2006/10/1 聖霊降臨後第17主日(特定21)
 
旧約聖書:民数記11:4-6,10-16,24-29
使徒書:ヤコブの手紙4:7-12
福音書:マルコによる福音書9:38-43,45,47-48
 
神の宣教
 
 「匿名(無名)のキリスト者」という言葉があります。第二ヴァチカン公会議以降ローマ・カトリック教会が打ち出した考え方で、他宗教にも真理を認めようという立場の一つです。例えば仏教の信者で日常生活や社会活動の面で、イエス・キリストの教えに非常に近い行いをしておられる、仰ることもほとんどキリスト教だというような場合、その方はキリスト教信仰を告白してはおられないけれども、実質的にキリスト者と考えても良いのではないか、という考え方です。そうすると、他宗教との対話や協力の可能性が大きく開けてくる、というのです。この立場に対しては、二つの立場から批判が出されています。一つは、それは厚かましいのではないか。仏教やイスラム教の偉大な宗教者はみな「匿名のキリスト者」になってしまうわけですから、キリスト教のおしつけとどう違うのか、という批判です。もう一つの批判は、イエス・キリストの名によってのみ良い業が可能なのだから、他宗教の方がいくら立派なことをしても、それは本当には良い業だとは言えない、というものです。
 私にはこの「匿名のキリスト者」という立場が正しいかどうかはよく分かりませんが、逆に「私たちだけが正しい」「他の宗教はすべて間違っている」とする独善的な立場がイエスさまの教えからはかえって遠いのではないか、ということは分かるような気がいたします。その立場を推し進めると、「自分たちの教派だけが正しく、他の教派は間違っている」他宗教との関係で言えば「キリスト教が正しいのだから、イスラム教を滅ぼしても良い」というような偏狭で好戦的な主張に行き着くのではないかと思うのです。それは基本的には、真理を独占したい、あるいは権威を独占したい、という欲望に基づく考え方であり、神さまによって認められるのではなく、自分で自分を正しいと認める「自己義認」と結びつくのではないかとも思います。
 この点で、今日の旧約聖書と福音書は見事に同じメッセージを伝えています。先ず旧約聖書ですが、出エジプトの過程で食糧不足に不満を言う人々を率いるのは自分の身に余る重荷だと神に訴えるモーセに、神は70人の新たな指導者を選出して、預言者としての能力を与えようというのです。「モーセに授けられている霊の一部を採って、70人の長老にも授けられた。」と書かれているとおりです。これだけでもモーセにとっては大変なことだったはずです。ところがその70人以外にも預言の能力を与えられた者がいて、それに対して、ヨシュアは「やめさせてください。」と訴えます。正式に選ばれてもいない者が預言するなんてとんでもない、というわけです。ところがモーセの答えは、どうだったでしょう。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」これがモーセの答えでした。ここには、権威を独占しようとしてはならない、本来すべての人々が神の言を伝えるのが望ましい姿だという実に寛大なというか、広大な心が示されています。「私だけが預言者だ。」「私が言うこと以外はみな間違いだ。」という現代の似而非宗教家とはいかに違うことでしょうか。
 イエスさまもまた、神の子として、きわめて広い心を示しておられます。弟子のヨハネが、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」というのに対して、イエスさまは「やめさせてはならない。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」とお答えになるのです。ヨハネにしてみれば、イエスさまの名を騙る偽弟子、とんでもない偽者だというわけです。しかし、イエスさまの名によって現実に悪霊が追い出されているのであれば、それは人々によいことをしているのですから、イエスさまに敵対するのでない限り、それは「味方」に属するとイエスさまは言っておられるのです。直接の弟子でなくとも、直接イエスさまから権限を授けられているのでなくとも、イエスさまの味方になりうるということをイエスさまは教えておられるのです。これは、弟子たちには耐え難いことであったに違いありません。自分たちはイエスさまの弟子として共に苦労をしてきた。それなのに、あいつらは勝手にイエスさまの名を騙っている!
