2008年5月11日 聖霊降臨日
 
使徒言行録2:1−11
使徒書:コリント12:4−13
福音書:ヨハネ14:8−17
 
和解への出発
 
 今日は聖霊降臨日、ペンテコステの日です。イエス・キリストは十字架につけられて3日目によみがえり、40日間弟子たちと共に生活され、その後昇天されました。そして、過越の祭りから50日目、五旬祭の日に聖霊を弟子たちにお送りになりました。ペンテコステというのは「50番目」という意味のギリシア語で、五旬というのも50という意味ですね。
 さて、今日の使徒言行録、あまりにも有名な箇所ですが、弟子たちが集まって祈っていますと、そこへ突然、激しい風が吹いてきたような音が聞こえ、家中に響いたとあります。この「家」というのは、一説によれば、最後の晩餐を行った家ではないかと言われています。わたしはこの聖書箇所を非常に鮮明に覚えています。それは、大阪聖パウロ教会(曾根崎にありました)の日曜学校に始めていったときの分級(たぶん1,2年生)で読んだ聖書がこの箇所だったからです。「炎のような舌」という言葉がとくに印象的で、その様子を思い浮かべたものです。先日、岸和田復活教会に西川先生をお訪ねしたときに、会館の1階にこの聖霊降臨の様子を書いた子どもの絵が貼ってありました。ご一緒に行った奈良慶治良さんは感心され、「この絵には物語がありますね。」と言っておられました。
 この聖霊降臨とそのときの多言奇跡は、一体どのように考えればよいのでしょうか。子どもたちのように無邪気な想像力を発揮することができるでしょうか。少し大きな視野で見てみたいと思います。創世記によりますと、人間は神によって造られ、命を与えられたにもかかわらず、神に背き、楽園を追放されます。そして、その後も、兄弟殺しや偶像崇拝などの罪を重ねていくのです。やがて、バベルの塔という高い塔を作って「神のようになろう」「有名になろう」と考えます。有名なバベルの塔のお話です。人々は煉瓦とアスファルトを用いて、どんどん高い塔を作り始めます。これを見て、「神のようになろう」とする人間の傲慢を嘆いて、人々の言葉をばらばらにします。そのために、彼らはもはや協力して塔を作ることができなくなりました。そして、塔の建設は放棄されるのです。こうして、人間の言語は多様に別れたのだと旧約聖書は説明します。
 それが正しいかどうかは別問題として、人間の言語は文化を創造します。そして文化の違いによって人間は敵対し、場合によっては戦争にまで至るのです。民族紛争と言われているものの多くには、言語がからんでいます。人間の敵対と戦争の歴史は、言語の敵対の歴史でもあります。ですから、19世紀末頃から、人類が同じ言葉を話せば戦争はなくなるだろうと考えて人々が、エスペラント語運動を起こしたのです。しかし、無理に作った共通語を話さなくても、お互いが違う言語を自由に理解できればよいのではないでしょうか。ペンテコステにおける多言奇跡は、まさに、人類が互いの言語を理解し合えるという奇跡を表しているのではないかと思います。さまざまな言語を弟子たちが話し出したということは、人間が再び言語の壁を乗り越えて、交わりと相互理解、和解が可能になるということを指し示してはいないでしょうか。そう言う意味で、それは敵対していた人間が和解へと向かう出発点でもあります。またそれは、キリスト教がユダヤという狭い民族的な枠組みを抜け出して、世界に伝達される絶対的な条件でもありました。
 パウロは、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Uコリント5:18)と教えています。神に背いた私たちを、再び神との交わりの中へと招き入れる。そのために、イエス・キリストはこの世に生まれ、十字架につけられました。これは絶対的な和解の実現です。しかし、世界の現実はまだまだ和解と赦しにはほど遠い。そのために、神は「和解のために奉仕する任務を私たちに授けられた」というのです。言い換えれば、教会はイエスさまによる和解の道具として、この世に派遣されていると言えるのです。ペンテコステは教会の始まりだとされていますが、それは、世界宣教の開始の時であったという理由だけではなく、和解と平和のための仕事が始まったときでもあったという理由にもよるのです。
 南アフリカは、長年にわたって差別的な人種隔離政策(アパルトヘイト)が行われてきた国でした。しかし、聖公会のツツ主教やネルソン・マンデラ(後に大統領に選出)たち、何よりも何千万という黒人、有色人種の闘いにより、1994年にこの制度は完全に撤廃されました。しかし、この国には大きな課題が残りました。何百年と黒人を抑圧してきた白人をどうするのかという問題です。今度は黒人が白人を抑圧するのでしょうか。そう考えて南アフリカを逃げ出した白人もいました。しかし、それでは解決になりません。これまでの歴史が示しているように、報復は報復を呼び、とめどもない憎悪の構造が根を下ろしてしまいます。大統領になったマンデラがツツ主教に依頼したのは、「真実と和解委員会」を立ち上げて運営することでした。この委員会の任務は、1960年から1994年までの間に南アフリカで起こった人権侵害の真相を集中的に調査することでした。数多くの具体的な事例が判明し、責任者も明らかになりました。しかし、この委員会の仕事には次の段階がありました。