クリスマスイブ・メッセージ 2008/12/24 
 
 皆さん、クリスマスおめでとうございます! 今日は、今からおよそ2000年前に、パレスチナ(当時のユダヤ)の地で、イエス・キリストがお生まれになった日の前夜にあたります。イエスというのはイエシュアという当時この地方では一般的な名前でしたが、そのヘブライ語のもとの形は「主は救い」という意味を持っています。そして、「キリスト」というのは、「油注がれた者=メシア」という言葉のギリシャ語訳「クリストス」から来ています。油注がれたというのは、イスラエルではその民を率いる王が選ばれる時には香油が頭に注がれたからです。私たちクリスチャンがイエス・キリストと呼ぶのは、このイエスという方が、世界中のすべての人々にとってキリスト、すなわち救い主メシアであると信じているからです。
 では、どうしてこの方が「すべての人々の救い主」であると言えるのでしょうか?先日プール学院大学でクリスマス礼拝を行いましたが、そのときに、クリブ人形というクリスマスの出来事を示した人形のセットを使いまして、その人形を飾りながらクリスマスの出来事について説明をするという形でメッセージを伝えました。その人形にはマリアに受胎を告げる天使ガブリエル、飼い葉桶に眠る幼子、それを愛情のこもった眼差しで見守る夫婦、幼子を拝む羊飼いたち、そして3人の星占いの学者たちが含まれています。このような飾り付けや絵画は今では広く知られていますが、それを最初に作ったのはアッシジのフランチェスコでした。フランチェスコについては後でもう一度お話をすることになりますが、彼はグレッツィオという村のはずれの岩山の中に、本物の馬をつなぎ、飼い葉桶にわらを入れ、生きた赤ちゃんを寝かせ、イエス・キリストの誕生の場面を再現し、村人たちはそれを見て、驚くとともにイエス様の誕生の場に居合わせるような感動を覚えたのです。それ以来、クリスマスにこのような場面を再現するという習慣が広まったのであります。このような人形は今でもクリブ(飼い葉桶)人形と呼ばれ世界中の人々に親しまれています。実は、この誕生の場面に、イエスという方がこの世に来られた本当の意味が象徴的に表されていると私は思うのです。
 それは第一に、イエスという方は、社会的な階層、国籍を超えて、すべての人々にとって救い主としてお生まれになったのだということであります。私にも、そしてあなたにも、すべての人にとっての救い主なのです。今日朗読して頂きました聖書にありましたように、誕生したばかりのイエス様は布にくるんで飼い葉桶に寝かせられていました。そして、夜に羊の番をしていた羊飼いたちが、救い主の誕生について天使から知らせを受ける様子が記されています。羊飼いというのはイスラエルでは非常に重要な産業ですが、それに携わる人々は全く普通の、社会的にはどちらかと言えば低い身分とされていました。救い主誕生の知らせは、そうした羊飼いに、しかも夜の番をしていた仕事中の羊飼いに初めて告げ知らされたのです。そして、その次に救い主降誕を知り、幼子イエスに会ったのは東方の星占師たち、つまりイスラエルから見ると外国の人々、つまり異教徒でした。外国人にこのように早くからイエス様の誕生のニュースが知らされたということは、この喜びの訪れが、イスラエルの人々だけにではなく、世界中の人々にとっての救いを意味しているということではないでしょうか。私は驚いたことがあるのですが、仏教国であるタイでも、クリスマスは盛大に祝われています。日本でもそうですね。1874年に、日本で始めてクリスマスが祝われたそうですが、そのときに登場したサンタクロースは裃姿で、ちょんまげを結っていたそうです。
 第二に、このイエスという方は、私たちと共に苦しみ、痛みを感じる方だということであります。きらびやかな宮殿ではなく、立派な宿屋でもなく、家畜の飼い葉桶に寝かされたイエスという方は、貧しい家庭に普通の人として生まれ、少年期と青年期を大工として汗を流して働き、家族の生活を支えられました。やがて30歳頃に人々を救う活動に立ち上がられた後、病気に苦しむ人、心に悩みを持つ人を癒し、共に祈り、悲しむ人と共に悲しみ、苦しむ人と共に苦しまれたのです。そして最後には、私たちの罪と苦しみを背負って十字架にかかられました。高いところから人間を見下ろし、何の痛みも感じない神ではなく、この方は人間と共に苦しみ、共に痛む神なのです。普通の人として生まれ、普通の人として苦しみ、そして人々のために共に痛みを感じられたイエス様。だからこそ、私たちすべての人にとって、救い主となられたのではないでしょうか。
