2005/1/29 顕現後第4主日・朝の礼拝
 
第1日課:申命記18:15−20
第2日課:マルコによる福音書1:21−28
 
権威ある教え
 
 先週の水曜日、つまり1月25日は「使徒聖パウロ回心日」でした。それまでキリスト教に対して激しい憎しみを抱き、弾圧の先頭に立っていたパウロ(サウロ)が、ダマスコへの途上で復活のキリストに出会い、生き方を180度転換し、熱心な使徒となり、とくにギリシア人、ローマ人を始め、「異邦人のための使徒」となったことを記念する日です。その様子は、使徒言行録26章に詳しく描かれており、また、ガラテヤの信徒への手紙など、パウロ自身の手紙の中でも触れられています。描き方は少し違いますが、パウロがイエス・キリストによって造りかえられ、イエス・キリストの弟子以上に忠実な弟子になって、世界宣教を始めた出発点であることには違いがありません。
 では、なぜパウロはそのような回心を遂げたのでしょうか。復活のイエス・キリストに出会ったというのはどういうことでしょうか。生前のイエスに出会ったことのないパウロが、どうしてイエスさまの弟子になることが出来たのでしょうか。そのことを理解するために、今日のみ言葉を学びたいと思います。本日の福音書であるマルコ福音書1:21以下を見ますと、イエスさまが会堂(ユダヤ教の教会のようなもの)に入って教えられると、人々はその教えに驚いたと記されています。それは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからだ」というのです。この「権威ある者」というのは、どういう人なのでしょうか。宇野主教の「聖書を学ぶ会」で、宿題として出されたようです。ちょっと字面だけで見ますと、何か偉そうにしている人、権力を持っている人、というように読めるのですが、それでは人を感動させることはできないでしょう。「権威」に当たるもとのギリシア語は「エクスーシア」と言いますが、これは「まったき所有物」、「すべてのものをまったき所有物として意のままにすることができること」を表しています。そこには「力」があります。人を動かす魅力と迫力があります。イエスさまのお話は、単なる道徳論でもなく、もちろん律法を振りかざした説法でもなく、聞く人の魂を揺さぶり、奇跡を引き起こす不思議な力を持っていました。ですから、会堂にいた悪霊にとりつかれた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んで暴れ出したのでしょう。単に理屈や表面的な言葉だけに訴える教えではなく、相手の魂を揺さぶる、いや存在そのものを揺り動かすような方、それがイエスさまだったのではないでしょうか。神さまという方は、そもそもそのような力を備えていらっしゃいます。ですから、旧約聖書では、「神を見た者は死ぬ」などと言われ、敬愛されるだけでなく、恐れられる方であったわけです。イエスさまの「権威」とは、そのような神的な力、神さまに由来する力を意味していたのではないかと思います。
 私は今、高校1年生の授業で、映画『パッション』を見せています。2004年に封切られた映画で、あまりに残酷な描き方に賛否両論がおこった映画です。アメリカでは映画を見てショック死した女性がおられたということでも話題になりました。私は、この映画に2つの不満を持っていました。一つはあまりにも説明が少ない。イエスという方がどのような方で、なぜ、どのようにしてユダヤの支配層とローマ帝国に憎まれ、十字架への道を歩まなければならなかったのかが分からない。とくに、クリスチャンが非常に少ない日本では、もっと、もっと聖書の背景説明が必要だ。そのように考えておりました(それはもちろん、一面の真理ではあります)。また、あまりにも残酷な場面が多いため、見る人に嫌悪感を抱かせるのではないか、とも考えていました(それもまた、ある意味では正しかったようです)。しかし、高校生にこの映画を見せてみて、そうではない、人の魂を打つのは言葉ではない。むしろ、その方の存在そのもの、全存在をかけて、命がけで伝わってくるメッセージが人を揺り動かすのではないかと思うようになりました。『パッション』を見ていて、誰一人としておしゃべりをしたり、居眠りをしたりする生徒はいなかったのです。ひたすら、十字架への運命をお引き受けになるイエスさま。そのお姿にただならぬものを感じて、彼女たちは固唾をのんで画面を見つめていたのです。
