2006年11月13日 浜寺朝祷会2周年記念礼拝
 
聖書:マタイ6:5〜6
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
祈りのとき
 
 浜寺朝祷会発会二周年ということで、お話をさせていただく機会を与えられまして、感謝しております。特に世話人の皆様には、プール学院チャプレンという学校でのミニストリー(聖公会の場合は、教区からの派遣という形をとっておりまして、本人の希望で学校に勤めたり辞めたりはできない仕組みになっています)でほぼ毎日のように出勤しておりますため普段あまりお手伝いができないことを申し訳なく思っております。
 さて、二周年ということで、何をお話しさせていただけばよいだろうかと考えておりまして、やはり、朝祷会の柱であります「祈り」について、聖書のメッセージをお伝えするべきだろうな、と思っておりましたところ、今度の『朝祷』に仙台朝祷会の方がやはり「祈り」についてお書きになっておられまして、不思議な導きを感じた次第です。
 祈りについて、今日私は3つのことをお話ししたいと思っています。一つは、祈りは密かな、謙虚なものでなければならないということです。イエスさまは今日の聖書の箇所で、偽善者たちの祈りを批判し、彼らは人に見せびらかすために街道や大通りの角に立って祈りたがる、と語っておられます。「彼らはすでに報いを受けている。」それは本当の報いではないけれども、人々に感心してもらえる、大した信仰だと褒めてもらえるからです。「祈り」というのは、本来、神さまに聞いていただく魂の叫びです。罪深く無力な私たちが、その自分をさらけ出して、神さまに思いの丈を聞いていただくのです。ハレスビーというルター派の神学者は、「祈りは、無力な人の最後の逃れ場である」「祈りと無力さは切り離すことができない。無力な人だけが本当に祈ることができる。」と書いていますが、祈りとは本当に小さく弱い存在である私たち人間が神の前でとる姿勢であろうと思います。私たちがこの世界で打ちひしがれ、神さまの前で、その心のうめきを発するとき、神さまはそれに耳を傾けてくださるのです。「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」(詩34編)と詩編にあるとおりです。それは、街頭に立って大声で雄弁に祈る偽善者たちの祈りとは対極に立つものです。偽善者の祈りは、「自分たちの内で誰が一番偉いのか」を気にして、競い合った弟子たちの姿に通じるものです。弟子たちは、自分をイエスさまに認めてもらいたいという一心から、イエスさまに対する忠誠を誓います。しかし、それはこの世における出世願望とどれほどの違いがあるのでしょうか。彼らはイエスさまの支配のもとで、自分たちも大臣の椅子を分けてもらえるかも知れない、少し極端な言い方かも知れませんが、そのようなことを夢見て、結局は最後の瞬間にイエスさまを知らないと言い、逃げ去ってしまったのです。ですから、私たちの祈りは、人と競ったり、神さまに優秀な信仰者であることを認めてもらうための巧みな祈りであってはならないのです。巧みでなくても良い。雄弁でなくても良い。むしろ、率直で、不器用で訥訥とした祈りに神は耳を傾けられる、そんな気がしてなりません。ハレスビーは「あなたが無力に捉えられたその瞬間から神は聞かれるのです。中風の病人の無力な無言の祈りを聞かれたように、神は、無力な祈りを大いなる力をもってお聞きになるのです。」と私たちを励ましています。だからそれは、密かな、謙虚な祈りになるのだと思います。
 二つめに申し上げたいことは、密かな祈り、謙虚な祈りというは、上品な祈りというのとは違っているということです。むしろそれは必死な思いを振り絞る祈りなのです。叫びや、涙が伴うこともあるのではないでしょうか。肉親が病に倒れたとき、子供が心の病に囚われて家を出ることができないとき、夫との関係がうまくいかずに苦しみの中にあるとき、夫が仕事を失って自暴自棄になっているとき、そんなときの私たちの祈りは、うめきや涙なしではありえないのです。中国でこんな民話があります。台湾の長老教会のC.S.ソン(宋泉盛)という神学者が『民話の神学』という本の中で紹介しておられる話です。秦の始皇帝の時代です。北方からの侵入を防ごうと、彼はいわゆる「万里の長城」の建設を企てます。しかしそれは大変な難工事で、ようやく防壁の一部を築き挙げて次の部分に取りかかると、せっかく築き上げた前の部分が崩れてしまうという具合で、なかなか工事は進みません。すると、「賢者」と言われる皇帝のある相談役が、「一里ごとに人間を人柱として生き埋めにし、悪霊を宥めなければなりません。」と進言します。そこで、皇帝はお触れを出し、国中の人は震え上がりました。すぐにその段取りがとられましたが、別の学者が、「妙案がある」ということで、次のような案を出しました。「たくさんの人間を人柱にするには時間がかかります。『万』という名字の男を捜してはいかがでしょう。『万は多数を総する』とありますから、それで、たくさんの人間を捉える手間が省けます。」そこで、始皇帝は、ちょうど自分のめでたい婚宴の席に花嫁と一緒に着いていた万と名乗る男を捕らえて、人柱にしてしまったのです。後に残された花嫁は孟姜女(モンジャニュイ)といいますが、涙に暮れた日々を過ごすことになりました。ついにある日、孟姜女は犠牲にされた夫のむくろにせめて一目でも会いたいという一念から、山を越え川を越えて辛い旅に出ました。やがて気の遠くなるような長い旅の果てに万里の長城にたどり着いた彼女は、その高い城壁を見上げ、そこに愛する夫のむくろがあるのかと途方に暮れて、激しく泣くばかりでした。城壁はビクともしそうにありません。ところが、意外なことが起こりました。彼女の悲痛な慟哭に、心ない城壁でさえ哀れに思ったのでしょうか、その一角がどっと崩れ落ち、その中から愛する夫のむくろが現れたのです。
