2008/3/23 復活日
 
使徒言行録:10:34-43
使徒書:コロサイの信徒への手紙 3:1-4
マタイによる福音書 28:1-10
 
復活の喜び
 
 みなさん、主イエス・キリストのご復活おめでとうございます。共にその喜びを分かち合いたいと思います。
 先週一週間、「聖週」の間に、教会の兄弟姉妹と共に毎日、礼拝を献げることができたことを本当に感謝いたします。昨年までは、プール学院中高のフルタイムチャプレンと兼任ということもあって、聖週の礼拝は聖木曜日だけにさせていただいておりましたが、今年は毎日の礼拝をさせていただき、大きな恵みをいただきました。ただ、とくにご高齢の方々にはご負担をおかけしたのではないかと、心配しております。
 さて、イエス・キリストの復活とはどういう出来事だったのでしょうか。現代の科学的常識から考えると、それは信じがたい出来事であったでしょう。しかし、復活という出来事がなければ、わたしたちの信仰であるキリスト教はあり得なかったでしょう。パウロは次のように教えています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(コリントの信徒への手紙一15章)
 今日は旧約聖書の代わりに使徒言行録が読まれました。その中で、復活の証人となったイエスの弟子たちが、その経験に基づいて力強く宣教に邁進する様子が生き生きと記されています。使徒言行録は、まさに聖霊に導かれた使徒たちの証しの記録なのです。私はいつも不思議に思うのですが、なぜ弟子たちがこのように大胆にイエスさまを宣べ伝え、命を抛ってまで、イエスさまに従おうとしたのでしょうか。イエスさまが十字架刑につけられたとき、恐怖のあまり、三度までイエスさまを知らないと言い張ったペトロ。蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった弟子たち。絶望のあまり故郷のガリラヤまで帰り、漁師に戻ってしまった弟子たち。それが彼らの出発点だったのです。女性たちは最後の最後までイエスさまの死を見守ったのに対して、男性の弟子たちは誠に情けない有様でした。まるで蜘蛛の子を散らすように、イエスさまの処刑の現場から逃げ去ったのでした。ただ、弟子のヨハネだけが踏みとどまったようです。
 イエスさまの復活に関する4つの福音書の証言は、微妙な違いがあるのですが、その中で共通して指摘されているのは、女性たちが真っ先に復活の証人となったということです。復活日の朝、準備していた香油をイエスさまの遺体に塗って差し上げようとして、まだ暗いうちにお墓に行き、お墓が空であるという事実を発見したのも女性たちでした。マタイ福音書によると、マグダラのマリアともう一人のマリア(このマリアが誰なのかははっきりしません)、マルコ福音書によるとマグダラのマリアとヤコブの母マリア(これにも諸説があります)、そしてサロメという三人の女性が、空の墓の証人となります。ルカ福音書では、ヨハナという女性の名前もみられます。これらの女性たちは、危険をも顧みず、イエスさまのお体に香油を塗って差し上げようと明け方にお墓に急いだのです。女性たちが最初の証人であったということは二つの意味で重要なことだと思います。一つは、社会の中で二重、三重に抑圧された女性たちの必死の思い、熱烈な信仰がそこに現れているということです。そしてもう一つは、聖書の証言が決して作り話ではないということです。女性たちは当時、一人前の人格とは認められず、子どもたちと同様に証言能力がないとされていました。ルカ福音書にも「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と書かれているのは当時の女性蔑視の表れでもあるわけです。その女性たちを証人として登場させているのは、逆に言えば、それだけの真実がそこにはあるということです。人々を信じさせるための作り話であれば、男性の証人を登場させるはずだからです。
 すべての福音書に共通しているもう一つの記述は、女性たちが墓についたとき、墓は空であったということです。これに対しては古来、様々な反論や合理的な説明があって、ユダヤ人たちは弟子がイエスさまの遺体を盗み出したのだと言い(だからそれを防ぐために神殿の番兵が見張りをしていたのですが)、中には、彼女たちはお墓を間違えたのだという説まであるのです。しかし、イエスさまを葬った彼女たち、しかも、神殿の番兵までもが見張っているお墓を間違えるはずはありません。いずれにせよ、人間には理解できない、不思議な、神的な出来事が起こったとしか言いようがないのです。ともかく、イエスさまのお体はなかったのです。ですから、女性たちは怯えました。マルコ福音書にはその様子が正直に記されています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」マタイ福音書は、女性たちが恐れだけでなく喜びに満たされたと記されています。恐れを抱いたのはなぜでしょうか。それは、わたしたちにとって理解を超えた神的な出来事に直面したからです。自分の経験によって理解できない人や出来事に出会うときのわたしたちの最初の反応は恐怖です。しかし、その恐怖を乗り越え、事態を受け入れる人と、拒絶してしまう人とがいます。拒絶は差別と憎悪につながり、場合によっては相手の抹殺につながります。聖書の女性たちは、生前のイエスさまに対する愛から、この恐ろしい事態を喜びをもって受け入れることができたのです。
 男性の弟子たちが、イエスさまの復活という事態を受け入れるためには、復活されたイエスさまご自身が幾度となく弟子たちの前に現れなければなりませんでした。ヨハネ福音書20章19節には、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」と書かれています。弟子たちは、復活のイエスさまに出会って、やっと信じることができました。しかし、それでも信じない弟子がいました。トマスです。トマスは最初にイエスさまが現れた現場には居合わせなかったため、イエスさまは8日後に再び弟子たちのところに現れ、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」そのとき、トマスは振り絞るような声で、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。しかし、イエスさまはこう言われるのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」「見ずして信じる者は幸いなり」この言葉は、「信じる」ことの根本を現しているように思います。ヘブライ人への手紙には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と書いてあります。弟子たちは、見て信じましたが、イエスさまが昇天されてからは、再び肉の目で見ることはありませんでした。しかし、彼らは、聖霊を受けて、聖霊の助けによって、見えないキリストを信じることができるようになったのです。
 聖書の証言には、もう一つ大切なメッセージが含まれています。それは、天のみ使いが「あの方は、ここにはおられない。あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と告げたということです。ガリラヤ。それはイエスさまと弟子たちの生活の現場であり、宣教の現場でした。イエスさまは、弟子たちの生活と宣教の現場にこそ共におられる。昇天された後も、聖霊がともにいてくださる。それが、このメッセージです。『千の風』がヒットいたしました。その初めは「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません。」という言葉ですが、それよりも2000年前に、聖書は真理を語っています。ルカ福音書には、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」というみ使いの言葉が記されています。復活されたイエスさまは、目には見えないけれど、わたしたちが生き、生活し、苦しみ、悩み、喜び、その中で祈るとき、いつも共におられるのです。
 わたしたちは、なかなか信じることができない弟子たちを笑うことはできません。わたしたちは情けない弟子たちと同じ状態にいるからです。目に見えるしるしを求め、お墓の中に復活の証拠を見つけようとしているのではないでしょうか。そうではなく、わたしたちの生活の現場で、復活のイエスさまと出会わなければならないのだと思います。そのことによってわたしたちは変えられる。弟子たちと同じように、信じる者に変えられるのです。畑野寿子さんのことは、以前ご紹介したことがありますが、畑野さんはこれまで5人の受刑者と関わってこられました。その最初の方が、久田徳造さんという方です。彼は、尼崎市で生まれ、ごく幼い頃に両親と別れ、福祉施設に入ったり養父母の元で生活をしていました。小学校も2年生までしか行けず、そのうち犯罪を積み重ねるようになり、ついに自分の死をもって償わなければならないような罪を犯してしまいます。そして29歳の時に死刑が確定します。彼は形の執行のことを思うと獄中をのたうち回るほどの苦しみを覚えました。しかし、そうしたときにイエス・キリストの福音に接し、信仰によって新しい人ととして生まれ変わったのです。そして、6年後、35歳の時に刑が執行されます。その前の夜、彼は床につかず、様々な人に感謝告別の言葉を書き続け、翌朝、係官たちに感謝の言葉を述べて、足取りも確かに行くべきところへと上っていったと、小池主教の紹介文には記されています。
 その久田さんが、畑野さんに書き送った手紙の一部を紹介します。
 
