2007年7月15日 聖霊降臨後第7主日
 
旧約聖書:申命記30:9-14
使徒書:コロサイの信徒への手紙1:1-14
福音書:ルカによる福音書10:25-37
 
よきサマリア人
 
 本日の福音書は、あまりにも有名な「よきサマリア人」の話です。日曜学校に通うようになってからこの話を何度聞かされたか分からない方もおられると思います。プール学院の生徒にこの話をすると「耳にたこができた」と言われます。でも、やはり大切なお話なのでもう一度させていただきたいと思います。
 このお話は、非常に分かりやすいお話です。強盗に襲われたユダヤ人を一人のサマリア人が助ける、人助けの話です。英語でGood Samaritanというと、困った人を助ける親切な人という意味で用いられます。このお話を聞くと、答えは分かりきっている。助けたサマリア人が偉いに決まっている。そんな単なる人助けの美談に終わってしまいます。でも、このお話には大切なポイントがあるのです。
 その一つは、サマリア人とはどんな人かということです。少し説明をします。聖書の舞台になっているのはイスラエルという国ですが、イスラエルは今から3000年ほど前には大きな統一王国を作っていました。ところがソロモン王という王様の次の世代から国は南北に分裂し、サマリアという町を首都とする北の王国はまもなくアッシリア帝国という軍事大国によって滅ぼされてしまいました。このアッシリアのやり方は非常に残酷なもので、いわば民族絶滅政策でした。兵士を皆殺しにしたのはもちろんのことですが、男性は皆国外に強制移住させ、代わりに多くの異民族の男性を強制的に住まわせました。その結果、いわゆる混血が進み、民族のアイデンティティは失われました。南のユダ王国はバビロニアという国によって滅ぼされたのですが、こちらの方は指導者が強制収容所のようなところへ連れて行かれただけで、民族的なアイデンティティは保たれました。むしろ強まりました。この南の国がやがて「ユダヤ」と呼ばれるようになったのです。ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し差別するようになりました。自分たちは純血で、サマリアの人々は不純で、罪人だというわけです。日常的に出会っても、口も聞かない。ましてや、手助けするなどはもってのほかでした。今日のお話は、そのような背景を考えないと分からないのです。強盗に襲われたのはユダヤ人、通りかかった祭司もレビ人(祭司を補助する神殿の職員)もユダヤ人でした。彼らは宗教的な指導者であるにもかかわらず、同胞のユダヤ人を助けるどころか、見殺しにしたのです。ところが、サマリア人だけが、普段差別され、嫌われていたにもかかわらず、ユダヤ人である被害者を助け、介抱し、宿屋の料金まで支払ったのです。
 私はこの話を聞くと、ある話を思い出します。それは、プール学院の生徒に戦争中に起こった出来事です。1945年(昭和20年)6月7日に、当時聖泉高等女学校と言っていたプール学院の先輩たちは、学徒勤労動員で田辺製薬や敷島紡績に行っていました。当時は、男子学生は特攻隊などへ動員され、女子学生は勤労動員ということで毎日工場へ行っていたのです。その日、空襲が始まりました。旭区の淀川沿いにあった敷島紡績の工場にもB29から爆弾が落とされました。淀川の河川敷に逃げた先輩たちのすぐそばに、大きな爆弾が落ちました。直接吹き飛ばされた人もいます。爆弾の衝撃で5,6度抛り上げられ、たたきつけられた人もいます。その中で、1人の教師と6人の生徒が命を失いました。命をとりとめた人も、ひどい怪我をした人がたくさんいました。その中の1人の方(小野田せつ子)は、気付くと目の前の地面に大きな穴があいていて、自分は、幾度も地面にたたき付けられて、骨折やら打撲やらであちこちが痛い。口の中は泥でいっぱい、叫びようにも叫べない。悲惨な状態だったのです。そんなとき、ふと隣を見ると、韓国人の若い女性が横たわっていました。明らかに命はないようでした。そしてその隣で、そのお母さんと思われる女性が、泣いておられたのです。でも、そのお母さんは日本人の小野田さんに気付くと、自分の娘の死体は横に置いて、すぐに大けがをしている小野田さんのもとに駆けつけてくれました。そして、口の中から泥を出し、優しく介抱してくれたそうです。小野田さんは現在すでに70代、助けてくれたその韓国人のお母さんに一度でいいからお礼を言いたいのですが、きっと、もう亡くなっておられるだろう、それが心残りだと仰っておられます。
 私はこの話を聞いて、とても心を動かされました。戦争の悲しさだけでなく、韓国人のお母さんの優しい行為に心を動かされたからです。戦争前や戦争中に韓国の人が日本で経験された苦労は言葉には言い尽くせないほどのものだったと思います。ひどい差別があったからです。そんな思いを乗り越えて、とっさの場面でこのお母さんは人間として1人の女学生にためらうことなく手を差し伸べたのです。自分の娘がすぐ隣で命を失っているにもかかわらず、命のある日本人の女学生を必死になって介抱してくれたこの女性の行為は、Aさんの心の中に、そしてその話を聞いた多くの人々の心に生き続けると思います。日本人の側からでなく、民族差別を受けていた人の側から、国境や民族の違いの壁が打ち破られたのです。
