2007/8/5 聖霊降臨後第10主日(特定13)
 
旧約聖書:コヘレトの言葉 1:12-14, 2:18-23
使徒書:コロサイの信徒への手紙 3:5-17
福音書:ルカによる福音書 12:13-21
 
人生はむなしいか?
 
 今日の旧約聖書は、珍しい書物が指定されています。『コヘレトの言葉』です。この書物は以前の口語訳聖書では『伝道の書』、新改訳聖書では『伝道者の書』と題されています。でも、その書き出しは、「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」となっています。口語訳の方が良い訳かもしれません。「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」いかがでしょうか。あまり「伝道」的ではないような気がしますね。どうしてこのようなタイトルがつけられたかというと、筆者のペンネームが「コヘレト」というのですが、これはもともと、ヘブライ語の「カーハール」という「集会」を表す言葉からきており、「集会で説教する者」という意味があり、それがギリシア語に翻訳されるときに「エクレシアステース」、すまわち伝道する者と訳されてしまったからなのです。しかし、先ほども言いましたが、どうもこれは固有名詞あるいはペンネームとみる方が良いということになりまして、現在の新共同訳では「コヘレトの言葉」と題されているのです。筆者はダビデの子、イスラエル、エルサレムの王とされていますので、昔はこれをソロモン王の筆になると考えていたのですが、その後の研究で書かれたのは紀元前3世紀頃ということが分かっていますので、それはソロモン王の作とした一種の文学的虚構であろうと考えられています。この書のすぐ前に出てきます「箴言」や、今礼拝後に有志で読み進んでいます『シラ書』とも深い関係があり、いわば「知恵文学」として同じジャンルに属するものと言われています。また、結論はかなり異なっていますが、『ヨブ記』とも相通じるところがあります。
 さて、先ほどこの書の書き出しを紹介しました。「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」そして、今日の箇所にも、「空」「空しい」という言葉が至る所に出てきます。「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」そして、この書の最後の部分、12章12節には「書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」という、いささかユーモアじみた述懐が記されているのです。要は、真理を究めようと必死になって学んできたが、その努力は空しかった。人は労苦するが、それも空しい。この世の中で新しいことは何もなく、すべては過去の繰り返しである。という人生の空しさ、一種の無常観を表明しています。ここで「空しい」と訳されている言葉が、この書のキーワードで、元のヘブライ語では「へベル」といいます。全体で30回以上用いられています。もう一つのキーワードは「労苦」で、これも30回用いられています。「へベル」というのは「息」とか「風」とかいう意味もあり、人間の一生、その営み、その存在そのものが一瞬の「息」のようにはかなく空しいものだというのです。
 「空」とか「無常」とかいうと、仏教と通じるものがありますね。私はすぐに、高校の時に暗唱させられた「平家物語」の書き出しを思い出します。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、
ただ春の世の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」これを聴くと、「なるほどその通りだなあ」と思ってしまいます。もう一つ思い出すのが、『般若心経』です。「色即是空、空即是色」という行です。存在するものはすべて空である。「万物は流転する」と言ったギリシアの哲学者もいます。これは確かに、人生や万物の真理を表しています。わかりやすいお話としては、トルストイの『人にはどれだけの土地がいるか』という民話風の短編があります。あるロシアの農民が、遠くのバシキール人のところに行けば、非常に安く広い土地が買えるという話を聞きます。そこで、みやげ物を持参してバシキール人たちのところへ行くと、喜んだバシキール人は、ほしいだけ土地を売ってやるといいます。ただし条件がありました。その条件は、1日歩き回った分だけ自分のものになる。土地の広さに関係なく千ルーブリだという。ただし、その日のうちにもとの場所に戻ってこないと無効だ。 日が沈むまでにもとの場所に帰ってくるのが条件でした。彼は朝早く起きて、歩きに歩きまし。4つの角で曲がれば自分の土地が区切られることを考えて、できるだけ遠くまで歩いたのです。しかし、暑さのため頭がくらくらとなって、元の場所に戻ろうとしてまっすぐ歩きました体力を使い果たしたらしく、日没までに戻れないかもしれないと思いました。ああ、もう日が沈む。間に合わない。広大な土地を手に入れそこなかった。彼はばったりと倒れました。みんながかけよったら、彼は死んでいました。バシキール人たちはシャベルで穴をほって彼の死体を葬りましたが、それはわずか4.5メートルの墓でした。そういうお話です。
