当に心から神に祈らなければならないと思っています。2000年前のユダヤでも人々の生活と心は闇に覆われていました。イエスさまは、本当に問題を解決するには、人間がみな神さまの方に心を向けなければならない、そして互いに愛し合わなければならないと教えられたのです。それが「神の国」の宣教の内容でした。
イエスさまがヨハネと違うところは、たくさんあるのですが、冒頭に申し上げた「我に従え」という招きの言葉について考えてみたいと思います。この言葉は英語では二通りに訳されています。Follow
meとCome with meです。Follow meの方が、「私に従って、私に学びなさい。」という意味があり、意味深い命令であると言う方もおられます。たしかに、私たちはイエスさまに従い、倣わなければならないと思います。『キリストに倣いて』という古典的な書物もあります。しかし私は、Come
with meつまり「私と一緒に来なさい」という訳も捨てがたいと思うのです。そこに描かれているイメージは、「共に歩んでくださるイエス」というものではないでしょうか。イエスさまは、ただ、「ついてこい」式の招きをされているわけではありません。私たちの弱さを知り尽くし、いつもすぐそばに寄り添いながら、共に歩んでくださるのです。マタイ福音書の最後には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスさまの約束の言葉が記されています。「人間をとる(漁る)漁師」という言葉も、ただ私たちに漁を任せておられるのでないと思うのです。大きな網を引く先頭に立っておられるのはイエスさまです。弟子たち、そして私たちはその漁に加わって網を引いているのです。「人間をとる」というと少しイメージが悪いのですが、それは、私たち人間を救うための「神さまの網」「神さまのネットワーク」ではないでしょうか(ちなみに「神さまネットワーク」というのは、ドイツにおられる柏木久栄さんがいつも口にされる言葉です)。私たちはみなこの不思議な網に掬われてここにいるのです。それは人を無理矢理連れてくるための網ではなく、人間が暗闇に落ちていくのを掬い上げてくれる網の目です。私たちはその網の結び目の一つでもあります。また、その網をイエスさまと一緒に引き上げる一人でもあります。このネットワークは、目に見えない不思議なネットワークでもあります。私たちはよく、思わぬところで思わぬ人と思わぬ仕方で巡り会うことがあります。教会の世界は狭いから、とよく言うのですが、教会外の方とも不思議な出会いをすることがあります。共通の知り合いというのもありますね。それらを仏教では「ご縁ですね」というのでしょうが、キリスト教では「ご計画ですね」と言います。そのようなとき、目に見えないネットワークを実感いたします。
「我に従え」その招きを受けた私たちは、イエスさまが共にいて下さると確信して、共にこの網を引く仕事に加えていただきたいと思います。引く力に自信のない方は、網の目を繕ってください。あるいは、網の目の一つになる。さまざまな仕方で、この網を広げていきたいものです。
<祈り>
主よ。あなたは、昔ガリラヤこの湖畔で、4人の漁師に「我に従え」と招きの言葉を語られました。どうか私たちも、そのみ言葉に従って、あなたと共に歩み出すことができるようにしてください。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの約束を、私たちはひたすら信じます。どうか、イエス・キリストの弟子の一人として、あなたの宣教のみ業に加えてください。そして、暗いことの多いこの世の中で、イエスさまの光を届けることができますように。