それは責任者に適切な処罰を加えると共に、和解と癒しへのプロセスを組織するという仕事でした。被害者はもちろんのこと加害者も、大きな心の傷を負っています。最近の言葉で言えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)です。加害者を処刑してしまえばすむというものではありません。この委員会は、例えば加害者が破壊した家の修復をさせたりします。命の修復はできませんが、象徴的な意味で加害者も被害者の回復に関わることによって和解と癒しを勧めているのです。また、和解と赦しは忘却とも異なります。この問題を取り上げたジャック・デリダという哲学者は、こんな風に言っています。「赦しがあるためには、取り返しのつかない傷が思い出され、それが目の前にあり、傷口が開いていることが必要です。傷が和らぎ、癒合したら、癒しの可能性はなくなります。」つまり、受けた傷を、あるいはそのことによる罪の意識を生々しく思い出すことによって、赦しが可能になるというのです。すごい逆説です。しかし、キリスト教で伝統的に行われてきた告懈という実践は、まさにそれを行っているのではないでしょうか。加害者が罪をあからさまに告白し、司祭がそれを真剣に聞く。そして罪の赦しを与える。また、被害者は加害者を赦せない自分を告白し、司祭はそれに対しても赦しを与える。それは、深層心理学の領域でもありますが、まさに、信仰こそがなし得る奇跡なのです。カトリック教会で告懈のことを「赦しの秘跡」と言っているのはそのためでしょう。アメリカの教会では、加害者と被害者との和解を、心の深いところで実現する「修復的司法(Restorative Justice)」ということが追求されています。「神と人との正しい関係をつくり、被害者と加害者の間の壁を取り除くことによって人の内にある壁も除かれていくという、関係回復のビジョンなのです。」と、それを推進しているハワード・セアという神学者は語っています。
 記憶を発掘するということについて、パウロ・グリンというカトリックの神父は一つの例を挙げています。きみ子さんという人のことです。彼女の父親は、結婚して子どもができて間もなく、軍隊に招集され、フィリピン戦線に送られます。そして戦死しました。残されたお母さんは、女手一つできみ子さんを育ててきました。しかし、成人したきみ子さんには、気が晴れないことが一つありました。彼女はこう言うのです。「時々、父のことで悩んでいます。日本の兵隊が行った悪行について読んだことがあります。村人を殺し、女性を強姦し、囚人を虐待し、拷問したり…。わたしは父もそのようなことをしたのではないかと心配なのです。わたしは日本兵が行った悪行をテレビで見るたびに憂鬱になります。駅での光景が思い出され、汽車が父を戦争に連れて行くのを眺めながら、父の死を予感していたわたしがどんなに惨めだったか。それがあまりに悲しかったので、今頃父の魂はどうなっているだろうかと考えると、その悲しみが戻ってきます、父は洗礼を受けていませんでしたし…」このような経験は、私たち以上の60代、70代ぐらいの人は多かれ少なかれ持っています。自分のお父さんは、戦争で人を殺したのだろうか。そこでパウロ・グリンはこう勧めます。「問題をイエス・キリストのところに持って行きなさい。1940年代半ばの大阪の駅に立って、お父さんに手を振るとき、あなたのすぐ横に立っているイエスを見てご覧なさい。そして、主と一緒に電車で帰り、今話した恐怖を主に話しなさい。そして、主の答に耳を傾けてご覧なさい。」そう勧めたのです。具体的にどうしたのかは分かりませんが、きみ子さんは自分の記憶の中でそのような作業を必死に行ったのではないでしょうか。やがて彼女は、一つのことを思い出します。それはゆりかごでした。当時の日本では珍しいゆりかごが、彼女に家にはあったのです。お父さんがそれを揺らしていたことも思い出しました。彼女はそのことを母親に話しました。すると、きみ子さんのお母さんは、「今までお父さんの話をすると悲しくなるので話さなかったけれど、お父さんはとてもよい人で思慮深い人だった。いつも困っている人々を助けていたわ。」そんな風にお父さんの思い出話をしてくれたとのことです。
 私たちも、記憶の中に沈殿したさまざまな思いを持っています。それを、無理矢理押さえ込んでいると、もう自分では忘れたと思っていても、その記憶はサタン的な力を持って、人を暗黒に引きずり込むと言われています。私たちは、さまざまな思いを語りましょう。そして、記憶の中でも和解と癒しを求めましょう。
 復活されたイエスさまは、弟子たちに現れ、「あなた方に平和があるように」と言われました。心の平安を与えられるとき、私たちは救われます。

<祈り>
恵み深い主よ。あなたのみ名を賛美いたします。今日は約束された聖霊をあなたが私たちに送って下さった日です。み子イエスさまは昇天されましたが、聖霊が私たちと共にいて下さるのですから、私たちは決して寂しくなく、力と希望とを与えられています。また今日は、この教会の119回目の創立記念日です。これまでこの教会を支えて下さった先人たちをどうか祝福し、召された人もまだ世にいる私たちも、共に神の民であるこの教会のために力を尽くすように力をお与え下さい。また、豊かな聖霊を下し、私たちが互いに赦し合い、和解と平和の内に暮らすことができるようにして下さい。