2008/6/22 聖霊降臨後第6主日(特定7)
旧約聖書:エレミヤ書 20:7-13
使徒書:ローマの信徒への手紙 5:15b-19
福音書:マタイによる福音書 10:24-33
神を信じて語り続ける
今日の旧約聖書として読まれました預言者エレミヤのことを考えてみましょう。エレミヤは今からおよそ2600年前に南のユダ王国(当時、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂していました)で活動した預言者です。当時のユダ王国はエジプトの属国のような地位にあり、国王のヨヤキムはエジプトのファラオによって王位につけられた人物でした。周囲を見回すと、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は衰退し、それに取って代わって新興のバビロニア帝国が勢いをつけていました。そして、エジプトはバビロニア帝国に対抗するためにユダ王国を利用しようとしていたのです。そんな国際政治に巻き込まれて、ユダ王国の人々はエジプトに踊らされて、軽率な反バビロニアの行動にでようとしていました。エレミヤは、それに対して警告を発します。神に対する信仰を深め、もっと先を見通して行動するように、さもないと国は滅びると預言したのです。その預言通り、ユダ王国はやがてバビロニア王国に滅ぼされ、ユダ王国の指導者や上層部の人々はみな首都バビロンに連れ去られ、バビロン捕囚という悲しい経験をすることになります。
世間全体がいわば聞こえの良い反バビロニア気運に毒されている中で、エレミヤは親バビロニア派とみなされ、人々から信用されず、失意のどん底に突き落とされます。だれも彼のいうことに耳を傾けないのです。ですから、今日の箇所で、エレミヤは神さまにいわば恨み言を言うわけです。彼は初め自分は預言者の器ではないといって神さまの命令から逃れようとしますが、神さまから逃れることはできず、神の言葉を語って人々から嘲笑され、危険にも直面します。「わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。」そしてその故に、「一日中恥とそしりを受けなければならない」と悲痛な叫び声を上げます。
これは、この世の中で、世の中の不条理に気づき、それに叫びを上げようとする人の声でもあります。何年間も、何年間も、真実を訴え続けてなお聞き入れられない、そのような経験をしている人は少なくありません。明日、6月23日は沖縄戦終結の日です。この戦いは日本の国土で行われた唯一の大規模な地上戦と言ってもよく、3月26日から始まり3ヶ月にわたって繰り広げられました。アメリカ軍の兵力は54万人、軍艦の数は1500隻になりました。対する日本軍は、12万人ほどでした。この戦闘の中で、日本側は20万人が死亡しましたが、その中で民間人(つまり直接には戦闘に加わらないお年寄りや女性、子供など)の死者は10万人に達しました。当時の沖縄の人口は45万人ほどでしたから、3分の1の人々が命を失ったわけです。アメリカ軍の側の死者は1万3000人ほどでした。
その中で、様々な悲劇が起こっています。看護部隊となって奉仕していた240人の女学生と職員の半数以上が犠牲となったひめゆり部隊、ガマと呼ばれる洞窟に避難して米軍に殺されたり、自決で命を失った人々。数え切れないほどの命が沖縄戦で失われたのです。日本軍によって殺された住民も少なくないと言われています。それは、広島、長崎の原爆と共に、日本に住んでいた人びとが被った痛ましい犠牲です。そうした痛ましい戦争の経験を語り続け、次の世代に戦争とは恐ろしく、決して繰り返してはならない者だということを伝えようとする人々のことを「語り部」といいます。広島にも、長崎にも、そして沖縄にも数多くの「語り部」がおられます。そうしたところに学びの旅をしますと、必ずといってよいほど「語り部」が登場し、ご自身の戦争体験を語って下さいます。ところが最近、この「語り部」に対する風当たりがきつくなっているのです。「暗すぎる」とか「話が退屈だ」とかいう理由で、その働きを否定する声もでてきています。修学旅行で広島や長崎を訪れる学校も減ってきているようです。2005年の東京のある私立高校の英語の入試問題で、「ひめゆり学徒として生き残った女性の話は、正直に言うと、退屈だった。何人かの友人は彼女の話に心を動かされていたのだが、私にとっては彼女の話は何の意味もなさなかった。」という文章が出題され、沖縄県民からは抗議の声が上がり、学校が謝罪したという事件がありました。しかし、学校現場でも、「語り部」の話を敬遠するという傾向は強くなっているようです。
