2008/2/10 大斎節第1主日
 
旧約聖書:創世記 2:4b-9,15-17,25-3:7
使徒書:ローマの信徒への手紙
福音書:マタイによる福音書 4:1-11
 
罪と恵み
 
 数日前の水曜日から、大斎節(レント、四旬節)が始まりました。復活日までのこの期間においては、自らの生活や生き方を振り返り、罪を悔い改めると共に、節制と克己に励み、助けを必要としている人々に手を差し伸べることが求められています。また、新たにキリスト者として生まれ変わるための洗礼準備の期間として、伝統的に用いられています。
 では、キリスト教の教会でよく使われる「罪」という言葉は何を意味しているのでしょうか。「私たちは罪深い存在ですから」とか「私たちの罪をお赦しください」とは、お祈りなどでよく使われますが、私たちはどういう意味で罪深いのでしょうか。「キリスト教はよく罪、罪というからきらいだ」とか「私たちは別に悪いことはしていない」という反応は私たちの周囲の人々からよく聞かれます。200年ほど前の中国宣教の初期に中国に渡った宣教師が、「罪人よ、悔い改めなさい」と中国の人たちに説教して、大反発を食らったということは有名な話です。ルース・ベネディクトという人は、60年ほど前に出版された『菊と刀』という、今となっては古典的となった本の中で、西欧のキリスト教文化は「罪の文化」であるのに対して、日本を初めとする東洋の文化は世間的な外聞を基準とする「恥の文化」であると書きましたが、その論議の是非はさておきまして、たしかに、私たちにとってキリスト教の「罪」という考えは理解が難しいのかもしれません。
 「罪」を理解する一つの鍵が、今日の旧約聖書に含まれています。有名な聖書箇所なのでご存じの方も多いことと思います。初めて神さまによって作られた人間であるアダムとエヴァが「禁断の木の実」を食べるお話しです。エデンの園の中央には二本の木が生えていました。命の木と善悪の知識の木です。神はアダムとエヴァに「善悪の知識の木」は食べてはいけないと命じます。なぜ神さまがこのような命令をされたのかは分かりません。しかし、二人は何の疑いもなくそれに従います。ところが、その無邪気なエヴァに疑心を吹き込んだのが蛇でした。蛇は「そののどの木からも食べてはいけない、などど神は言われたのか。」と言います。神が食べるのを禁じられたのは、園の中央に生えている、しかもそのうちの一本に過ぎなかったのですが、蛇は、巧みに「食べてはいけない」という神さまの命令に「そんな馬鹿な」という疑いを起こさせたのです。「疑心暗鬼」という言葉がありますが、「疑念」は私たちの心の中に潜む暗黒の力です。シェークスピア原作、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲の『オテロ』と言うオペラがあります。この作品は、疑心がいかに人を罪と破滅に導くかを巧みに描いています。悲劇の主人公は、キプロス島総督のオテロとその妻デズデモーナです。旗手(旗持ち)のイアーゴがサタンの役割を果たします。オテロに恨みのあるイアーゴは、デズデモーナが副官のカッシオと浮気をしているという疑いをオテロに持たせます。そのときの策略は実に巧みで、オテロはまんまとその策略にはまり、妻に疑いを持ち始めます。イアーゴは様々な機会にオテロの耳に妻の不貞の様子を吹き込み、さらにデズデモーナのハンカチをカッシオの服に忍ばせて、証拠とするのでした。嫉妬に燃えたオテロは、デズデモーナを殺しますが、その直後にそれはイアーゴの策略で、妻は無実であったことを知り、オテロも自らの命を絶ちます。
 創世記の蛇は、アダムとエバの心の中に「疑いの心」を吹き込みます。疑心の反対語は信頼です。神によって創造されたアダムとエバは、神さまに全幅の信頼を抱いていました。それは、赤ちゃんがお母さんに寄せる信頼に似ています。しかし、それは破られました。神と人間の関係が壊れたのです。彼らは神に背を向け、神から遠く離れ去る道を選びました。わたしたち人間の罪の旅はこうして始まりました。アダムとエバの子どものカインは弟アベルに対する嫉妬から、人類最初の殺人を犯してしまいます。罪の中心は、神から離れ、自己中心的に生きるということにあります。人間と人間の関係においても、関係性の破壊という形で現れます。エゴイズムです。怒りや嫉妬がそれに油を注ぎます。傲慢も一つの表れです。そうしたものが、わたしたちの内には潜んでいて、蛇のようにわたしたちを誘うのです。今日は大斎節第1主日ですのでこの後共同懺悔を用いますが、その中に次のような祈りがあります。「不品行が横行し、自己中心で金銭を愛し、快楽をむさぼる者が多い社会を見過ごしにしていることを、主よ、お赦し下さい」「わたしたちがしてきた多くの誤り、人間の必要、貧しさ、苦しみに目をふさぎ、不正と残酷さに無関心であったことを、主よ、お赦し下さい」「わたしたちが隣り人に対して誤った判断をし、愛情のない思いをいだき、境遇の違う人びとに対して偏見を持ち、差別していることを、主よお赦し下さい」とくに心にとどめたい祈りです。
