2006年8月6日 主イエス変容の日
旧約聖書:出エジプト記34:29−35
使徒書:ペトロの手紙二 1:13−21
福音書:ルカによる福音書9:28−36
真の神、真の人
『ダヴィンチコード』という映画が話題になっています。私も見に行きました。少し分かりにくいところもありますが、フィクション、サスペンスドラマとして見た場合、なかなか見応えのある面白い映画でした。一方、映画の中では実在のカトリックの団体の名前を用いてあたかも殺人のための陰謀集団であるかのように描き出しているなど、主としてカトリックの方が怒るのももっともだと思えなくもないところもあります。そしてこのストーリーの眼目は、イエス・キリストは神ではなく、人間であり、ダビデ王家の血筋を引く者として自分自身もまた王家の血筋を残した、マグダラのマリアを妻として子どもを残した、という王家の血筋伝説を現代で主張するというところにあります。
さて、本日は教会の暦で「主イエス変容の日」と言われる大切な日です。8月6日という固定した日に祝われるのですが、今年はちょうど主日に当たるため、日曜日の礼拝で特別な礼拝を行うことになったわけです。祭色としては喜びを表す白を用いますので、新たに献品された白のフロンタルを早速使わせていただいております。この「主イエス変容の日」のテーマは、ダヴィンチコードとは正反対、つまりイエス・キリストは神の子であり、神そのものであり、神と一体であるということを主張することにあります。本日の福音書であるルカによる福音書9章28節以下は、大斎節前主日に用いたマルコ福音書の箇所の平行記事で、三人の弟子たちに「イエスは神の子である」ということが、反駁し得ない仕方で直接に示されたことが書かれています。三人の弟子とは、ペトロとヨハネ、そしてヤコブです。この三人は特別な役割を与えられていたようで、「タリタ・クム」という言葉でイエス様が会堂長ヤイロの娘を蘇らせられたときにもこの三人だけがその場にいることを許されたようですし、イエス様が十字架につけられる直前にゲッセマネで祈られたときにもこの三人が共にいました。そういう限られた人々に対してではありましたが、その前でイエス様のお姿が栄光のお姿になり、真っ白な服に包まれた、そして神ご自身が「これは私の子」と宣言されたというのです。三人は呆然として、ペトロは自分でも何を言っているのか分からない言葉を口走り、その後は見たことを誰にも話さなかった、と聖書には記されています。恐ろしかったのかも知れません。自分の目や耳が信じられなかったのかも知れません。ひとに言っても信じてもらえないだろうと思ったのかも知れません。あるいは、神を見るという重大な出来事に遭遇したショックで、ただただ黙るほかはなかったのかも知れません。何しろ、神を見た者は死ぬ、と信じられていたからです。
変容貌というのはこのようにイエス様が神であることを目に見える形で弟子たちに示した出来事でした。私がいつも不思議に思うのは、イエス様といつも行動を共にし、こんなに明確な形でイエス様の神性を目の当たりにして弟子たちが、なぜ、その後イエス様が十字架の道を歩まれるときにイエス様を見捨て、ある意味で裏切りを重ねたのかということです。ペトロはこの出来事の直前に、イエス様のことを「あなたこそメシア(つまりキリスト)です」と信仰告白しながらも、十字架への道を歩まれるイエス様の決意を理解できず、それをやめさせようとして、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責されます。また、ゲッセマネの祈りの際にもやはりこの三人はイエス様と共にいたものの、逮捕の手の者がやってくると、「イエスを見捨てて逃げ去った」と聖書には書かれています。ペトロはさらに、イエス様の裁判の最中に様子を見に行き、「お前もイエスの仲間だろう」と周りに群衆から問い詰められ、三度にわたってイエス様を知らないとさえ言うのです。
神を目のあたりにしながら、その神を裏切る。不思議なことのように思えます。しかしよく考えますと、弟子たちはイエス様が神であるということの意味がよく分かっていなかったのではないかと思わざるを得ません。(もちろんそれはわたしたちも同じことです。)弟子たちは神さまの栄光の面にのみ目を向け、その神が人間となって私たちと同じ苦しみをなめ、いやそれどころか私たちをはるかに超える苦しみを味わって十字架につけられるということがどうしても理解できなかったのだと思います。私たちは普通、遠くを見渡し、世界を見ようとすると、「鳥瞰」の視野、つまり鳥のように高く高く舞い上がらなければなりません。逆に、アリや小さな動物の世界をよく見ようとすると「虫瞰」の視野、つまり地べたをはいずり回らなければなりません。それは全く異なる見方です。ところが、イエス様はまさにこの二つの視野を同時にもっておられたということができます。渡辺英俊という日本キリスト教団の牧師が『地べたの神』という本を書いておられますが、この方はパウロが書いているように、神が「無学な者、無力な者、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」を選んだという事実から出発して、「キリストという神は地べたの神だ」という信仰から、教会を、いや社会を作り替えようとしておられるのです。そしてこの「地べたの神」という表現は、イエス・キリストのお姿を見事に描き出しているのではないかと思うのです。