 圧倒的な権力、絶対の力を誇る始皇帝に対して、孟姜女は本当に無力な女性でした。抵抗すべもなく夫を取り上げられ、その夫の骸に会いたい一心で何千キロも旅をする。それは無駄な、絶望の旅でした。しかし、最後の最後には希望が与えられました。私たちの人生も、始皇帝のような暴君に直面することがあります。それは借金であったり、どうしようもない悪運であったり、何ともしようのない人間関係であったりします。そのようなとき、どうぞ、何はばかることなく、神さまの前で思いっきり泣いたり、わめいたりしてください。それでいいのです。詩編にも、神さまに怒りをぶつけ、ののしっているとさえ思われる詩がたくさんあります。「主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」(6編)「主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。」(10編)。しかし同時に詩編は、そのような魂の叫びに神は必ず耳を傾けてくださる、という信頼、信仰にも貫かれています。だから、冒頭に申し上げた「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」(詩34編)という言葉が出てくるのです。孟姜女の絶望の中からの慟哭、それを神は「はらわたが千切れる思い」で聞き取られたことでしょう。神は無力な私たちの苦しみを共に担い、共に泣いてくださることでしょう。だから、私たちの祈りは決して無力ではないのです。
 第三に申し上げたいことは、共に祈ることの大切さです。一人で静かに神さまと対話することももちろん大切ですが、イエスさまも、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と教えておられるように、複数の人間が共に集まり、心を一つにして祈るとき、そこにイエス・キリストが来られる、聖霊が降る、ということが起こるのです。最近、聖公会では従来行われていた『朝の祈り(早祷)』という礼拝以外に、『み言葉の礼拝』という式文を作成しました。それは、初期のキリスト者が主のご復活の日である「主の日」ごとに喜びの内に祝っていた集会を引き継ぐということに主眼があります。『朝の祈り(早祷)』ではどちらかといえば、個人または家庭、あるいは修道院で定時に守ることに意味見があったのですが、『み言葉の礼拝』は、キリストの復活を記念して祝い、聖書のみ言葉を聞くことを通してキリストを想起しつつ、キリストとの交わりを喜ぶということにポイントが置かれています。ユーカリスト(聖餐)は行われませんが、ユーカリストと共通した方向で生み出された礼拝形式です。聖公会はどちらかといえば、そうした成文化された祈祷、祈祷書に基づく礼拝に重点を置いていますので、自由祈祷はへたくそだといわれます。しかしもちろん、「主の日」を祝うのには、自由祈祷を中心とした賛美礼拝でも良いわけで、どれが優れているということはありません。問題は、共に礼拝する、共に祈るということです。そこに共同体としての教会の信仰が育まれるのです。そして、さらに、私たちは、互いに祈り合わなければならないと思うのです。聖公会には代祷(執り成しの祈り)という形式がありますが、自分の思いを神さまに打ち明けるだけでなく、世界の人々のために、また互いのために祈り合うということが、同じキリストの体につながるものとして、どれほど大切かはいうまでもないことでしょう。私たちの教会では、毎週、「キリストの枝としての地域の諸教会のために」という代祷を献げています。世界の平和のためにも祈っています。朝祷会はまさに、それを具体化した祈りの場です。どうか、これからも、浜寺朝祷会がすべてのキリスト者が共に集い、世界の平和のために祈り合う集まりとして、神さまの祝福を受け続けるよう祈って止みません。
 
<主よ、浜寺朝祷会が2周年を迎えたことを感謝いたします。私たち人間は弱いものですが、その弱さを包み隠すことなく私たちが自分自身をあなたの前に差し出すとき、あなたはその声を聞き、力を与えてくださいます。どうか、私たちが互いに祈り会い、この浜寺の地であなたのみ言葉を宣べ伝えると共に、世界の平和のために働くことができますように、上からの豊かな聖霊を注いでください。私たちのために十字架にかかり、復活された主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。>