2007/7/29 聖霊降臨後第9主日(特定12)
旧約聖書:創世記18:20-33
使徒書:コロサイの信徒への手紙2:6-15
福音書:ルカによる福音書11:1-13
最善のもの
この間「祈祷書を学ぶ会」を開いたときに、「聖公会の信徒はお祈り(自由祈祷)に慣れていない」ということが話題になりました。確かに、朝祷会などいろんな教派が集まるときには、見事に美しく、また熱烈な祈りをなさる方々がおられます。それに比べると私たちは言葉も乏しく、比較的短いお祈りしか献げることができません。それには、良い面と悪い面の二つがあると思います。
良い面というのは、負け惜しみのような言い方になるかもしれませんが、お祈りとは雄弁にすべきものではないということです。訥々とした言葉でよいと思うのです。自分の感謝の気持ちと心からの願いを心の中ではっきりと言葉にしてみるのです。そしてそれを口にしてみる。ひとに聴かせるためではありません。神さまに自分の思いを聴いていただく。そのことを通じて、自分自身の本当の願いを自分でも理解していく。それが祈りであり、神さまとの対話であると思います。ですから、お祈りが下手というのは決して恥じることではないというのは言い過ぎでしょうか。
しかし、やはり、多くの人が集まるところで行う祈りには、みんなが心を合わせるための要素と形があるということをふまえておかなければなりません。聖公会ではこのように多くの人が集まる公祷では必ず成文祈祷を用いますので、普段はあまり意識しないかもしれませんが、祈りには感謝・賛美、懺悔、願望、代祷などの要素があります。そして、最初は、天地万物の造り主である神に呼びかける言葉から始まります。神さまと対話をするのですから、まず相手である神さまに呼びかけます。そして、感謝・賛美を献げ、悔い改めることが大切な場合には懺悔します。そして自分の本当の願いを述べ、人々のために祈ります。別に全部の要素がなければならないということはありません。そして最後は、「主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。」などと、私たちが主と仰ぐイエス・キリストを通して祈ることを告白します。少しずつ、自分の祈りの形を整えていけば、人々と心を合わせて祈ることができるようになると思います。
ところで、今日の福音書には「主の祈り」が出ています。マタイ福音書にもでていますが、これはイエスさまご自身が私たちに教えてくださった模範的な祈りとして、先ほどの要素がすべて含まれています。古代教会の中には、この祈りを一種の「秘儀」つまりキリスト教の奥義として、信徒だけに許された特別の祈りとして扱っていた教会もあるようです。私たちは、さまざまな機会にこの「主の祈り」を唱えるようにしてはいかがでしょう。
さて、本日の旧約聖書と福音書の両方で強調されていることがあります。それは、あきらめずに祈るということです。「しつこく祈る」といっても良いかもしれません。まず、アブラハムの方ですが、彼はソドムの人々のために執り成しの願いをします。当時、ソドムとゴモラという二つの町は、悪徳の巣窟のように考えられていました。事実、さまざまな腐敗文化や不道徳がこれらの町を覆っていたのでしょう。そのことは後に明らかになります。ともかくこのときにアブラハムは甥のロトを初めとする町の人々を滅びから救いたい一心でした。最初は「50人の正しい人がいれば、町を救ってくださいますか。」と尋ね、「正しい人が50人いれば町全部を赦そう。」という約束を神さまから取り付けます。次に「45人なら?」と尋ね、これも約束してもらいます。しかし、アブラハムは粘ります。40人なら?35人なら?そして、ついに10人の正しい人がいれば町全体を救おうとまで神さまに言わせます。神さまも気前が良いというか、辛抱強い方です。アブラハムのしつこい要求に最後までつきあい、認めてくださったわけです。私なら、「ええかげんにせえ」と怒鳴ったところでしょう。しかし、アブラハムは必死でした。甥のロトとその家族、そしてソドムの人々を何とかして救いたかった。その気持ちを神さまも理解されたのでしょう。
今日のルカ福音書にも、「しつこく願う」ことがいかに大切かということが、イエスさまご自身の口から語られています。不意の訪問者があったときに、もてなすパンがない。あわてて友人の家に行って「パンを三つ貸してください。」と頼んでも、初めは貸してくれないだろう。子供は寝ているし、その子供を起こしてまでパンを貸すために戸口にまで行くわけにはいかない。そういって断られるだろう。しかし、繰り返し繰り返し執拗に頼めばきっと願いを叶えてくれるだろう、というお話です。そしてその後に、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という有名なみ言葉が続きます。この言葉がどれほど多くの人々を励まし、勇気づけたかは言うまでもありません。でも、ちょっと待ってください、という人も実はたくさんいることでしょう。「私は叩いたけれども、門は開かれなかった。」という声も聴きます。先般、プール学院の中学生のあるお母さんが、「娘を春休みの間に留学させたいが、学校は便宜を図ってくれない」と言って抗議にこられたことがあります。そして、そのときに引き合いに出されたのがこの聖句でした。「キリスト教の学校なのに、この聖書の言葉に反しているではないですか。」というのです。私はそのときに思いました。ああ、この方は祈りを自動販売機のように思っていらっしゃる。自分のほしいもののボタンを押せば自動的にそれが与えられる。それは大きな勘違いです。私たちは便利な消費社会に慣れっこになっていて、(もちろんお金があればの話ですが)何でも簡単に手に入ると思いこんでいるのです。しかし、神さまに対する祈りはそれとは違っています。まず、私たちの願いが叶うには時間がかかるかも知れない、ということです。「求めなさい、そうすれば、与えられる」の「そうすれば」が問題なのです。「そうすれば」が実はとても大切なのです。そしてその中には「待つ」ということが含まれます。
