2006年4月30日 復活節第3主日(B年)
 
旧約聖書:ミカ書4:1-5
使徒書:使徒言行録4:5-12
福音書:ルカによる福音書24:36b-48
 
平和のビジョン
 
 1960年代にアメリカの公民権運動、つまり黒人や非白人の国民が差別されていた状態に抗議して、本当に平等な権利を要求した運動の指導者、マーティン・ルーサー・キングJr牧師の有名な演説に、「私には夢がある」という演説があります。原題はI have a dream!といって、中学校や高校の英語の教科書にもよく載せられていますので、ご覧になった方もいるだろうと思います。そこに、こんな言葉があるのです。
「友よ、私は今日あなたがたに言いたい。われわれは、今日も、明日も、多くの困難に直面するだろうが、それでも、私には夢がある。/私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、<われわれは、すべての人びとは平等につくられていることを、自明の真理と信じる>という信条を、真の意味で実現させることだ。/私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに腰をおろすことだ。/私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧のために熱く蒸しかえるミシシッピ州でさえも、自由と正義のオアシスへと変わることだ。/私には夢がある。それは、いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に生きられるようになることだ。/私には夢があるのだ!/われわれが、すべての村や集落で、すべての州や町で自由の鐘を鳴り響かせるとき、そのときこそ、われわれは、黒人も白人も、ユダヤ教徒も異教徒も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが手を取り合って、あの古い黒人霊歌を口ずさむことができる日が来るのを、早めることができるのだ。」
 投獄をはじめとする数々の弾圧や爆弾による脅迫、そのほか言葉には表せないほどの困難と直面する中で、1963年8月のワシントンでの大行進の際に、彼はこの演説を行ったのです。ほとんど絶望的と思われる状況の中で、彼は神の約束を信じ続けました。演説にこんな一節があります(あまりにも聖書的なので、よく引用からは外されるのですが…)。「私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。<そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。>」これはイザヤ書40章の言葉です。キング牧師がなぜ、あの困難な中で夢を持ち続けることができたのか。その理由がここにあります。それは、必ずすべての差別や対立が取り除かれ、すべての人が神の栄光を見るという神の約束を信じ続けることができたからです。そして、どんな困難なときにも神が共におられるということを信じることができたからです。
 本日の旧約聖書ミカ書にも驚くべき預言が記されています。終わりの日の預言です。唯一の神の前に、すべての国民が集まり、争いはなくなり、人々は「剣を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」というのです。これは神さまの約束です。神が世界における平和を約束してくださっているのです。「剣を打ち直して鎌とする。」つまり、武器をすべて溶かして、農作業のための道具に変える、というのです。現代流に言うならば、すべての軍事兵器を廃棄し、その資源をすべて人々の暮らしのために用いるということになるでしょう。素晴らしいことではないでしょうか。私たちは、この神さまの約束を信じることができるでしょうか。
 預言者は神さまの言葉をいただくとき、よく幻を見ます。声を聞くこともあるでしょう。この幻という言葉はビジョンと訳されます。牧師任命式の後の祝賀会の時にも申し上げたのですが、ビジョンという言葉は同時に「未来像」とか「理想」と訳すこともできます。キング牧師の言葉で言えば、「夢」ではないかと思います。神さまから示された未来像。それは一つの夢でもあります。ですから、時には私たち人間にとっては非現実的と見えることもあります。しかし、それは神さまの約束でもあるわけです。ですから、神さまは私たちに「夢を持ちなさい。それは必ずかなえられますよ。」と言われているのではないでしょうか。すべての国が軍備を持たず、平和に共存する世界。それは国際政治の目から見れば、非現実的かもしれません。世界の状況はほとんど絶望的に思えます。人間の罪は取り除きがたい、いつまでも人間同士の対立や殺し合いは続くように思われます。しかし、必ずや世界に平和が実現するというのは、ミカ書におけるように、神さまの約束なのです。ですから、私たちはキング牧師のように、こう言わなければなりません。「私には夢がある。いつの日かすべての国民が武器を捨てて一カ所に集まり、それぞれ自分のブドウの木の下に座り、何者にも脅かされず、親しく交わることができるという夢を。」政治的な意見はいろいろあるかもしれません。しかし、平和というこの夢だけは、すべてのキリスト者が共有すべき夢なのです。神の約束を信じ続けるなら、この夢を持ち続けようではありませんか。
