2007/7/1 聖霊降臨後第5主日(特定8)
 
旧約聖書:列王記上19:15-16,19-21
使徒書:ガラテヤの信徒への手紙5:1, 13-25
福音書:ルカによる福音書9:51-62
 
自由と奉仕
 
 わたしたちは「自由な生き方」に憧れます。今の世の中が窮屈でたまらない。学校の規則が窮屈でたまらない。家族や人間関係のしがらみが煩わしくてたまらない。そこから逃げ出したい、解放されたいという思いは、年齢に関わりなく、たいていの人が抱いているのではないでしょうか。カモメのジョナサンという小説があります。カモメのジョナサン・リヴィングストンは、食べることよりも空を飛ぶことに生き甲斐を感じる。群れの他のカモメが食べ物を漁っている間も、より速く飛ぶ方法を研究するのです。そして、飛ぶことは自由になることであり、それこそが真の生きる意味だと思いこんでしまいます。高く、高く舞い上がるとき、彼は本当の自由を感じます。そんな風に、食べたり、仲間と群れたりする煩わしさから解放され、一人で自由に大空を飛び回りたい。それはわたしたちみんなの願望かもしれません。
 しかし、それが本当の自由でしょうか。聖書がわたしたちに教えている自由なのでしょうか。今日の使徒書であるガラテヤの信徒への手紙5章には、このように記されています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)わたしたちが律法や既成の価値観から解放され、自由になるのは、自分の欲望だけを追求し、自分勝手に生きるためではありません。それは、律法によってではなく、愛によって人々に仕え、互いに仕え合うためなのです。宗教改革者マルチン・ルターは『キリスト者の自由』という著作の中で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。同時に、キリスト者は、すべてのものに仕える忠実な僕であって、万人に服する。」と語っています。われわれはこの世のさまざまな価値観や律法から完全に自由であり、神以外のいかなる権威にも屈しない。しかし同時に、人々に仕えるという意味で、万人の奴隷でもあるのです。ですから、キリスト者の自由と隷属とは表裏一体のものだと言えるでしょう。「仕える」とか「奴隷」とかいうと、なんだか古い時代の窮屈で、悲惨な状態を思い浮かべがちですが、それを「絆」とか「共に歩む」とか「寄り添う関係」と言い換えることもできます。よく言われますが、人間とは「人の間」と書きます。人と人とが関係を結ぶ。その関係性にこそ人間存在の本質があるということもできるのではないでしょうか。神は「三位一体」であると言われます。それは神ご自身が父と子と聖霊の交わり、つまり関係性の内におられるということです。ですから、神の似姿として造られたわたしたちも、互いに愛し合う関係性の中でこそ本当に生きることができるのだと思います。
 さて、今日の旧約聖書は、預言者エリヤが後継者のエリシャを預言者に任じる場面です。異教の神と闘い、イスラエル民族を導いてきた預言者エリヤも年老いて、天に召される日が近づいてきました。エリヤは畑を耕しているエリシャのもとに行き、通りすがりに自分の外套を彼に投げかけたと書かれています。日本にも「衣鉢を継ぐ」という言葉があります。先輩の僧侶から衣(袈裟)と托鉢に用いる鉢を受け継ぐ、ということでしょう。衣をかけるというのは、後継者を指名するときの象徴的行為です。外套をかけられたエリシャはエリヤに頼みます。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」すると、エリヤはそれを許し、エリシャは家に帰ると別れの宴会をして、それからエリヤに従ったというのが今日の旧約聖書箇所です。なるほど、という感じがします。日本の精神的伝統でも、そうするのが孝行の道と、修行の道の両方を立てることになると受け止められることでしょう。では、新約聖書のイエスさまはどうだったでしょうか。本日のルカによる福音書では、イエスさまが「わたしに従いなさい」と言われた相手が、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と頼んだところ、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた、とあります。さらに、先ず父の葬儀をさせて下さい、と頼んだ人には、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」とさえ言われたのです。これは一体どういうことでしょうか。
 よく、キリスト教は親不孝な宗教だと言われます。確かに、エリヤの対応とイエスさまのお答えとを比べると、エリヤの方が家族の紐帯を大切にし、配慮しているように見えます。イエスさまはひどいことを仰っておられる、とも感じます。しかし、裏を返せば、それはエリヤが地域共同体や部族・血族共同体の伝統的な束縛に縛られている、いわば民族宗教の立場に立っているのに対して、イエスさまはそうした束縛から自由である、もっと広い全人類を相手にする立場に立っている、と言うことができないでしょうか。マルコ福音書の3章でこんな場面が出てきます。イエスさまを捜しに来たお母さんのマリアについて、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」と言い放ち、ご自分に従ってきた人びとを見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われます。