2006年4月23日 復活節第2主日B年
 
旧約聖書:イザヤ書26:2-9,19
使徒書:使徒言行録3:12a,13-15,17-26
福音書:ヨハネによる福音書20:19-31
 
目に見えないもの
 
 今日の福音書には、復活されたイエスさまが弟子たちのもとに現れ、復活のしるしとして傷を受けた手と脇腹をお見せになり、弟子たちは喜んだのに、その場にいなかったトマスだけはどうしても信じようとしなかった、そのトマスに対してイエスさまが「見ないのに信じる人は幸いである。」と語られたという有名な場面とみ言葉が記されています。
 「見ずして信ずる者は幸いなり。」私たちは幾たびこのみ言葉にあるいは励まされ、あるいは叱責され、あるいは勇気づけられ、あるいは失意したでしょうか。はっきりした証しを見るまでは決して信じることができない自分の不信仰に何度悲しい思いをしたでしょうか。
 さて、今日の福音書の理解を深めるために、まず、この1週間の弟子たちの心の動きを見て参りましょう。弟子たちは、復活の日、一カ所に集まり、自分たちも処刑されるのではないかという恐怖で、家の戸に鍵をかけ、息を潜めていました。マグダラのマリアが、「主はよみがえられた」と弟子たちに告げても、誰一人として信じなかったのです。彼らは不安と絶望の中にいました。それはちょうど、私たちが不幸な出来事に出会い、絶望の中で生きる力を失って家にこもっているのと似ているでしょうか。もっとうがった見方をすれば、十字架にかかろうとされるイエスさまを自分たちが見捨てて逃げ去ってしまったという事実におびえていた。イエスさまから審かれるのではないかという恐怖を心の中で抱いていた、とも考えられます。ところがヨハネ福音書によりますと、その日の夕方、弟子たちが集まっているところに復活されたイエスさまが現れて真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われたのです。おそらくヘブライ語で「シャローム!」と言われたのでしょう。「シャローム(平和)」とは、神が共におられる時であり、神の臨在のもとで一人一人の心に平安が訪れるということを表しています。これは慰めの言葉であり、祝福の言葉です。絶望に閉ざされた私たちの心を開いてくださる言葉です。また、イエスさまを裏切って逃げてしまった弟子たちに対して、それでも「神が共にいてくださるよ」と宣言する赦しの言葉です。弟子たちはやっと、イエスさまの復活という事実を受け入れることができるようになります。その弟子たちに、イエスさまは息を吹きかけ、聖霊を注ぎます。これはちょうど、創世記2章で神さまが土で人間を造り、その鼻に命の息を吹き入れられたのと対応しています。弟子たちはこうして、復活のイエスさまから新しい命をいただいて、イエスさまの代理人として派遣されることになるのです。
 しかし、トマスだけは抵抗していました。トマスはもともと、イエスさまを愛することにおいて他の弟子たちに負けない、誠実な弟子でした。ヨハネ福音書11章によりますと、ユダヤ地方でイエスさまとその運動に対する敵意が高まり、危険が感じられるときに、イエスさまはラザロが病で伏せているという知らせを聞いて、「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われます。すると他の弟子たちは、「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言って引き留めます。ただトマスだけが仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った、と書かれているのです。それほど、情熱をもってイエスさまを愛していたのです。ところが、そのトマスが、最初にイエスさまが現れたところにはいなかった。ひょっとしたら、あえて一人でいることを選び、密かに嘆き悲しんでいたのではないかと思われます。そして、彼の心中には、疑いと絶望、悲しみが渦巻いていました。イエスさまを強く愛しているが故に、かえって復活の知らせを聞いても素直には受け入れることができませんでした。確かめたい、もしもそれが本当なら、この目で確かめたい。それがトマスの叫びでした。自分には現れてくださらなかった、自分は見捨てられた、そんな思いもあったかもしれません。ともかく、トマスは1週間の間、抵抗を続けるのです。内心はお目にかかりたいという思いでいっぱいだったでしょう。しかし、イエスさまは現れてはくださいません。トマスは心の中で闘いを続けます。
