2007/11/11 聖霊降臨後第24主日
旧約聖書:ヨブ記19:23-27a
使徒書:テサロニケの信徒への手紙二 2:13-3:5
福音書:ルカによる福音書 20:27,34-38
 
復活と永遠の命
 
 わたしたちの信仰にとって、復活と永遠の命ということは、中心的なテーマの一つです。しかし、同時にこれほど分かりにくい教えもないといって良いでしょう。人間は死んだらどうなるのか。永遠の命とはどういうことか。復活すると言われているが、わたしたちは墓場から起き上がるのか。もしそうなら、火葬してしまった肉体はどうなるのか。疑問は次々とわいてきます。今日の福音書の中でも、サドカイ派と呼ばれる人たちが、ややこしい問題を持ち出して、イエスさまを困らせようとします。
 サドカイ派がルカ福音書に登場するのはこの箇所だけですが、彼らは神殿の祭司を中心とした保守的な宗教指導者で、ローマ帝国の支配には妥協的でした。これに対してファリサイ派は、2週間前にもお話ししたように、律法の教師として熱心な信仰を持ち、愛国主義的立場からローマとは鋭く対立していました。サドカイ派は、古い信仰を守るということからしばしば古い制度を批判している預言書を認めず、モーセ五書(旧約聖書の初めの5つの文書)だけを信じていました。そして、彼らは復活を否定しました。モーセ五書の中にはまだはっきとした復活信仰がないからです。ただ彼らは、人は自分の子孫の中に、そして子孫の記憶の中に生き続けると考えていました。ですから、自分の子孫を残すことが重大な意味を持っていたのです。男性が子どもなしに死んだ場合、その兄弟が残された妻と結婚し、子どもを作ることを義務づけられていました。それは、土地や財産を身内の間で維持するのにも役立ち、未亡人を経済的・社会的に保護する上でも役立っていました。しかし同時に、それは家父長的社会においては、女性が引き続き抑圧の下に置かれるということをも意味していたといっても良いでしょう。いずれにしても、そのような風習は当時のイスラエルと中東地方では一般的でした。今日は読みませんでしたが、ルカ福音書の20章28節に書かれている「一人の女性が七人の男の妻になる」というのは、そのことを表しています(これは申命記25:5の規定に基づいています)。
 では、もう一方のファリサイ派の場合はどうだったでしょうか。彼らは復活を信じていましたが、それをきわめて現世的な次元で考えていたようです。ガマリエルというラビは、復活した女性は毎日子どもを生むと教え、この世のニワトリを来たるべき世の人間の模範と考えていたといいます。ですから、そこには永遠の命ではなく、永遠の労苦があるだけです。女性は子供を産む機械だととんでもない暴言を吐いた大臣がいましたが、それと変わりないレベルの思想であると言えるでしょう。
 イエスさまは、復活による新しい命は、現世と同じ状態であることをきっぱりと否定されるわけです。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。」この言葉をみなさんはどう受け止められるでしょうか。ホッとされるでしょうか。それとも、寂しく感じられるでしょうか。愛し合っておられるカップルの場合には、もう一度同じ人と結ばれたいと思っておられる方もおられるかもしれません。でも、結婚の目的が、一族の財産の保持に必要な子孫を作るため、また男性を安心させるためだけであるとしたらどうでしょう。「めとることも嫁ぐこともない」という言葉は、一つの解放の知らせのようには聞こえないでしょうか。さらにイエスさまは、こう教えられます。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」これは決して、不老不死の約束ではありません。この世界での生活がいつまでも続くということとは根本的に違っています。わたしたちは「天使に等しい者」とされるのです。それは新たな創造と言うことができます。
 使徒パウロは、肉体の復活について、次のように書いています。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」パウロの教えの中心は、私たちの古い体、つまり時の経過とともにやがて朽ち果てるしかない肉体はいったん滅び、新しい、輝かしい霊の体が創造されるということです。コリントの信徒への手紙二の中に、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」という言葉があります。それは私たちの現在のあり方からは計り知ることのできない世界です。ですから、聖書も死後の世界については詳しく描いてはいないのだと思います。裁きや天国について語られたイエスさまの言葉も、どちらかといえば現在をどう生きるかという現在の問題に関わっています。