2006/11/5 諸聖徒日・逝去者記念礼拝
旧約(続編):シラ書44:1-10,13-14
使徒書:ヨハネの黙示録7:2-4,9-17
福音書:マタイによる福音書5:1-12
時と永遠
毎年11月1日は「諸聖徒日(諸聖人の日)」として、これまでのキリスト教会の歴史の中で「聖人」と呼ばれるすべての人を記念する特別な礼拝がもたれます。8世紀ぐらいからそのような礼拝が守られてきました。その翌日の11月2日は「諸魂日」ということで、すべての逝去者を記念する礼拝がもたれるのですが、伝統的に聖公会では11月1日に、「聖人」と呼ばれる人々だけでなく、イエス・キリストを信じて世を去ったすべての人を記念する礼拝を持っています。そこでこの教会でも、毎年、教会に連なるすべての逝去者を憶え、その魂の平安を祈るために、11月1日の前後の日曜日に、その日を「諸聖徒日」として特別な礼拝を共にしているわけです。
本日の使徒書では、普段あまり読まれないヨハネ黙示録が読まれています。この書物はヨハネと呼ばれる使徒の一人が聖霊に導かれて見た幻(ビジョン)を記したものなので、事情がよく分からないととても理解しづらいものだと言えるでしょう。しかし、その執筆の目的ははっきりしていて、当時激しくなっていたキリスト教迫害のもとで苦しんでいた信徒たちを励まし、明るい希望を持たせるために書かれたものです。その中に、「白い衣を着た大群衆」と言われる人々が出てまいります。この前のところでは、「刻印を押されたイスラエルの子ら」と呼ばれる人々が登場していまして、これらの選ばれた人々の数は14万4000人であると記されています。14万4000人というのは、イスラエルの12部族にそれぞれ1万2000人ずつがいる。合わせて12X12000=144000人という数字になるわけです。ここで言われているイスラエルの12部族というのは、旧約聖書の12部族に由来しているのですが、実は新しいイスラエル、つまり神の民である教会を表しています。そこにはイスラエル民族であるか異邦人、つまりイスラエル以外の民族であるかという差別はありません。キリスト教に近いあるグループはこの「14万4000人」という数字を文字通りに受け取り、この中に含まれる人だけが救われる、だから自分たちの仲間に入りなさいと主張して布教活動をしているところもありますが、これは決して救われる人々の数を限定しようということではなくて、迫害の中で信仰を守り通した人々に特別の恵みと祝福が与えられるということを言っているわけです。そして、さらにそれ以外にも「白い衣を着た大群衆」がいるのです。先ほど歌っていただきました讃美歌第二編136番には「われきけり、<みかむりとましろき衣をつけ、主をほむる民あり>と」という歌詞がありましたが、それはまさに、この「白い衣を着た大群衆」のことを言っているのです。彼らは自分たちの信仰を守り通して殉教した人々のことなのですが、私は、それは殉教者だけではないと考えています。イエスさまをキリストと信じ、その教えに従って生きたすべての人々、私たちの信仰の先輩たちすべてを表していると思います。
私たちは今日、この堺聖テモテ教会に連なるすべての逝去者を記念して礼拝をしています。どうぞ一人一人の逝去者を思い起こしてください。数十年前に亡くなった方、つい最近亡くなった方、親や親族の方、教会の兄弟姉妹たち。あの方たちもみな、私たちと共に神を賛美しているのです。よく私は申し上げるのですが、ある意味でこの礼拝は、すべての逝去者と共に神さまに献げる礼拝であろうと思います。私たちは今、この世に生を受けて、毎日毎日を忙しく、あるいはゆったりと暮らしています。そして、逝去者の方々は、私たちと「死」によって切り離され、遠くに行ってしまわれたようでもあります。しかし、生きている私たちと、逝去者とはそれほどきっぱりと分かたれているのでしょうか。どこかでずっとつながっている、そんな感じをお持ちにはならないでしょうか。
私は最近、ビデオを借りて『博士の愛した数式』という映画を見ました。小川洋子さんという作家の原作によるもので、「博士」と呼ばれる不思議な人物と一人の家政婦、そしてその息子との物語です。私はこの映画の中に「永遠と時間」というテーマが隠されているように感じました。主人公の「博士」と言われる人物は、交通事故である時点からの記憶を失い、新しく出会った事柄についての記憶は80分しか続かないという一種の記憶喪失に陥っています。しかし、彼は数学の天才で、数や図形に関しては驚くような才能と直感を有しています。その博士の身の回りの世話をするために派遣された家政婦さんには、10歳になる男の子がいました。ずっとお母さん一人で育ててきた子どもです。博士はこの子どもを可愛がり、頭のてっぺんが平らだというのでその形から「ルート」というニックネームをつけます。「ルート」にはすべての数を包み込むという意味もあるようです。博士は、家政婦の女性とルートにいろいろと数学のことについて分かりやすく話しをしてくれます。ある日、ルートが野球の練習中に事故にあったとき、博士は病院の廊下でルートの母に一枚の紙の上に一本の直線を書かせます。正確には両端がある有限な線なので「線分」ですね。そして、こう言うのです。これは両端が切れているけれど、本当の直線はずっと続いている。無限にどこまでも続いている。決してとぎれることなく、続いている。