 いかがでしょうか。私たちも教会生活を送っていて、これとよく似たことが有りはしないでしょうか。内々にまとまってしまって、外に対して閉ざされた空間を作ってはいないでしょうか。人間が集まっているわけですから、内と外の区別は必要でしょうし、会員と非会員の区別も要るでしょう。しかし、教会は、ただの人間の組織とは違います。教会は、神さまの宣教のために建てられたいわば宣教の部隊です。閉鎖的に内に固まるのではなく、出来る限り門を大きく開き、窓を大きく開き、様々な人を迎える準備が出来ていなければなりません。必要な場合には、教会の方から出かけていって、人々の間に入っていかなければならないのです。
 今年の7月で終了してしまったのはとても残念なのですが、教会が主催して2年半にわたって開いていた「てるてるこどものアトリエ」は、私たちに積極的な教訓を残しているように思います。このアトリエは、通算して200人以上の地域の子どもたちの足をこの教会に運ばせてくれたのですが、その指導を担当されたのは未信徒の伊藤さんと山村さんという2人の女性でした。いわば全く教会外部の方です。日曜日には他の活動があるため、教会の礼拝にはほとんどこられませんでした。しかし、神さまが子どもたちに与えられた「絵を描きた〜い」「何か面白いことした〜い」という自然の欲求と能力を引き出し、のびのびと楽しい時間を過ごさせたいという私たちの願いをよく理解され、本当に楽しい時間を子どもたちに与えてくれました。お手伝いにきてくださった女性の会の皆さんもよくご存じのように、会館に響く子どもたちの歓声と笑い声は、私たちにも大きな力を喜びを与えてくれたのではないでしょうか。地域宣教のすべての課題を教会の信徒だけで担うというのは、実質的に無理があるばかりか、様々な人々を巻き込み、教会の交わりの輪を広げる上で最善の方法であるとは言えません。もちろん、礼拝奉仕や信仰の根本に関わることは、信徒の力でしっかりと支えてくださることが必要です。しかし、様々な活動では、教会外の人々の能力やお力をお借りするということが大いにあって良いのではないかと思うのです。
 最も大切な点は、宣教(人々に神の存在を知らせ、その生き方を変え、世の中を変えること)は、神ご自身がなさることだということです。神さまの側に主導権があるということです。私たち教会は、神のご計画の中でそのお手伝いをするために建てられ、その中に参画するように招かれているのです。目に見える成果はなかなか上がらないものですが、あきらめず、絶えずそのお手伝いをしていく。そして、成果が上がれば、その栄光は神さまにお返しするということが大切だと思うのです。神に感謝し、さらに神の導きを祈る。それが、キリスト者の宣教の姿勢ではないでしょうか。逆に、一寸成果が上がると自分の功績にし、成果が上がらないと意気消沈してしまう。それは、真理を独占し、自分だけを正しいとする排他主義の自己義認へとつながっていきます。
 他の宗教との関係でも同じことが言えるような気がします。私たちは、イエス・キリストの福音を信じ、キリスト教が正しいともちろん信じているわけですが、他の諸宗教、例えば仏教の信徒も同様に自分たちが正しいと信じているのです。互いに自己の正しさだけを主張し合うだけでは、不毛な対立だけが残ります。イエス・キリストを真剣に信じつつ、相手の方が真剣に仏教を信じておられる、その価値を認め、尊重しつつ、理解し合う姿勢が必要なのではないかと思います。そうした中で、相手の方もキリスト教の素晴らしさを認めてくださることになるのではないでしょうか。「宗教間対話」という言葉があります。聖公会はキリスト教の中の他の教派との対話と一致(それをエキュメニズムと言います)を重視しているだけでなく、他宗教との対話にも開かれた態度をとっています。私は、イエス・キリストの福音を信じることと、他のまじめな宗教の価値を尊重すると言うこととは決して矛盾しないと思っています。
 まじめに他の信仰を信じておられる方に対して、根底からそれを否定し、打ち砕いてしまう人たちもいます(もちろん聖公会ではありません)。そのような人々は、キリスト教の他の教派に対しても否定的です。そんなとき、私は今日の福音書にあるイエスさまの言葉を思い出さざるを得ないのです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」
 どうか、自分だけが正しいとする自己義認だけはやめたいものです。