たとえば、以前に礼拝の説教でも取り上げさせていただきましたが、ラザロという貧しいでき物だらけの人と金持ちの話でも、地獄と天国の様子を垣間見せるというよりは、神の言葉である聖書の教えに耳を傾けなければ、たとえ死後の世界から生き返った人がいて(事実、イエス様は復活なさるのですが)、忠告をしたとしてもそのことを受け入れはしないだろうという、現在における神への忠実さ、隣人に対する愛を教えているのではないかと思います。また、イエス様の長い告別の説教が含まれているヨハネ福音書においても、イエス様はご自分が父なる神の許に帰るということを繰り返し述べられ、そこには住まいがたくさんあると教えておられますが、そこがどのようなところであるか、人間の目からどう見えるかといった描写はしておられないのです。むしろ、イエス様がこの世界を去られた後に聖霊が送られ、そのもとで弟子たちが愛し合うことを教えておられます。ですから、イエス様の教えにおいては、私たちの現在の生き方が問題なのです。
 今日の福音書でも、イエスさまは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と教えておられます。この場合、「生きている」というのは、神によって生かされているすべての人々を指しています。ですから、この世を去った者もまだこの世にいる者も、すべての人を神は生かしてくださるという信頼を前提にした教えなのです。したがって、永遠に生かされる者として、まず私たちはこの世界で生きることに心を向けるべきで、死後に私たちを待ち受けている世界についてあまり想像をたくましくするのはやめておきたいと思います。それについては、むしろ、神を信頼し、安心してお任せするという態度をとりたいものです。
 聖書に記されている復活は、決して古い肉体がゾンビのように起き上がるということではありません。また、永遠の命も、決して1000年、2000年死なないでこの労苦を背負いつつ生き続けるということではありません。それは、神の許に帰り、すべての命の源である神のみ翼のもとに抱かれるということなのです。ですから、サドカイ派の質問は見当外れでもあり、図らずも永遠の命についての無理解を暴露してしまっています。今日のヨブ記においても、そのことが明らかです。ヨブ記は、旧約聖書の中でもっとも深く神と人間との関わりをえぐり出した書物であると言われています。主人公のヨブは、財産も家族もすべてのものを失い、絶望のどん底にあります。それはすべて、サタンの仕業なのですが、そのことを神様は許している。そこで、ヨブの苦しみに満ちた対話が始まります。友人たちは、ヨブの災難はすべてヨブの罪のせいに違いないと言って彼を責めます。しかし、身に覚えのないヨブは神に向かって叫びます。そのヨブに神は沈黙を守ります。ヨブは神の不在の前で、その仕打ちに心身ともに疲れ果て、苦しみ、神を呪い始めるのです。今日の直前の箇所で、ヨブはこう叫びます。「知れ。神がわたしに非道なふるまいをし/わたしの周囲に砦を巡らしていることを。だから、不法だと叫んでも答えはなく/救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通らせず/行く手に暗黒を置かれた。」しかし、そのどん底の中で、一つの光が見えてきます。ヨブの心の奥底には、神に対する信頼が火種として残っています。神の不在に対する怒りも、実は神の存在を信じているからこその怒りなのです。そこからヨブの信仰の逆転が始まります。それは、いったん死んだ人間が復活するのに似ています。今日の箇所でヨブは、「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。」とヨブは告白します。それは負け惜しみでも何でもなく、ぎりぎりの極限状況での信仰告白です。
 私たちは、このヨブの信仰から何を学ぶことができるでしょうか。それは、絶望の淵でも希望の光を見つけることができるというメッセージではないかと思います。同じように、愛する人、そして自分自身の死に直面しても、私たちは必ず神によって生かされる、復活の新たな命と体を得て、永遠に神の許に憩うことができるということを、私たちは信じることはできないでしょうか。神を信頼していさえすれば、私たちは永遠の命を信じることができるのです。
 
<祈り>
 全能の神よ、御子イエス・キリストは、私たちが復活に与る者として、天使に等しい者とされるということを約束してくださいました。私たちはあなたが、すべての労苦、すべての悲しみを取り去り、あなたのもとに帰り、身許で憩わせてくださることを信じます。また、イエスさまの教えの通り、そのことから今、ここでの私たちの生き方を振り返り、あなたに従う道を歩んでいきます。どうか、絶望や苦しみの中でも私たちがあなたを仰ぎ見て、光に向かって歩むことができるように、勇気と力とをお与えください。