2007年9月23日 長寿祝賀感謝礼拝
今日は長寿祝賀感謝礼拝なので、聖書日課から離れてお話をさせていただきたいと思います。
先日、ニュースで全国に100歳以上の方が3万人はおられるということを聞きました。以前の日本では考えられない数字かも知れません。本当に日本は長寿国になったものです。先日、川口基督教会でも敬老の日の祝賀会があり、そのときにお祝いを受けた75歳以上の方が88人以上おられたそうです。この教会でも、今日、お祝いを受ける方は30人以上おられます。私の祖父は今から50年以上前に63歳でなくなりましたし、昔は両親や祖父母を70代でなくされた方は結構多いのではないかと思います。ところが、現在では80歳、90歳の長寿を立派に生きておられる方がたくさんおられるのです。これは、本当に神様の恵みによるものだと、私たちは感謝したいと思うのです。
社会的にご高齢の方をサポートする施設や制度も昔とは比べものにならないほど発達しましたし、医学の進歩は目を見張るばかりです。しかし、一方、それとは逆行するような動きもあります。介護保険制度も不備な点ばかりが目につき、しかも運用面での制約はどんどん厳しくなっています。ですから、小規模な在宅サービスやデイサービスを行っているところは、採算がとれず、閉めざるを得ないという現実があります。また、これは高齢者ではありませんが、障害者自立支援法という法律も、障害者の自立と雇用を促進するとは言いながら、実際には障害を持っている人たちを福祉の外に放り出すという結果を招いていると、福祉に携わっている人たちは語っています。
こうしたいわば福祉における逆行の根本にあるのは、現代社会でますます強まる能力第一、能率第一の功利主義の考え方ではないでしょうか。これまでの歴史の中にも、「強い者勝ち」「弱者切り捨て」の時代はありました。私は直接には経験していないのですが、戦前がそうだったと思います。お国のために戦うことのできる頑強な男児だけが求められていた時代でした。優生保護法などという、文字通り弱者は葬り去る社会だったのです。そして今また、人間の価値が能力や財産、地位で測られる傾向が強まっているように思えます。そのような中で、私たち自身も、昨日まで動いていた体が思うように動かなくなり、去年までできていたことができなくなってくると、自分に自信が無くなり、神さまの恵みが信じられなくなる。老いという現実の、マイナス面だけが迫ってくるように思えるのではないかと思います。それは、現代社会の老齢に対する蔑視、能力第一の思考のプレッシャーでもあります。「高齢」「老い」という現実を自分で受容すべきだ、ということは分かっていても、やはり辛くなります。周りの社会もまた、高齢者をやさしく包み込むようにはできていないからです。
では、聖書は、「老い」について、どのようなメッセージを語っているでしょうか。先ず第一に考えたいのは、「老齢」は神さまの恵みの結果だということです。そして、老齢の間も神は力強く働き、年老いた人びとに知恵やその他の祝福を与えて下さるということです。アブラハムとサラは老齢で子供を授かり、サラは127歳、アブラハムは175歳まで生きたと聖書には記されています。ヨブもまた、神さまに対する信仰を貫いた後、さらに140年生きたとされています。「ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」とありますが、長寿を保って先祖の列に加えられるというのがイスラエルの人びとの理想でした。また、高齢者にこそ神さまの英知が宿ると考えられていました。「知恵は老いた者と共にあり/分別は長く生きた者と共にあるというが、神と共に知恵と力はあり/神と共に思慮分別もある。」(ヨブ12:12-13)神は、私たちに命を与え、老齢まで私たちと共に歩んで下さると約束されています。「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3-4)これが、神さまの約束であり、私たちに対する愛の表現なのです。