 大切なことは、この夢がただの非現実ではないということです。それは、イエス・キリストがその十字架上の死と復活によって平和を約束してくださっているからです。今日の使徒言行録には、ペトロがイスラエルの指導者たちの前で、イエス・キリストの出来事について堂々と証しをする場面が出てきます。そこには、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石」という言葉が出てきます。これは、詩編118編の「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」というところから取られた言葉です。隅の親石とは、家を建てるときに土台の中で最も重要な石のことです。「かなめ石」とも呼ばれます。つまり、イエス・キリストは、イスラエルの指導者たちによって軽蔑され、十字架にかけられたけれども、その方が神によって新しい教会の要石となった。イエス・キリストの上にすべてが建てられたということを表しています。そして、このイエスさまが私たちにしてくださったことの中心は、神と人間の和解と平和、人間同士の和解と平和であるということができます。コロサイの信徒への手紙には、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」つまり、イエス・キリストの死と復活によって、神に背いて罪の道を歩んできた私たち人間が神と和解し、神との正しい関係に入れられること、そして人間同士が和解し、平和の道を歩むことができること。このことがすでに実現した、と宣言しているのです。私たちは毎主日の聖餐式で、そのことを覚えて感謝の祈りを献げているのです。
 現実の世界に目を向けてみましょう。そこにはまだ、多くの争いがあり、戦争による犠牲が絶えません。国と国の間の緊張が高まっているところでは、軍事費に多額の予算がつぎ込まれ、他方で、人々の生活を安全に、豊かにするはずの予算はどんどん削られています。我が国も例外ではありません。そして、日本が軍備を増強すればするほど、周辺諸国の不安も増し、そこでも軍備増強が進められます。悪循環が始まっています。そんなときでも、いやそんなときだからこそ、私たちはこの神の約束、そしてイエス・キリストが実現してくださった平和を信じ続けたいと思うのです。そして、世界中の人々が手をつなぎ、世界中の子どもたちが共に遊び回る姿を夢見たいと思うのです。そのために、私たちも神さまのお手伝いをして、平和の使者になりたいと思うのです。戦争への雰囲気に飲み込まれることなく、平和の価値を、その大切さを語り続けたいと思うのです。
 もちろん、そんな大きなことでなくても、私たちは人生の中で、本当に苦しく、人に言えない、絶望的な状況に立ち至ることがあります。仕事がうまくいかないとき、ストレスに苦しめられるとき、家庭や夫婦関係がうまくいかないとき、子どもの将来で悩むとき…そんなときに、私たちは暗闇の中に立たされます。しかし、そのときにこそ、新しい命を与える、平和と希望を与えると言われたイエスさまの約束を信じることが大切なのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙の中には「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた。」というパウロの言葉が記されていますが、まさにここに、イエス・キリストが与えてくださった信仰と希望の姿があります。
 戦争中のドイツで、ヒットラーが造り、何百万というユダヤ人を殺害したアウシュビッツ収容所。その収容所で捕虜となったユダヤ人の心理学者ヴィクトール・フランクルは、収容所の中の人々を冷静に観察し、戦後まで生き延び、貴重な証言を残していますが、その中の一つは人間が生きる上で「希望」というものが果たす本質的な役割です。『夜と霧』という有名な本の中で、フランクルは、「未来に希望を持っている人間は、決して死なない。未来を失った人間はそのよりどころを失い、内側から崩壊する。」と書いているのです。神は私たちに、希望に生きる道を示してくださっています。暗い事件の多い世の中で、私たちは希望を失い、絶望に陥りがちですが、その中でも、イエス・キリストの生涯と十字架上の死、そして復活という出来事を見つめ、未来に希望をもって歩むとき、私たちを神様が支えてくださっていることに気付くのです。神が共にいてくださることを信じ、神の臨在を全身全霊で感じつつ、歩み続けたいものです。
 
<祈り>
 主よ、あなたは御子イエスキリストを死人の中からよみがえらせることによって、私たちに暗闇の中でも希望を抱いて、新しい命に歩む道を示してくださいました。現代の世界は未だに戦争と争いに満ちていますが、どうか私たちが絶望に陥ることなく、世界に平和を打ち立てるというあなたの約束を信じ、希望をもって生きることができるようにお導きください。