 さて、今日この後、幼児洗礼式とカトリックからの入会式が行われます。洗礼には、イエスさまの死と復活に与るという大切な意味があります。古い自分が死に、新しい人として生まれ変わるのです。幼児洗礼の場合、それはご両親や教父母、家族にとっても新しい出発となります。洗礼を受けた子どもたちは、ご両親の子どもであるだけでなく、神さまの子ども、神の家族の一員となります。その子どもを教会の生活、また日ごとの生活の中で導き育てるのは両親、家族、教父母の務めです。ですから、ご両親、家族、教父母もまた、新たに主の死と復活に与ることになるのです。どうか、そのことをお覚えいただきたいと思います。
 
<祈り>
恵み深い天の神さま。み子イエス・キリストは今から2000年前に十字架につけられ、今日、この主の日に復活なさいました。それはあなたが、貧しく苦しむ人々と共に歩まれたみ子イエスさまの生涯を祝福し、全面的に肯定され、苦しみ悩む人々をその復活に与らせるためでした。わたしたちは、この世の価値観に左右され、そのご復活をなかなか信じることができません。しかし、主よ、あなたは聖霊によってわたしたちに目には見えないキリストの臨在を悟る力をお与え下さいます。どうか、最後には主を信じ、その宣教のみ業に命をなげうった使徒たちのように、わたしたちも、み子イエス・キリストの弟子として主の死と復活に与り、絶望の中に希望を見いだし、苦しみの中から立ち上がり、力強く生きていくことができるようにお導き下さい。