 第三に、イエス様は幼い子どもの友でありました。そして子どもの純粋さ、素朴さ、奔放さを愛されました。イエス様の周りには、賑やかな子どもたちの笑い声が絶えませんでした。そして、「天の国は子供たちのものである」「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とイエス様は言われました。現代は、子どもの受難の時代と言われます。子供たちは現代という砂漠の中で、自分の価値を見失い、家で傷つき、学校で傷つき、社会で傷ついています。愛に渇き、生きることの意味を探し求めています。イエス様の愛を知ることで、どれほど子どもたちは救われるでしょうか。それは私たち、大人の責任だと痛感するのであります。また、神殿に初めて連れてこられた幼子イエスを見て、この方こそ救い主であると一目で認めたのは、高齢のシメオンでした。そして、アンナという84歳の女性預言者は、幼子を見て神を讃美し、人々に救い主イエスのことを言い広めるという、最初の伝道者の役割を果たしました。このように、イエス様の誕生の知らせは、年齢を超えて幼子から高齢者にいたるすべての人に神の恵みを伝える喜びの訪れだったのです。
 第四に、イエスという方は全世界に真の意味での平和をもたらす方なのです。旧約聖書のイザヤ書ではそれを「平和の君」という言葉で預言しています。またイエスご自身が「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ14:27)と言っておられます。今、世界は経済的、政治的、宗教的、あるいは部族的な理由で分かれ、争っています。そしてそれには、キリスト教を信じる人々も少なからぬ責任を負っています。しかし私たちは、無限の愛と赦しを説き、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と言われたイエス様の後に従うことこそが平和を実現する道である、この方の愛こそが世界に和解と平和をもたらしてくれると信じています。
 始めにお話ししましたフランチェスコという人は、今から700年ほど前、イタリアのアッシジを中心に自ら清貧の伝道生活を送りつつ、イエス様に倣って貧しい人々に仕えた修道士であります。彼はまた、その一生を通じて平和のために尽くした人でした。フランチェスコは、当時十字軍と戦争中であったイスラム教の王様のところに全く丸腰で出かけ、王様を相手にキリスト教の教えを説いたと言われています。相手の王様はもちろんキリスト者になることはありませんでしたが、フランチェスコの人となりとその生き方に深い感銘を受けたという言い伝えが残っています。また、アッシジの司教と長官の間に不和が発生した時には、双方の当事者の間に立ち、神の愛を思い起こさせて心からの赦しと和解を実現したと言われています。そのフランチェスコの精神に基づいて作られた「平和の祈り」には、「憎しみのあるところに愛を/いさかいのあるところにゆるしを/分裂のあるところに一致を/疑惑のあるところに信仰を/誤っているところに真理を/絶望のあるところに希望を/闇に光りを/悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください。」と謳われています。
 みなさん。イエス・キリストは、まさにこのフランチェスコの詩に謳われている闇の中の光であります。今年は、とくに後半になって、アメリカの金融危機に端を発した大変な世界的経済的危機がわたしたちを襲いました。仕事を失ったり、生活が困難になった方もおられるのではないでしょうか。この堺聖テモテ教会が連なっております聖公会、その発祥の地はイングランドであり、今でもイギリス聖公会は国教会になっておりますが、そのイギリス国教会には、借金の返済ができなかったり生活の困難のために、何万人もの人々が祈りと助言とを求めて便りを寄せているそうです。インターネットのホームページには、借金に苦しみ人々のための祈りがたくさん載せられています。その中のひとつをご紹介します。「主なる神よ。わたしたちは今激動の中に暮らしています。世界中で物価は高騰し、借金は増え、銀行は破綻し、仕事が取り上げられ、ただでさえ弱い社会保障が危機に瀕しています。愛に富む神よ。恐れの中でわたしたちに出会い、祈りに耳を傾けて下さい。流れゆく砂の中で力の砦となり、暗闇の中の光となって下さい。わたしたちがあなたの平和の賜物を受け、本当の喜びが見いだされるところに心を落ち着けることができるようにしてください。主イエス・キリストによって アーメン」
 皆さん。このクリスマスの前夜に当たって、お暗きこの世に光を点すために、イエス・キリストがすべての人の救い主としてお生まれになった意味を噛みしめて、街のきらびやかなクリスマスではなく、静かな、それでいて喜びに溢れた夜を共に過ごしたいと思います。