 今日の福音書にあるイエスさまのお話も、それと共通したところがあります。あくせく財産を作って、蓄えをなしても、いったい何の役に立つのか。命には限りがあるのに、というわけです。『コヘレトの言葉』にも、「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。」とあります。一族のために、とか、子孫のために、とかいうのも、空しいことだというのです。子供や孫のためにこの地球とその環境を大切なものとして残す、またその命自身を生み出し育てるというのはとても大切なことでしょうけれども、財産を残しても将来子供たちが幸せになるとは限りません。そういうことを考えると、確かに、聖書の言葉は人生の真理を表しています。しかし、そこから「人生は空しい」と結論づけてもよいものでしょうか。
 「空しい」というのは、確かに真理でありますけれども、それは半分の真理でしかありません。もう半分の真理、それは人生には意味があり、希望に満ちている、という真理です。般若心経にある「空」もまた、「色」すなわち存在を生み出す根源となるというもう一つの意味を持っているのです。それが「空即是色」です。無と思えるものが、実はすべての存在の根源になる、という意味です。本当に、今日の福音書にあるように、どん欲に支配される人生は、無意味で、空しいものです。また、人間の力に頼り、我こそが世界の知識を極めよう、とする思い上がった人生もまた空しいものです。先主日の使徒書でありますコロサイの信徒への手紙2章8節には、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」と書かれています。これは、人生の意味を考える営みが無駄だというのではありません。そうではなく、人間の知恵は絶対で、すべてを解き明かすことができるというあり方が空しい、と教えているのです。天体の運行の仕組みや生命の仕組みを解き明かすことはできても、なぜそうなっているのか、誰がその命や運動を与えているのかは、ある意味で神秘です。コヘレトはそのことをよく知っていました。そして、ヨブもまたそのことを知り、別の結論に到達したのです。ヨブはさんざんに神に議論を挑んだあげく、最後には神の前に自らを投げ出し、人間の無力さを悟ります。「今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」これがヨブの結論でした。それは、神の前に自らの無力さを認め、自らの小ささを受け入れ、神の恵みのもとで生かされる、感謝の内に生きる、そして神によって用いられる生を生きなおそうという決意であり、方向転換です。コヘレトが身につけようとした知識は、自分のための知識でした。知識のための知識、学問のための学問でした。それは結局のところ、むなしい努力に帰せざるを得ないのです。しかし、努力が空しいというのではありません。神と人とに仕えるために自分に与えられた賜物を生かすことがいかに大切であるかは、イエスさまご自身が例えばタラントンの譬え(預けられたお金を有効に生かすことが大切だという譬え)で教えておられるとおりです。しかしそれを自分のために使うのではなく、神さまのために役立てる、人びとのために役立てなければ、空しい業になってしまうのではないでしょうか。
 今日の使徒書に目を向けてみましょう。コロサイの信徒への手紙3章10節には「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」とあります。イエスさまの復活によってわたしたちは生まれ変わり、聖霊に満たされた「新しい人」を身に着けます。そして日々新たにされて、真の知識に到達します。この知識は造り主の姿に従うことによって得られるものです。わたしたちは神さまの似姿として造られたと創世記には記されています。わたしたちの中には、本来神さまの姿があるのですが、それはアダムの罪によって歪められています。しかし、イエスさまの示す道に従えば、わたしたちには神の似姿が戻ってくるのではないでしょうか。そのためには、能力のあるなしや、知識のあるなし、教育のあるなしは関係がないのです。真の知識とは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」であり、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合う」ことができる心の力だからです。それは、この世であくせくと身に着ける知識や財産とは根本的に違っています。今日の福音書でイエス・キリストは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と教えておられます。みなさん、人生は決して空しくはありません。神と人とに仕えるためにする努力、神さまのために生きる毎日は、決して空しくはありません。わたしたちの人生には新たな意味が与えられ、日々なす事がすべて神さまのために用いられるのです。わたくしの母はケアハウスに入居いたしましたときに、毎日の生活に新たな意味を見つけました。さまざまな文化活動を楽しみながら、イエスさまのことを、そんなに大胆にというわけではありませんが、入居者に伝えていく、そのことに自分の生きる意味を見出したようです。聖隷福祉事業団の施設でしたので、日曜日には夕方に礼拝がありました。その出席者が週毎に増えていく。そのことを本当に嬉しそうに話してくれた母の姿が目に浮かびます。人生の最後の段階でそのような豊かな人生を送っておられる方をわたくしはたくさん知っています。「神の前に豊かになる」このことをみなさんとご一緒に覚えてこれからの毎日を過ごして参りたいと思います。
 
<祈り>
主よ、わたしたちは自分自身のために働いて冨を積んだり、学んで知識を蓄えたりすることにあくせくしています。それが、この世で大切なことだと思いこんでいるからです。しかし、神さま、あなたはみ子イエス・キリストによって、本当に大切なこと、真の知識とは神さま、あなたと人びととに仕えることだと教えてくださいました。どうか、わたしたちがあなたの前で豊かにされますように、わたしたちの毎日の生活を清め、導いてください。