2008/4/27 復活節第6主日
 
使徒言行録:17:22-31
使徒書:ペトロの手紙一 3:8-18
福音書:ヨハネによる福音書15:1-8
 
非キリスト者への通路
 
 今から450年以上前に日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルは、一つの難問に直面しました。出会った日本人が彼に尋ねたのです。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということでした。つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか…。当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけたわけです。ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」。現代においても、わたしたちは絶えずこのような問題に突き当たります。自分だけがクリスチャンだけれども、家族はどうなるのか。親や祖父母の供養はどうすればよいのか。これは大変切実な問題です。
 今から2000年前、パウロが地中海世界に宣教を始めたとき、キリスト教はユダヤ教だけでなく、多種多様な宗教に取り囲まれていました。そのような中で、教会は殉教を恐れず「戦う教会」となってキリスト教を広め、また、その生活と信仰の模範によって多くの改宗者を獲得していきました。復活節第3主日に読まれた使徒言行録では、一日に3000人もの人々が洗礼を受け、教会の群れに加えられたと書かれています。しかし、教会はただ異教を敵視して戦うだけではありませんでした。対話によって、何とか相手を納得させようとする努力をしました。キリスト教神学はそのような努力の中から生まれたということができるでしょう。本日の使徒言行録で、パウロはアテネの人々に、何とか天地の造り主である神を説明しようとしています。当時のアテネには、オリンポスの神々を祀る多神教の宗教が存在していましたが、同時に、世界の根源や成り立ち、命の源を探求しようとする新しい考えが生まれていました。エピクロス派とかストア派と呼ばれる哲学者たちもそうでした。それは使徒言行録の17:18に名前が挙がっています。もっと深い思想を持ち、神を探求していたプラトン派の人々もいました。パウロはそのような人々に論争を挑むのです。パウロが用いたのは、「知られざる神に」と刻まれている祭壇でした。そこでパウロは、この「知られざる神」というのは、実は天地万物を創造され、すべての人に命を与える真の神、ヤハウェであると主張します。そしてギリシア人も知らず知らずのうちに、真の神を礼拝しているのだ、だから、自覚的に真の神を知り、イエス・キリストを知って改宗しなさいと呼びかけたわけです。さらに、「皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っている。」とも言います。この前の方の「神の中に生き、動き、存在する」というのは誰の言葉かは分かりませんが、後ろの方の「われわれは神の子孫である」というのは、紀元前270年頃のギリシアの新人アラトスの『ゼウス賛歌』にあるそうです。パウロはギリシア人もユダヤ人も、キリスト者もみな神の子であるのだから神によって愛されている、だから悔い改めなさいと言うのです。アレオパゴスでのパウロの説教は、あまり成功はしませんでした。しかし、少なくとも、キリスト者以外の真面目な人々との対話の余地、いわば通路のようなものを残してくれたということができないでしょうか。
 「知られざる神に」という考え方を、神学として整理し、はっきりした形で提起したのがカール・ラーナーという20世紀のカトリック神学者です。ラーナーはカトリックの大転換を成し遂げた第二バチカン公会議において大きな影響力を発揮した人ですが、彼の主張の中に「無名の(匿名の)キリスト者」という考え方があります。仏教徒であろうとイスラム教徒であろうとヒンズー教徒であろうと、真面目に生活し、敬虔な思いを持った信仰者がいるはずだ。そのような人々は、キリスト者であるとは自覚してはいないけれども、キリスト者であると考えることができるのではないか、という考え方です。ですから、それによれば、ガンジーも、良寛も、場合によっては弘法大師も親鸞上人も、「無名のキリスト者」ということになるわけです。この考え方が正しいかどうかは分かりません。「厚かましすぎる」という批判もありますし、「それではキリスト教の絶対的な正しさはどこへ行くのか」という反論もあります。しかし、少なくとも他の信仰を持った真面目な人々との対話の道を開いたという大きな意義を認めることができると思います。使徒言行録にはしばしば「神を畏れる方々」という言葉が出てきます。これは、事実上ユダヤ教の教義と倫理を受け入れていながらまだ割礼を受けていない異邦人を指します。このような人々をも、パウロはキリストの福音を受け入れる大きな可能性を持った人々と見なしていました。
