2007/4/22 復活節第3主日
 
旧約聖書:エレミヤ書32:36-41
使徒言行録:使徒言行録9:1-19a
福音書:ヨハネによる福音書21:1-14
 
再び起ち上がる
 
 今日の使徒言行録は、有名なパウロの回心の場面です。ユダヤ名をサウロといったこの若者は、熱心なファリサイ派でした。律法を守ることによってのみ、人間は救われると考えていたのです。そしてイエス・キリストを信じる人びとを迫害することこそが神に従う道であると信じていました。しかし、クリスチャンを弾圧すればするほど、彼の心の中には、自分の行為に疑問を感じ、「ひょっとしたら、この人たちの方が正しいのではないか」というもう一人の自分が育ってきていたのではないかと思います。信仰の内に従容として牢獄につながれ、あるいは刑場に赴いた人びとの姿に触れ、彼の心の中で次第に葛藤が深まっていきました。日本においても、26聖人を初め、最近ではペトロ岐部と187人の殉教者の列福運動がカトリック教会で行われていますが、これらの殉教者の本当に人びとの魂を揺り動かす力を持っています。サウロの心の中の矛盾は最高潮に達します。そして、とうとう彼自身もコントロールできないところにまで行き着くのです。それが、劇的な回心となって現れます。パウロ自身が回心について記した文は、ガラテヤの信徒への手紙の中に現れます。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」とあります(ガラテヤ1:13-16)。そこには、「天からの光」という表現はありませんし、目が見えなくなったという言葉もありません。しかし、使徒言行録は、急激な180度の回心を描写するのに実に劇的な表現を用いているのです。この場面は多くの宗教画にも描かれ、わたしたちクリスチャンには親しみのあるものになっています。古いサウロは一度死に、新しいパウロとして生まれ変わるのです。その象徴が「目からウロコ」という表現です。一度死んだ者が、再びよみがえる。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、こんな風にも書いています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(2:19-20)
 みなさんはそのような経験をされたことはないでしょうか。いや、これまでの人生の中できっと経験されていると思います。それほど劇的ではないにしても、落ち込んでいたときにイエスさまが傍らにおられることを感じて勇気づけられたこと、聖書のみ言葉が心の支えになって起ち上がることができたこと、愛する人の死に出会ったときに死はすべての終わりではなく永遠の命が約束されていることを知り慰められたこと、そうした経験の一つ一つが積み重なって、現在のわたしたちの信仰生活があるのではないでしょうか。また、回心とか生まれ変わるとかいうことが、このような劇的な形ではなく、長い時間をかけて起こることもあります。また、一度生まれ変わったと思っても、また次の瞬間には元に戻ってしまう、そんなこともあるのではないかと思います。
 わたしは先週、韓国の聖公会の教会を訪問してきました。その中で、韓国では最も古い聖公会の教会である江華島(カンファド)のオンスリ教会にもとても深い印象を受けましたが、中でも聖公会が運営している野宿者(韓国ではホームレスと言わずに露宿者=野宿者と言うようです)のための二つの施設は、教会の働きについて深く考えさせられる素晴らしい宣教の働きでした。一つはビジョン・トレーニングセンターで、もう一つはタシソギ・センターといいます。野宿者の問題は韓国では比較的新しく、ここ10年ぐらいの現象だそうです。伝統的に家族制度が強く、各家庭で支え合っていく風潮が強いからです。しかし10年ほど前に経済危機があり、韓国経済全体がIMF(国際通貨基金)の管理下に置かれ、いわば借金を返済するのに大変苦労された時期がありますが、その時期に失業者が増え、野宿者が増えたわけです。それでも人口900万人のソウルで、3000人程度だそうです(ちなみに大阪のホームレスは1万人近くいるのです)。多くの人びとがアルコール依存症にかかり、自力で回復することは困難です。韓国の聖公会は、そのような人びとを神さまに造られた一人の人間として捉え、その人びとが本来の人間性(神の像と言っても良いと思います)を取り戻そうとする努力と意思をサポートしているのです。そして建設資金や運営資金はほとんどがソウル市から出ています。タシソギセンターはソウル駅の近くにあり、野宿者が出入りできる便利なところにあり、毎日利用者が夕方やってきては、次の日に出て行きます。日本にもホームレスのためのシェルターというのがありますが、とても快適とは言えない代物です。冷房はなく、鉄製のベッドがずらっと並んでいるだけ。後は外にトイレとシャワーがついているだけです。入ると消毒液や殺虫剤の臭いが鼻をつきます。それに対して、このタシソギセンターは本当に清潔できれいな施設でした。床暖房と冷房が完備し、ロッカーがあり、図書室があります。