 しかし、わたしたちが罪の状態を避けることはできないというのも一つの真理です。ある人は、エデンの園におけるアダムとエバの状態を『夢見心地の無垢』と表現しました。赤ちゃんもまたそうでしょう。その『夢見心地の無垢』はやがて破られる定めにあります。神さまはわたしたちに自由な意志をお与えになりました。愛する子どもをいつまでも自分の手元につなぎ止めようと思う親がないように、神さまは自由を人間にお与えになったのです。そして、それこそがわたしたちの「罪」の根源なのです。自由な意志といっても、わたしたちは自分の意志だけでは神さまの元に帰ることはできません。それを引き留める力が働くからです。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と書いていますが、自分で自分をコントロールできないわたしたち人間の弱さ、自由に見えて不自由なわたしたちの状態を見事に描いています。
 ですからわたしたちは、いつも「負い目」を感じながら生きていると言っても言い過ぎではないでしょう。主の祈りの中で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」とありますが、この「罪」という言葉は、他のところで用いられている「罪」という言葉ではなく、「負い目」「借金」「負債」という言葉です。「借金」があると落ち着かない、気持ち悪い。よく分かる言葉です。以前の口語訳のマタイ福音書では「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」となっています。わたしたちは神の愛を知っています。神の戒めも知っています。ですから、いつもそれに値しない自分を感じています。「負い目」を感じているのです。あの神さまの懐を飛び出したアダムとエバのように。
 しかしそれでも、わたしたちを愛して下さるのが神さまです。わたしたちが自分の現実を見つめ、自己中心的で、ときには隣人を踏みつけにし、自分の楽しみや快適さだけを求める自分に気づくときに、神さまの恵みが働き始めます。放蕩息子が父親の元に帰ろうとしたときに、父が腕を広げて迎えてくれたように、神さまはみ腕を広げてわたしたちを迎えて下さるのです。先ほど呼んでいただきましたローマの信徒への手紙の中で、パウロは「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」と教えています。神の戒めを知っているわたしたちは、罪を知っています。罪人であることを告白しています。だからこそ、神の豊かな恵みが注がれるのではないでしょうか。自分には落ち度がない、自分は正しいと思いこんでいる人には、神の愛は隠されています。自分の惨めさ、人間の悲惨さを知ったとき、神さまに対して心が開かれ、イエスさまが入ってこられるのです。これも先ほど読んでいただきました詩編51編の続きの部分、17節に「神よ、わたしの献げ物は砕かれた心‖ あなたは悔い改める心を見捨てられない」とあるのはそのことです。イエスさまが、ルカによる福音書の中で、ファリサイ派の祈りではなく、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈った徴税人を愛されたのはそのためです。
 大斎節、レントが始まりました。この機会にわたしたちは自分の心を見つめ、「負い目」を感じることができるようになりたいものです。そして、イエスさまの十字架によってその「負い目」を赦して下さった神さまの愛を素直に受け入れ、感謝の気持ちで、喜びのうちに毎日を生き続けたいと思います。
 
<祈り>
 いつも豊かな恵みを注いで下さいます神さま。大斎節に当たって、あなたのみ言葉は、わたしたちの罪の根源を明らかにしてくださいました。わたしたちはあなたを遠く離れ、自分中心の生活を送り、隣人を顧みないでいます。どうかわたしたちがそうした状態を、「負い目」と感じることができますように、そして、その「負い目」を赦し、わたしたちを受け入れて下さったあなたの愛に限りない感謝の気持ちを持つことができるようにお導き下さい。