 古代からも、イエス・キリストを知らずして亡くなった人々の救いの可能性についてさまざまに論じられてきました。すべての教会が一致して認めてきた使徒信経の中に「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。」という部分があります。この中の「陰府に下り」というのはどういう意味でしょうか。ある人々は、死後すべての人は「陰府」という地下の世界に行き、そこで最後の審判を待つのだと考えました。イエス・キリストは十字架にかかられた後、その世界に行き、イエスさまを知らない死者をも救われたのだというのです。それが発展して後にカトリックの「煉獄」という思想になりました。この「煉獄」は宗教改革によって否定されましたが、それでもなお、この「陰府に下り」は時間と場所を越えて、あらゆる人々を救いの対象にするイエス・キリストの福音を表していると考えることができるのです。
 では、わたしたちがイエスさまのことを信じ、洗礼を受け、クリスチャンになったのはどういう意味があるのでしょうか。イエスさまの方から「陰府」にまで救いに来てくださるのなら、ただおもしろおかしく暮らして、ちょっぴり悪いこともして、死んでからイエスさまを待てばよいのではないか。そんな、考えが出てくるかも知れません。しかし、信仰とはそんなものでしょうか。ただの天国への切符なのでしょうか。そうではないと思います。わたしたちがイエスさまを知り、信仰へと決断することによって得られる恵みは、それよりも何倍も、何十倍も豊かなものではないでしょうか。本日の福音書でありますヨハネ福音書は、そのことを豊かな譬えによって描いています。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」いかがでしょうか。わたしたちは、イエスさまを知り、そのみ跡に従う決心をし、教会につながることで、神さまによって豊かな栄養分を受け、豊かにされ、たくさんの実を結ぶことができるのです。いや、すでに、豊かにされているのです。長い人生の中で、また毎日の生活の中で、その恵みに気づくことができるのです。神の恵みに気づかない人は不幸です。毎日を不平と不満だけで過ごすのです。最近のさまざまな凶悪事件の背景に潜む心象風景を考えますと、本当に、殺伐とした恨みと妬み、愛の欠如を感じないでしょうか。それはすでに地獄です。そのような中で、わたしたちは、今すでにイエスさまの愛によって救われているということができます。心の平安と真の意味で豊かな生活を送ることができます。それは無意味なことでしょうか。そのような愛を世に広めて行くことは無意味なことでしょうか。
 何度もお話をしたことがありますが、わたしはずいぶん長い間教会を離れていたことがありました。そのわたしを教会へと再び招き寄せたのがこのみ言葉でした。「わたしはブドウの木である。わたしにつながっていなさい。」ずっと自分では、イエス・キリストを信じ、自分なりの信仰を持っていたつもりでしたが、共に歩む仲間、神の家族につながっていなければ実を結ぶことができないことに気づいたのです。独りよがりの思いこみではなく、教会という共同体の中で育む信仰こそが、恵みの源であると気づいたのです。わたしたちはしっかりとブドウの木につながることによって、日々の生活の中で恵みを受けることができます。しっかりとした根を持つことによって、他の信仰を持つ人々に対しても、神さまの恵みを伝えることができるし、また、真面目な信仰を持っておられる方を尊重し、敬意を払い、協力することさえできるのだと思います。その中で、相手もまたキリスト教の真理に触れることができるのではないでしょうか。
 
<祈り>
 天におられ、いつも豊かな恵みをお与え下さいます神さま、感謝いたします。私たちはみ子イエス・キリストが示された真理を知らされています。そしてそのことによって限りない恵みと喜びとを与えられています。どうかわたしたちが、まことのブドウの木であるイエスさまにつながり、しっかりとした信仰によって日々感謝のうちに生きることができますように、また、そのことによって他の信仰を持った人々とも互いに尊重し合い、対話のうちに協力し合い、やがては同じ信仰に生きることができるようにしてください。