 パウロも、ただ言葉としてイエスさまの教えを伝え聞いたのではないと思います。パウロが伝え聞いたことといいますと、それは「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Tコリント15:3−5)としか、記されていません。実に簡潔な記述です。もちろんパウロはイエスさまの教えを知っていたでしょうが、パウロを突き動かしたのは、むしろ全体としてのイエスさまの生き方、その十字架上での死と復活だったということができます。その衝撃的な事実が、パウロの中で沸々と熟成され、やがて外から見れば突然と思えるような仕方で、彼の回心を引き起こすのです。使徒言行録にはこのように記されています。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。 『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」これは、パウロ自身の中で、イエス・キリストの生涯、その十字架の死と復活の衝撃がいかに大きかったかを示しています。
 聖パウロはこのようにしてユダヤ教の闘士からイエス・キリストの使徒として大転換を遂げたわけです。さて、日本という国は多くの人びとが仏教に属しています。ですから、その中でイエスさまの教えを広めようとすると、どうしても仏教のことを考えないわけにはいかないと思われます。最初にキリスト教の洗礼をお受けになる方は、ほとんどが仏教からの「宗旨替え」になるからです。私の母方の祖父は墨林慈円と申しますが(いかにも仏教僧にふさわしい名前です)、もともと河内の浄土真宗の寺の息子として生まれました。そして、救世軍の山室軍平などの話に感動し、やがて川口基督教会で洗礼を受け、クリスチャンとして生まれ変わります。そして、すでに幼いときからのクリスチャンであった祖母の登美子と結婚するわけです。祖父は寺の息子ではありましたが、住職ではありませんでしたし、牧師になったわけでもありませんでした。ところが、浄土真宗の住職でありながら、キリスト教の牧師になり、熱心な伝道者となった方がおられます。それは亀谷凌雲(かめがいりょううん)という方です。明治21年に富山県の由緒ある寺の18代目の住職として生を受けた著者は、東大の哲学科で学び、その後も人生の意味を仏教に見出そうとします。しかしどうしても自分を救ってくれる真理を見出すことができず悶々と日を過ごしますが、ついに、イエス・キリストこそが真の救い主であるという信仰を得るのです。亀谷牧師は仏教の言葉を使ってそれを次のように表現しておられます。「私の求めていたのは真の如来である。真如の世界は分からないが、迷いの世界にあるわれわれの間に来たってそれを示し、われわれを救ってくださる、すなわちその名のごとく真実に真如より私どもの所まで来たり生まれてくださる如来に会いたかったのだ。キリストは真理そのものであらせられる天地の創造者、天地の主にておわす父の御許からこの暗き地上に来たり、真実に罪深き者、苦しめる者、死に行く者の間に来たって、その父をあらわし、真理をもたらしてくださったのであった。」亀谷牧師が仏教者として長らく求めて得られなかったものを、イエス・キリストがもたらしてくださったという告白であります。そして、亀谷牧師をそこまで導いたのは、イエスさまの権威、言葉だけではなく全存在をかけて神の救いを体現してくださった方の力、迫り来る力でした。亀谷牧師は言います。「私が求めて止まなかったのは、尊い神でもあったがまた真の人間でもあった。温かい人間に会いたかったのだ。真に涙を流し、血をしたたらし、苦しみを、悩みのどん底を真に経験している人そのものに会いたかったのだ。それを私はこのキリストに発見したのである。」そのキリストの言葉と生き方は、聖であり、愛であり、生命であり、力であり、創造であり、権威そのものであったということができます。そう信じて、亀谷牧師は住職を弟に譲り、自分は無一文で開拓伝道に赴くのです。
  由緒ある寺を任された住職が、あろうことかクリスチャンになり、しかもその後、牧師になるというのですから、周囲の反対はすさまじいものがありました。しかし、やがてお母さんも、奥様も理解を示し、奥様は熱心な伝道者として亀谷師を助けることになります。そして神さまは亀谷師のその後の人生を豊かに祝福してくださり、実に大きな働きをさせてくださるのです。この亀谷牧師の場合も、イエス・キリストの難治も言えない魅力、迫力、人を変えずにはおかない不思議な力、神的な力によって、魂の深いところから作り替えられたということができるでしょう。
 私たちは、そのような権威、力をイエスさまから感じ取っているでしょうか。イエスさまの全存在から力をいただいているでしょうか。その誕生から十字架上の死、そして復活にいたるイエスさまの全生涯から、私たちは大きな力をいただき、それに突き動かされて毎日を生かされていきたいと思います。
 
<祈り>
 恵み豊かな天の神さま。あなたは御子イエスさまをこの世に送り、イエスさまを通じてあなたの権威をお示しになりました。あなたのみ力の前には、誰も逆らうことはできません。聖パウロもあなたの力によって作り替えられ、あなたの宣教の器とされました。どうか、私たちにもイエスさまを通じてあなたの力を示し、生きる大きな力をお与えください。