詩編130編には、こんな部分があります。「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」私たちは祈りつつ、神が私たちの願いを叶えてくれるのを待ちます。時にはそれは、一生かかるかのように見えることがあります。しかし、それはただ受動的に待っているのではありません。神さまとの対話を続けながら、神のご計画の一部に与っていくのだと思います。その中で自分が変えられることもあります。経験の中で学ぶにつれ、自分自身をいかに知らなかったかが分かるようになることもあります。私自身のことになりますが、私は青年時代には、聖公会の聖職になろうという夢をもっていました。しかし、そのとき実はまだ道は整えられていませんでした。むしろ逆に、教会から私は遠のき、信仰生活も自己流になってしまいました。しかし、その願いはなくなっていたわけではありません。20年以上経ってから、私の前には神さまに生活を献げる道が開かれました。しかも、ずっとよい仕方でそれは与えられました。ローマ書には「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」という言葉がありますが、まさに、これまでの人生、教会から離れていた生活を含めて、それらの人生で与えられた苦しみや経験が、みな生かされているように思うのです。もしも青年時代にすんなりと聖職志願をしていたら、きっと傲慢になり、様々な信徒の皆さんのお気持ちを理解することができず、教会を飛び出していたかも知れないのです。今私は、数十年前に心の中で願っていたことが、私の思いをはるかに超えてもたらされつつあることに驚き、かつ、心から神に感謝しています。
祈りがすぐには実現しない。そのもう一つの理由は、困ったことに、私たち自身は自分にとって何が最善であるか、何が必要であるかを正しく知っているとは限らないということではないでしょうか。例えば子どもが、甘いお菓子をほしがっているとき、親が「そのお菓子ではなく、体によいこちらのお菓子にしなさい」ということはよくあることです。人生でいえば、自分で願っていたのはこちらなのに、それとは違うものが与えられるということです。そうだった、こちらの方が自分にはよかったのだ、と比較的容易に受け入れられる場合もあります。しかし、思うことがなかなか実現せず、かえって事態が悪い方向に向かうようなとき、私たちは神を信じることができず、神を恨むのです。とくに、自分や家族、あるいは大切な人が病にかかったようなとき、それを受け入れることはなかなかできません。病気の回復を願っても、それが聞き入れられず、かえって悪化し、場合によっては天に召されることすらあります。そんなとき、残された家族の方の無念の思いはいかにしても癒すことができないほど深いものだと思います。よく「それも神さまの恵みですよ。」という言葉を聞きますが、神さまは人々に病気を与えたり、苦労を与えたりして、人々を試したりする、という考え方に私は疑問を持っています。そうではなく、神さまはむしろ私たちの苦しみを共に担い、私たちと共に苦しんでくださるのではないかと思うのです。神がもし人の幸福や不幸を将棋のコマのように自由に操る、そういう意味で「全知全能」であるなら、イエス・キリストは十字架にかかる必要はなかったのではないでしょうか。神はそのように高所からわれわれを見下ろして、私たちの運命を操る方ではなく、私たちと共に歩んでくださるかたです。だからこそ、イエス様の十字架がある。イエス様の苦しみがあるのです。そして、イエス・キリストの復活によって、私たちには希望が与えられています。病の中でも、苦悩の中でも、神は共におられ、希望を与えてくださるのだと私は信じています。神は暗闇の中で光を与えてくださるように、最悪と思われる状況の中で最善のものを与えてくださるのです。そういう意味では、私たちにとって最善のものをご存じなのは神さまだけである、ということが出来るでしょう。神は私たちの苦しみを共に担ってくださることによって、最善のものを私たちに備えてくださる。そのことだけは、固く信じて、神にすべてを委ねて歩んでまいりたいと思います。
最後に、米国のある病院のチャプレンをしておられた方が、重病の方の看護にあたっている家族のために祈られた祈りを、共に捧げたいと思います。
恵み深い神さま。御子、私たちの主イエス・キリストは、十字架におかかりになったとき、愛する弟子に、御母の世話を委ねられました。困難の中にあるすべての家族、特にその生活の上に病が重くのしかかり、無理が重なって家庭が崩壊するかも知れない人々共に、神さま、共にいてください。
親しい者たちに、互いに忍耐と寛容と思いやりの心をお与え下さい。また、御子イエスがお示しになった愛に倣い、互いに理解と一致、また平安な思いを持つことができますように。