時間で言えば、ずっと過去に、そうしてまだ見えない未来にずっと続いている。しかし、私たちの体力(あるいは命)には限界があるので、私たちは、とりあえずの線分を本物の直線だと了解しあっているのだ。そして、永遠の真実は目に見えない。しかしそれが目に見える世界を支えているのだと、博士は言うのです。私はこのとき、この映画のテーマは時間と永遠の関係だと思ったのです。博士は80分しか記憶が続かない、それは80分の時間を生きているというのと同じなのです。でもその80分の間にルートとお母さん、そして博士は暖かい人格のふれあいを感じます。短い時間を精一杯生きているのです。そして、その短い時間を精一杯生きることを可能にしたのは、博士と家政婦、そしてルートのお互いの「優しさ」、相手を思いやる心だったのではないかと思います。私たちも有限の時間を生きていますが、その時間は「死」という限界を超えて、どこまでもどこまでも続く、永遠の命の世界につながっているのではないだろうか、そんな感じがいたします。
この映画の最後に、ウィリアム・ブレイクというイギリスの詩人の詩が読まれます。
一粒の砂に一つの世界を見
一輪の野の花に一つの天国を見
てのひらに無限を乗せ
一瞬のうちに永遠を感じる
これは私たちの時間と永遠の時間との関係、つまり、はかないこの世の生と永遠の命の関係を見事に描いています。
では一体、何がそのように私たちに永遠の世界を垣間見せてくれるのでしょうか。今日の福音書に「山上の説教」が取り上げられているのは、偶然ではありません。「心の貧しい人々は、幸いである。」という有名なみ言葉に耳を傾けましょう。「心が貧しい」という表現は分かりにくく、様々な解釈があり得ます(これに対して、ルカ福音書の方は「貧しい人々は幸いである」と端的に言っています)。しかし、これを「心で何か大切なものを求めている人」「謙虚で常に神に何かを祈っている人」と考えると、私たちの生き方にとって重要なことを教えているように思えます。私たちは辛く、悲しいとき、必死になって神に祈ります。そして、私たちが真剣に神に祈るとき、またイエスさまの呼びかけに答えるとき、永遠の命がそこに見えてきている、と言えないでしょうか。あるいはルカ福音書のように端的に貧しい人々もそうでしょう。贅沢は言わない、今日一日の糧をお与え下さい、そう祈るとき、求めている以上の豊かな恵みが与えられるのではないでしょうか。「命がけ」という言葉がありますが、自分の命をかけて神さまに祈るとき、永遠の命はすでに始まっているのです。「悲しむ人々は幸いである。」私たちは肉親を失い、大切な人を失ったとき、そのような喪失体験をしたとき、実は、神さまは永遠の命を垣間見せてくださいます。ある、51年も共に幸福な結婚生活を送った奥さんを亡くした方(フランス人ですが)は、次のように語っておられます。
「今度の経験から分かったことは、永遠の生は死の後に始まるものではなく、もう現在からすでにわれわれはその生を生きているのだということです。ただそれは日常の些事で隠されていて、おそらく死と接触したときにのみ、われわれにはそれが分かるのです。神は死んだ者の神ではなくて、生きている者の神です。なぜなら神にとっては人間はすべて生きているからです。だから驚くべきことに、私は悲しみの中にもつよい喜びを感じているのです。」
さらに、「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」それは、まさに私たちが清らかな心で人々に接するとき、永遠の世界に招き入れられるということを教えています。神を見るとは、永遠に触れることです。このように「山上の説教」は、私たちの生活のただ中に、永遠との接点を作ることを教えているのです。
私たちは普段、死というものをあまり意識しません。しかし、大切な人の死に直面したとき、人間の死と生の問題を考えざるを得なくなります。聖書は「アダムによってすべての人が死ぬようになった」と教えています。つまり人間は死に向かう有限な存在だということです。人間は生まれたときから、死に向かって生きている、死の影を歩んでいると言っても良いでしょう。しかし同時に、聖書はこうも教えています。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」 死は、私たちを神の前に立たせてくれます。そして、そのことによって神さまとの対話が実現します。そういう意味では、神と共に生きることは、すでに神の永遠の命の中に包み込まれているということができるでしょう。復活による永遠の命とは、私たちがこの世で手にすることはできないものですが、私たちはキリストの声にみ身を傾け、神さまの前に立つとき、ある意味で永遠の生はこの世においてすでに始まっているのです。そのとき、私たちは自らの有限性を受け入れることができます。つまり、永遠の直線の一部である線分に過ぎないとしても、どこまでも続く直線の一部を確かになしているのだということを確信できるのです。
ちょっと理屈っぽい話になりましたが、『博士の愛した数式』という映画を見て、そんなことを考えました。私たちの一生は短く、限られた時間です。しかし、信仰を持って生きるとき、永遠の世界はすでに私たちの前に開けているのです。たった一度の人生です。一瞬、一瞬を神によって生かされ、精一杯生きていきたいと思います。