そして、旧約聖書の中で、老人は子どもや青年と共に、特別に神に近い者とされています。ヨエル書3章1節には、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」と書かれています。これは、使徒言行録2:17にも引用されています。若く、あるいは幼い子どもたちは、特に感受性に優れています。子供のときには自然の驚きが見え、神の存在が感じられたのに、年を追うにしたがって、瑞々しい感受性を失い、目に見える当たり前の世界、功利主義の世界しか見えなくなる、ということは良く言われます。ところが、年を重ね、老齢の域に達すると、再び神さまと対話する機会が増え、人生を振り返ってその中に働く神さまの不思議な力と恵みに気づくことがあるといいます。それが「老人は夢を見る」ということではないでしょうか。私の母も、人生の最後の段階で、ベッドに臥しながら、人生における神さまの恵みをつくづくと実感していたと思います。合いに行った私と妻に向けるその眼差しがそれを語っていました。そうしたご高齢の方々の信仰は、教会にとっての大切な宝物であると、私は考えています。
二番目に大切なことは、神さまは私たち一人ひとりを、「〜ができる」から愛して下さっているのではなく、ただ「そこにいる」から愛して下さっているということです。歳を重ねるということは、能力を一つずつ失っていくことでもあります。とくに、若いときにバリバリと働いてきた方、教会に積極的にご奉仕をして下さった方ほど、それが悲しく、悔しい思いをされることがあると思います。しかし、神さまは、そのような方々のこれまでの働きと人生を祝福され、今その方が生きておられるというその事実を喜んで下さっていると思うのです。
そして実は、これはすべての年齢の人びとにとって、とても大切なことなのではないでしょうか。自分と他人とを比較して、あの人よりも自分は優秀だから存在価値がある。あの人よりも〜ができないから、私には生きている価値がない。そう考える若い人がいかに多いことでしょうか。そうではなく、私たち一人ひとりが生きていることこそが、神さまにとっては嬉しいことなのです。先主日の福音書には、「見失った一匹の羊と九十九の羊」のお話があったと思います。イエスさまのあのお話の核心は、一匹と九十九匹を比べることではありません。どの一匹も、皆同じように大切だということが本質的な点です。ある人がスコットランドを旅行中に面白い経験をします。一人の羊飼いの少年に会うのですが、彼に「君は何頭の羊を飼っているのか?」と尋ねると、その少年は「分からない」と言うのです。しかし彼は続けます。「でも、一頭ずつの顔と名前は皆分かるよ。」羊飼いは、決して羊を認識するのに数の問題にしてしまわないのです。一頭、一頭の羊が皆大切なのです。神さまも、私たちが何かをできるから、ではなく、私たちが生きていることを祝福して下さるのです。
老齢を受け入れるのは辛いことです。しかし、神さまの愛を信じることができれば、積極的にその意味を受け入れることができるのではないでしょうか。ポール・トゥルニエというスイスの精神医学者は、こう書いています。「いくら年をとっても、さらに力強く生きることはできます。<マイナス>があれば、<プラス>もあります。このプラスが私の老年に意味を与えます。何かを失うのは何か他のものを得るために他なりません。老年において発見されるものとは、それまでに知り得なかった新しい人生の見方です。」そして彼は、人生には二つの愛があると言います。一つは自分のための、快楽への愛であり、自分自身に対する愛が先行します。もう一つは、より無私な愛。心情の自然な発露としての愛です。私たちはいつでもこの二つの愛の間の選択を迫られています。さらに広い見晴らしの方へ進むこともできれば、もっと狭い愛の方に追い込まれることもあります。自分の地位や能力に自信があり、執着があれば、当然にも私たちは自己愛から離れることが難しくなります。しかし、高齢になり、地位や能力から解放されれば、私たちはより深い愛に近づくことができます。「人生は愛の学校だ」とトゥルニエは言います。そして、男女の愛や母性愛、他人によって傷つけられつつも相手を受容した経験、さまざまな個人的な愛の試練を経て、私たちは自らを与える愛、より心の広い愛に生きることができるようになります。イエス・キリストの愛を知っている私たちキリスト者は、なおさら、所有することよりは自らを与える愛をしみじみと感じることができるのではないでしょうか。「この愛こそが老人の中で育ち、老人に生きている意味を与えることができるのです。」とトゥルニエは言うのです。
みなさん、今日は、長寿祝賀感謝礼拝ということで、老齢ということについて、その恵みについて考えてみました。どうか、自信を持って、みなさん自身をこの教会にお連れください。あなたがそこにおられることこそが、教会にとって、私たち一人ひとりにとって喜びなのです。
最後に、詩編133編の1節を読んで、祈りに代えたいと思います。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」