それでも、「語り部」たちは、語り続けずにはおられない。真理を知ってしまった人、戦争の悲劇を知ってしまった人間は、そうせずにはおられないのではないでしょうか。それはまさに、エレミヤが「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。」と語っているのと同じように思われます。エレミヤはバビロニア帝国に戦争で立ち向かうことの愚かさを説き、むしろ国内の悪政を正し、神の道にたち帰ることを呼びかけました。しかし、人々は彼に復讐してやろうと立ちはだかるのです。絶体絶命と思われたときに、エレミヤの内に神の力が働きます。「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。」そして彼は、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。」という信仰を告白します。
今日の福音書の中で、イエスさまも、弟子たちに厳しい言葉を語っておられます。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」これは、ある意味で、迫害の予告であり、殉教の覚悟の勧めです。今日は読みませんでしたが、すぐ前のところには、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」という有名なみ言葉があります。これは2000年前の弟子たちだけに語られた言葉ではありません。わたしたち自身もまたこのみ言葉を自分に語られたものとして受け止めなければなりません。わたしたちもまた、イエスさまによって毎日の生活の現場に派遣されているからです。わたしたちが暮らしている地域社会や職場は、時として「オオカミの群れ」になることもあります。クリスチャンとしてのはっきりした主張を持っていたり、生活態度が違ったりすると、「変わり者だ」「変人だ」というレッテルを貼られたりもします。そのようなときに、わたしたちはエレミヤのような気分になります。「もういやだ」というのです。あるいは自分がクリスチャンであることは極力外に出さない「隠れクリスチャン」になることも多いのではないでしょうか。
しかし、今日の福音書を素直に読めば、やはり、わたしたちは語り続けなければならないと思うのです。わたしたちは「イエス・キリストによる救い」の語り部だからです。しかし、恐れることはないとイエスさまは教えています。「蛇のように賢く、鳩のように素直に」振る舞えば、人々を納得させることができます。周りの人々の信頼を勝ち取りつつ、自分の考えを伝えることができます。そして、何よりも大切なこと、それは神を信頼するということではないでしょうか。イエスさまは神がわたしたち一人一人のことをご存じであり、どんなときにもわたしたちを助けて下さると教えています。神は雀一羽にさえ、愛情を注いで下さる。そして「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(私の場合などは数えるのは簡単でしょう。)つまり、わたしたちのすべてを知っていて下さる。心の弱さも、自己本位の傾向も、すべてご存じだというのです。ですから、最後の最後には、ただ神のみを頼り、信じればよいのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」ともイエスさまは教えておられます。わたしたちの自力では乗り越えられないとき、必要なことは神の愛を信頼することです。今日のローマの信徒への手紙の中には、一人の人、つまり神の子であるイエス・キリストの死によってすべての人の罪が赦され、わたしたち一人一人に命が与えられ、神の恵みと賜物が豊かに与えられるというパウロの教えが記されています。イエスさまは、恐れず、世の中に出て行きなさいと命令されると同時に、わたしたちのためにご自分の命を投げ出すお方でした。ですから、わたしたちもこの方を信じ、全能の創造主である神を信じて、心安らかにイエス・キリストの弟子として毎日を暮らすことができるのです。
<祈り>
恵み深い主よ。わたしたちは弱く、臆病な存在ですが、あなたのみ子イエス・キリストは「恐れるな」と教えておられます。どうかわたしたちに、語り続ける勇気をお与えください。そして、あなたの平和が世界中にもたらされるためにわたしたちを用いて下さいますようにお願いいたします。