さて、今日は8月6日、今から61年前に広島に人類史上最初の原子爆弾が投下された日です。そして8月9日は長崎に原子爆弾が投下され、一瞬のうちに7万数千人が命を奪われ、それ以上の人々が負傷し、さらに被爆による病気にかかり、やがて死んで行かれました。わたしは先週、長崎に再び行く機会がありまして(以前にもこの教会の方と長崎・五島を旅する機会がありましたが)、こちらへ帰って参ります最後の日に爆心地に立ち、いろいろな資料や慰霊碑を見ることができました。今週はきっと全国から多くの人々が集まり、犠牲者の慰霊と平和の祈りを献げられることでしょう。爆心地に立って改めて様々な衝撃と思いがわたしの中を駆けめぐりました。その一つは、浦上天主堂という東洋一と謳われた大聖堂が一瞬のうちに破壊され、聖母マリア像や多くの聖像が被爆し、あるいは破壊され、あるいは熱線によって黒く変色してしまった、という事実についてでした。なぜ、こんなキリスト教信仰の中心地にキリスト教国である米軍は原爆を落としたのか、という素朴な疑問もありました。しかし、同時にわたしは、イエスさまご自身がこの爆撃の中に共にいてくださった、多くの人々とともにあの地獄の火の中に身を置いてくださった、私たちと共に被爆してくださった、という思いに打たれました。それは戦慄と言ってもよいかもしれません。あの原爆が投下される瞬間、神はB29の中にではなく、長崎の爆心地で生活する人々の間におられたのです。それはまさに「地べたの神」であり、私たちのため、人間の愚かさ、人間の罪のため、戦争の中で新たな十字架につけられたのだと思います。展示されている写真の中には苦しみ幼子を抱いている母の姿がありますが、それはまさに幼子イエスさまを抱いたマリア様のお姿のようにわたしには思えました。
私たちは、この神の愛の大きさに感じ、人間の愚かさをこんなにもさらけ出した戦争という怪物をなくすため、私たちのすべてを差し出さなければならない、まずは、精一杯祈らなければならないとの思いを新たにいたしました。それがキリスト者としての最初の務めです。さらにこの8月には、原爆、そして終戦記念日という日本にとって大切な記念日が続きます。そして、平和のために様々な取り組みがなされます。もしもそんな取り組みに出会われたら、イエスさまの愛に応える意味で、是非、何らかの協力をしたいものだと思います。テレビで、東京の東松山にある丸木美術館のことが報道されていました。丸木位里、丸木俊ご夫妻が全身全霊を込めて描かれた『原爆の図』などの貴重な作品が展示されています。この原爆の図の聖公会もこの美術館が開かれる際には、できる限りの協力をさせていただいたのですが、その美術館の来訪者が減っている、一時の3分の1程度になってしまって、運営が難しくなっているとのことでした。本当に悲しいことです。私たち人間は、悲惨なものから目を背けたい、遠ざかりたい、という思いがあるのですが、どうかこのような美術館が人々の間で忘れられず、大切な役目を果たし続けることができるように祈りたいと思います。ここで、『原爆の図』の中にある「母子像」という絵の解説として書かれた文を紹介しましょう。「家の下敷きとなり、燃えさかる中を、親は子を捨て、子は親を捨て、夫は妻を、 妻は夫を捨てて逃げまどわねばなりませんでした。それがほんとうの原爆の時の姿なのです。だが、そうした中で不思議な事に母親が子供をしっかりと抱いて、母は死んでいるのに子供が生きているという,そんな姿をたくさん見ました。 」
そこにイエスさまが働いておられるということが言えないでしょうか。イエス・キリストは神でありながら、いや、神であるからこそ、私たちと共にあらゆる苦しみをなめ、十字架につけられ、自らは命を捨て、永遠の命への道を示してくださいました。そして今もなお、戦争の中で原爆に被爆され、パレスチナの爆撃の中で、子どもたちと共に苦しまれている。何という恵みでしょうか。何という愛でしょうか。私たちは今日、真の神であり、真の人であるイエス・キリストとはどういう方なのかに、改めて思いをはせたいと思います。
<祈り>
平和の君であるイエス・キリストの父なる神よ。広島と長崎に原爆が投下されてから61年目の記念日を迎えようとしてます。共にこの苦しみの中に身を置き、苦しみを分かち合ってくださったことに感謝します。そして今もなお、苦しみ悩むとき、常に私たちと共にいて下さる恵みを感謝します。どうか、私たちがその愛に応えて、人類の罪である戦争をなくし、互いに愛し合うことのできる日を一日も早くもたらすことができますように、私たちを用い、あなたの力をお与え下さい。