 さて、このお話の大切なもう一つのポイントがあります。それはイエス・キリストが、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と尋ね、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言っている点です。私たちは初めから隣人なのではありません。隣に住んでいるから、同じ民族だから隣人なのではありません。私たちは「隣人になる」のです。具体的な行動によってのみ、苦しんでいる人、助けを求めている人の友になることができるのです。助けを求めている人。そんな人が私たちの周りにいるのでしょうか。無関心が支配しているところでは、お互いの苦しみや悩みになかなか気がつきません。でも、実は私たちの周りにも助けを求めている人々がたくさんいるのではないでしょうか。最近日本では自分の命を絶つ人がたくさんいるのですが、誰かがちょっと手を差し伸べ、耳を傾けていたら、生き続ける勇気が出てきたかもしれません。民族的な差別だけでなく、私たちの心や周りの状況には、人と人が連帯する、支え合うことを阻害するものがたくさんあります。いわば、国境が1人ひとりの身の回りにあるということです。それを乗り越えなければならない。その力の源は、貧しく差別され抑圧されていた人々に限りない愛を注いでくださったイエス・キリストの福音です。聖書のみ言葉です。
 本日の旧約聖書には、本当にすてきな言葉があります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」神さまの言葉、そのみ旨は、私たち人間の思いを遙かに超えています。しかし、神さまは私たちに実行できないことをお求めにはならないのだと思います。その少し前には、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」それは天にあるのでも、海の彼方にあるのでもない、と記されています。実は神の言葉は私たちの心の中に刻まれているのではないでしょうか。金曜日と土曜日、高野山で全国の大学チャプレン会という集まりがあり、そこで真言宗の有名なお坊さんのお話を伺ったのですが、弘法大師空海の言葉に「夫れ仏法遙かに非ず。心中にして即ち近し。」というのがあるそうです。真理は実はわたしたちのすぐ近くにあるという意味です。神の似姿として造られた人間には、神さまの御心を知る能力が与えられています。ただ、普段はさまざまな人間的な思い(罪)によって、それを知ることができなくされているのです。本日の使徒書にも心を向けたいと思います。コロサイの信徒への手紙1章9節から10節には「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」とあります。これは、コロサイの信徒に対するパウロの願いです。私たちは、祈りによって、聖霊の働きによって、普段曇らされている心の目を開くことができます。どうか、私たちの心が開かれ、互いに友となり、隣人となることができますように。
 最後に、一つお願いがあります。大阪には、聖公会生野センターというNPO法人があります。生野区には16万人の区民の内約4万人が在日韓国・朝鮮人で、国籍がなく、在日外国人であるがためのさまざまな困難を抱えて生活しておられます。そんな中で活動をするため、聖公会生野センターは、***年に設立され、日本人と在日韓国・朝鮮人とが本当に支え合って共に生きることができる社会を目指して活動しています。現在の主な活動としては、韓国語教室の他に、「のりばん」という在日一世のおばあさんたちのためのデイサービス(彼女たちにとっては母国語で遠慮なくおしゃべりができる場所です)、地域の知的障害者(日本人を含む)のためのデイサービス、知的障害をもつ子供たちのための絵画教室「くりんモダン」、地域の人たちの楽しみである「小径寄席」、そして機関誌『ウルリム』の発行などです。また、地域で精神障害を持っておられる人々のための作業所HITにも関わっています。在日の方たちが抱えておられる困難のなかに、経済的な問題や権利の他に、心の病があります。自分は韓国人なのか、それとも日本人なのか。そういう民族的アイデンティティが揺らいでいる状況の中で、不安とストレスが重なります。それが原因となって、心を病んでいく、ということがあるわけです。生野センターの活動の中に障害者に対するサポートが多いのはそういう理由からです。ですから、生野センターの活動は、教会の地域に対する奉仕と社会宣教の一部だということができます。大阪教区という大きな教会の一部なのです。ところが、その一体感が今は欠けているように思えます。生野センターが何をしているのか、よく分からないというお声を耳にします。十分に分かる形で知らせてこなかったかもしれないセンターの側、またわたしたち教役者の側にも責任はあります。どうか、まず心をお寄せください。教会と共に歩む働きとしてご理解をいただきたいと思います。
 
<祈り>
恵みに富みたもう主よ。み子イエス・キリストは良いサマリア人の譬えによって、わたしたちが民族対立やさまざまな壁を乗り越え、互いに隣り人として愛し合うこと、具体的な行動を通じて「隣人になる」ことの大切さを教えられました。どうか、聖霊の働きによってわたしたが人間関係、そして神様、あなたとの関係を阻害する力に打ち勝つことができるようにしてください。