そのとき、イエスさまのお気持ちは非常に複雑だったことでしょう。マリアを愛していないわけではない。しかし、もっと多くの人びとのために自分は行動しなければならない、二つの思いの中で引き裂かれそうだったに違いありません。わたしたちはイエスさまに従うためには、いったん、さまざまな束縛や既成の価値観から自由にならなければならない。いや、イエスさまに従うことによって自由にされるのです。しかし、それにはある種の孤独がつきまといます。イエスさま自身のみ言葉にもそれが感じられます。本日の福音書の有名な言葉です。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」イエスさまは弟子たちと共に、ある意味でさすらいの旅に出ておられるのです。おちついて身体を休めるところもない。厳しい旅です。
 わたしたちもまた、イエスさまに従うことを決断したとき、さすらいの旅に出発しました。物理的な意味での旅ではありませんが、精神的にわたしたちはこの世での旅人になったのです。すでにそうなっているのです。それは、真理を求めて、さらに大きな奉仕と愛を求めての旅です。わたしたちが住んでいる現代の日本社会は、キリスト教に必ずしも融和的ではありません。戦後の一時期はキリスト教が表面的には受け入れられたかのように見える時期もありましたが、今はかえって、宗教全体が胡散臭いものとして拒絶されがちです。また、能率第一、競争本位の社会にあって、イエスさまの愛を受け入れる素地は弱くなっているようにも思えます。子どもの虐待や家族殺人など、社会全体が砂漠化しています。わたしたちはその荒れ地をさすらう旅人なのです。家族や親戚のしがらみの故に、苦しみ悩むこともあるでしょう。家族の中で宗教が違う、お墓や仏壇はどうするのだろう。子どもの結婚。孫の洗礼。悩みの種は尽きません。宗教上の問題だけではありません。自分自身の職場でも、利潤追求、能率第一のために、同僚や部下、あるいは上司と対立する立場に追いやられてしまう。社会に自分が受け入れられないと感じるために、心が不安定になる。わたしたちは、そのような状況の中で、もがき、イエスさまになおも従おうとしています。イエスさまはそのようなわたしたちに、いったん、既成の価値観や束縛から自由になることを呼びかけられているのです。しかし、間違ってはいけないと思うのです。束縛を断ち切ることが自己目的なのではなく、もっと大きな奉仕と愛の業に励むために束縛を断ち切るのです。それは律法から解放され、福音へ属する自由です。まさにそれは、パウロが教えているとおりです。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」
 わたしたちの荒野の旅は必ずより大きな恵みを受けるということを確信しましょう。イエスさまの旅は、復活と昇天という栄光によっていったん幕を閉じました。そのイエスさまはわたしたちに聖霊を送ると約束され、その通りになりました。ですから、わたしたちは独りぼっちではない。いつも、わたしたちの中に聖霊がいて下さる。すぐ隣りに復活のキリストがいて下さる、創造主なる神がいつも命を支えていて下さる。そして、わたしたちはより大きな、全世界に広がる神の家族に入れられたのです。先主日の使徒書であるガラテヤ書3章には、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と記されています。今この教会にも、韓国から来られた姉妹、アフリカのケニヤから来られた姉妹、インドネシアから来られた姉妹がおられます。もちろん、日本でそれぞれの生活をしている兄弟姉妹がおられます。でも、わたしたちは一つなのです。そのことを喜び合いましょう。わたしたちの間では、パウロが勧めているように、「愛と、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が行われるように祈り求めましょう。そして、わたしたちが与えられた自由を用いて、この世の中で苦しみ悩んでいる人びとに仕えるために自らを献げましょう。もちろんその方法はさまざまです。直接奉仕活動に出かけられない方は、祈ることで奉仕ができます。少し経済的に余裕があれば、そのお金を献げることもできます。自分が持っている才能があればそれを、腕力があればそれを。みんなが持ち寄るとき大きな力となります。先ほど、この社会は砂漠化していると申し上げましたが、それは逆にその中で魂の渇きを癒すために、イエスさまの福音を求めている人がたくさんおられるということでもあります。わたしたちは生活と言葉と行いによって、それらの人びとにイエスさまの愛を伝える責任があるのではないでしょうか。そして、わたしたちがイエスさまの弟子として、また、愛の共同体である教会の一員として奉仕と愛の業に励むとき、かつて、断絶していた関係が修復し、家族や地域の絆もまた新しい形で戻ってきます。新しい絆がよみがえるのです。
 
<祈り>
恵み深い主よ、あなたは、わたしたちにイエス・キリストの弟子としての決断の大切さ、孤立を恐れない強さを教えて下さいました。どうかわたしたちに豊かな聖霊を注ぎ、この日本社会で、あなたの愛に従って生き、人びとにあなたの福音を宣べ伝えるための強さをお与え下さい。また、さまざまなこの世の価値観との狭間にあって苦しむわたしたちの声に耳を傾け、わたしたちに新しい絆と新しい人間関係とをお与え下さい。