 ところが1週間後、イエスさまが再び弟子たちの前に現れて、今度はすぐにトマスに向かって、手と脇腹の傷をお見せになり、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたのです。そのときトマスは、もはやしるしを求めはしませんでした。彼の心の壁は完全に崩れ、ただ「私の主、私の神よ」という激しい信仰告白が彼の口からはあふれ出るのです。疑い続けた後に、全面的にイエスさまとそのご復活を受け入れる、全面降伏です。彼はこの確信を得たいがために、頑固に疑いました。そのトマスにイエスさまは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と仰ったのです。この言葉は、叱責のようでもあります。しかし、おそらくは主は手を広げて彼を受け入れつつ、愛情のこもった声でこう言われたのではないでしょうか。それは、やっと信じ得た者に対する慰めと祝福の言葉ではないかと私は思います。
 考えてみますと、私たちは人生の中で、このトマスの疑いの1週間を生きているのではないかと思うことがあります。それぞれの長さには違いがあるでしょうが、受け入れることができるまでにはずいぶん時間がかかります。行きつ戻りつすることもあります。すぐにみ言葉を受け入れ、信じることができる人もいるでしょう。でも、疑い、疑い、長い時間かかって、なお迷っている人もいるでしょう。そんな場合でも、私たちの中には聖書のみ言葉が消え去ることなく、根を張っているのではないでしょうか。実は私も、そのような長い疑いのトンネルを歩んできた者の一人です。マルコ福音書では、悪霊にとりつかれた子どもの父親が、「信じます。信仰のない私をお助けください。」と叫びます。私も今ようやく、この父親のように、神さまの前に自分を投げ出すことができるようになりました。
 さて、「見ないで信じる者」ということについて考えてみたいと思います。トマスやそのほかの弟子たちは、生前のイエスさまと親しく交わり、また復活のイエスさまにお目にかかることができました。しかし、私たちはイエスさまに直接お目にかかることはできません。そのような私たちにとっての信仰のあり方を、このイエスさまの言葉は指し示しているように思います。イエスさまのことを直接には知らない、そんな私たちを祝福してくださっているようにさえ思えます。ヨハネ福音書に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と書かれており、またヨハネの手紙一には「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」と記されています。ここで大切なのは、私たちの信仰はひたすらイエスさまのご生涯とその教えを、聖書を通して見つめるということ、そこに集中しなければならないこと、そして、私たちがイエスさまの教えに従って互いに愛し合う中に神さまは共におられるということです。神さまは目に見えず、イエスさまも直接にはお目にかかれない。しかし、私たちは信じることができるのです。
 サン・テクジュベリの『星の王子様』の中に、こんなくだりがあります。王子様が世の中に一つしかない自分の花を見つけるためにたくさんのバラの花の中を探しに行ったときのことです。キツネが王子様に「秘密を教えてあげるよ」と言ってこう言います。「心で見なくっちゃ、物事はよく見えない。大切なことは、目に見えないんだよ。」王子様がその言葉を繰り返すと、さらにキツネはこう続けます。「あんたがあのバラの花をとても大切に思ってるのは、そのバラの花のために、時間を使ったからだよ。」自分のたった一本しかないバラ、それは目に見える形で他と区別されるのではなく、それを大切にし、世話をし、共に時間を過ごしたから大切なのだ、ということをこのキツネは訴えているのです。
 「大切なことは目に見えない。」この言葉は、コリントの信徒への手紙二の「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」という言葉を思い起こさせます。神さまは目に見えません。昇天されたイエスさまも目には見えません。しかし、私たちには聖霊が注がれており、その導きによりイエスさまの臨在を感じることができます。また、愛する人々の中にイエスさまの存在を感じ取ることができます。もっと言うならば、傷つき倒れている人々、助けを求めている子どもやお年寄り、苦しみ悩んでいる人々の瞳の中に、私たちのために傷つき十字架についてくださったイエスさまを見ることができるのです。大切なことは、一つ一つの出会いの中に、出会う一人一人の中に、イエスさまを感じることができるということです。それは、祈りを通じて、私たちの中に聖霊が注がれることによって与えられます。どうか、そのような心の目が養われるように、毎日の信仰生活を送りたいものです。
 
<祈り>
 いつも私たちと共におられる神さま。み子イエスさまは蘇られて弟子たちの前に現れたとき、「見ないで信じる者は幸いである」と教えられました。私たちは、疑い深く、自分の目で確かめることのできる確かなしるしを求めがちです。しかし、神さま、あなたは聖霊を私たちの内に注ぎ、イエスさまのご臨在を知ることができるようにしてくださいました。どうか、私たちが互いに愛し合い、苦しみ悩む人々に手を差し伸べる中で、イエス・キリストがそこのいますことを感じ取ることができますように。