そして驚いたことに、聖公会大学から教授が出張して行う教養講座まであるのです。哲学や文学、聖書、歴史などのコースが無料で提供されています。「タシソギ」というのは再び起ち上がるという意味だそうですが、まさに、人間としての自己を取り戻し、再起していくためのセンターだと感じました。そのセンターの責任者であるイム・ミョンジン神父はタシソギとは復活だ、と語っておられました。もう一つのビジョントレーニングセンターは長期滞在型の施設で、アルコール依存症に苦しんでいる人びとが、リハビリやさまざまなプログラムを通じて人間性を回復するためのプログラムを提供しています。医務室や立派な洗濯室、コンピュータルームや図書室などがあり、精神障碍を持ってしまった人びとのための作業所もあります。この運営は、聖公会のスタッフが中心ですが、日常の維持は入居者自身の手によって行われ、非常に清潔に保たれています。収容人員は250人ほどだそうです。半年とか1年とかの入居期間にすっかり人が変わってしまったように明るく活発になる方が多いそうですが、やがて社会復帰を目指すわけです。職探しはなかなか難しいようですが、野宿者であった人を雇用すると企業には補助金が出るようで、行政の腰の入れようが分かります。これら二つのセンターは、いったん絶望の中に落ち込んだ野宿者が人間として自己を取り戻し、再び起ち上がっていく。まさにその歩みを共に歩むことによって、人びとを支えていくわけです。大韓聖公会の取り組みは、もちろん野宿者だけに限られたことではなく、障害者に対しても同様の眼差しで取り組もうとしているようです。わたしたちが滞在している間に出ていた韓国の『聖公会新聞』に次のような社説が出ていました。「聖書を見ればイエス様はしょうがい者が助けを必要とする時に決してそのまま見過ごすことはなかった。マルコ福音書7章を見れば耳の聞こえない言葉の不自由な人をイエスについてきて手を置いてくださいと願った時,天を見上げて一呼吸したあと「開け」とおっしゃるや、彼は耳が開いて舌がほぐれて言葉を発したというみことばもある。明らかにイエス様はしょうがい者が来て助けを求めた時はいつでも愛を持って手を差しのべ、彼らを回復させてくれた。(…)しかし今の私たちの教会の現実は彼らの声を騒音と思い、無視して煩わしいとしていないだろうか?」この呼びかけにわたしたちも耳を傾ける必要があるとわたしは強く感じました。
 さて、今日の福音書では、復活のキリストが漁師に還った弟子たちの前に現れます。14節を見ますと、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」と記されています。なぜ三度も弟子たちの前に出現されたのでしょうか。弟子たちは復活されたイエスさまに一度、二度出会ってもなお信じることができなかったのでしょうか。それほど頑固で理解力に乏しかったのでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、イエスさまの側から言えば、それは、弟子たちが絶望の中から立ち上げって行くその過程を共に歩んでくださる、ということを意味しているのです。わたしたちが苦しみや絶望から起ち上がるとき、実はかなりの努力と時間を必要とします。また、一度分かった気持ちになっても、また分からなくなる。再び絶望に陥ることもある。しかし、最終的には希望に満たされて、福音宣教に起ち上がるわけです。その長い道のりをイエスさまは共に歩んでくださるのです。漁師の営みに加わることが、復活され、神であることが明らかになったイエスさまにどんな意味があるでしょうか。食事を共にされることがどんな意味があるでしょうか。しかし、イエスさまはそれをしてくださったのです。弟子たちと共に漁をし、共に朝の食事をされ、パンと魚を割いて与えられた。そのことが実は、わたしたち人間と共に歩んでくださるということなのではないでしょうか。
 今日わたしたちはパウロの回心についてのみ言葉を学びました。そして、古いサウロが一旦死に、新しいパウロとして生まれ変わったこと、それは復活のイエス・キリストとの出会いによるものであることを教えられました。しかし、パウロのように劇的な形で回心や生まれ変わり(新生)が起こらないこともある。長い人生をかけて歩むこともあるわけです。でもその道は孤独ではありません。そのようなとき、必ずイエスさまが共に同じ苦労をし、同じ悩みを分かち合って、歩んでくださるのです。福音書に描かれたイエスさまのお姿は、わたしたちにその確信を与えてくれます。
 
<祈り>
主よ、あなたは十字架につけられた御子イエス・キリストを復活させ、弟子たちに現してくださいました。それは、迷いと絶望の内にある弟子たちと共におられ、弟子たちと共にイエスさまが歩んでくださるためでした。感謝します。わたしたちは、そのようなあなたの愛に生かされているのだと改めて深く感じます。どうか、復活節のこの時期、復活されたイエスさまが共に歩んでくださることをわたしたちが確信し、堅く信仰に立つことができますように。