2007/1/14 顕現後第2主日
 
旧約聖書:イザヤ書 62:1-5
使徒書:コリントの信徒への手紙一 12:1-11
ヨハネによる福音書2:1-11
 
極上のぶどう酒
 
 皆様はおそらくいくつかの結婚式やその披露宴に招かれたことがおありになるでしょう。お子様の結婚式やご親戚の結婚式、あるいは教会での聖婚式です。私も、自分の息子の結婚式はまだですが、友人や親類の結婚式に招かれたことはありますし、牧師になってからは、阪本さんや田村さん、そして林さん(黒田さん)の婚宴に招かれました。結婚式とそれに続く婚宴は、ご当人にとってはもちろん、ご家族や親戚にとってもこの上もない喜びのときだと思います。しかめ面をして出席されている方は誰もいません。どの顔も喜びと満足に満ちています。
 今日のヨハネ福音書では、イエスさまがカナの村で婚宴に招かれています。村で行われる婚宴は、共同体の一種のお祭りで、村の誰もが招待されたようです。イエスさまとその家族や弟子たちも招かれていました。そこでは、賑わいだ喜びの雰囲気が溢れていました。ところがその宴会の途中で、肝心の葡萄酒がなくなってしまったというのです。大変です。その場にいたイエスさまのお母さんのマリアが心配して、「葡萄酒がなくなった」と息子のイエスに相談します。すると、そこにあった6つの水瓶に入っていた水を、イエスさまが極上の葡萄酒に変えてくださった、というのがこのカナの婚宴での奇蹟のあらましです。この物語が顕現節に取り上げられるのは、イエスさまが人々の前で初めて神の子としての力の徴をお示しになったからです。もう一つは、イエスさまが共におられるというのは、婚宴の喜びに譬えられるから、ということがありそうです。イエス・キリストとともに生き、ともに神の恵みに与るという、きわめて希な機会に弟子たちは恵まれていたのですから、その喜びはいかばかりだったでしょう。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」(マタイ9:15)とイエスさまご自身が語っておられます。そして、その思いは初代教会の人々も共有していたようで、イエスさまと教会の関係はよく花婿と花嫁の関係に譬えられています。ですから、地上におられたイエスさまであれ、復活のキリストであれ、その臨在に触れるということは、私たちにとって本当に大きな喜びなのです。しかも、ヨハネ福音書にカナの婚宴のお話が登場しているのには、実はもう一つの意味があります。それは、イエス・キリストの業によって古いユダヤ教が克服され、新しい福音の喜びがもたらされたということです。石の水瓶というのは、「ユダヤ人が清めに用いる水瓶」と書かれています。つまりそれは、ユダヤ教の象徴です。その中の水をイエスさまが極上のぶどう酒に変えられたというのは、ユダヤ教では到達できなかった神の食卓の喜びをイエスさまがもたらしたくださった、ということを表しているのです。
 しかし、今日私たちは、その喜びはもたらされるまでには少し時間がかかったということに着目したいと思うのです。はじめ、母マリアがイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言ったとき、イエスさまの答えはどうだったでしょうか。それは「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私のときはまだ来ていません。」というものでした。「私とどんな関わりがあるのです。」これは、「私には関係ない」という一種の拒絶のようにも聞こえます。「私のときはまだ来ていません」というのも、「まだ私の出る幕ではない。」という意味にも聞こえます。しかも、「婦人よ」という言い方も、冷たく、よそよそしいではありませんか。普通なら、ここで、あきらめるところでしょう。協力を拒まれたのですから。しかし、マリアはあきらめませんでした。というよりは、イエスさまに絶対の信頼を持っていました。ですから、召使いに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と言ったのではないでしょうか。きっと、イエスさまは何とかしてくれる、という絶対の信頼です。あきらめずに求める、ということでは、イエスさまはこんなお話もしておられます(ルカ11:5)。ある人が不意の来客に、もてなすパンが何もない。そこで、友人の家に行って「パンを貸してください」と頼むのです。しかし、その友人は「面倒をかけるな。もう夜も遅いし、子どもたちも寝てしまったし。」それは聰かな拒絶です。しかし、イエスさまはこう言うのです。「執拗に頼めば、起きてきて必要なものを与えるだろう。」と。そしてそのあとに、有名なみ言葉が語られます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 私たちはどうでしょうか。私たちが何かを願ったとしても、それがすぐに叶えられるとは限りません。いやそれどころか、それとはまったく反対の方向に事態が進んでいくということもあるのではないでしょうか。まるで、神さまに私たちの願いが拒絶されている、そんなふうに感じることだってあるのではないかと思います。そんなとき、私たちは神に対する信頼を失います。ときには、神を呪うことだってあるでしょう。イエスさまの約束のことばが嘘のように、信じられなくなります。私は8年前に、二度目の回心をいたしました。つまり、クリスチャンホームに生まれ、幼児洗礼を受けて、青年時代には熱心な教会生活を送っていたのですが、その後ずいぶん長い間教会を離れ、そして再び戻ってきたわけです。教会を離れていたのは本当に長い間でした。自分ではそれなりにキリスト者の道を歩んでいるという自負をもっておりましたけれども、それは自分のみを正しいとして、人を裁く傲慢な態度であるということに思い至り、私の心は打ち砕かれました。そして、神さまが示されたとおり、神の民である教会と共に歩むことを決心したのです。私は勢い込んで母教会に戻り、牧師先生に「聖職を志願します」と申し上げたのです。しかし、教会委員会の審議で、私は推薦を受けることができませんでした。それも当然です。長い間教会から消えていた放蕩息子が突然戻ってきて、「牧師になる」というのですから、私を知っている方は喜んでくださいましたが、知らない方は、「一体何者なんだ」と思われたのも当然でした。しかし、それは私にとっては、やはり、一種の拒絶でした。教会委員会で認められなかったのは当然だと分かりながらも、やはり涙が出てきました。そしてそれから二年間、ひたすら信徒としての務めに励みました。教会委員などの大切なお役目もいただきました。そして、やがて、その時期が私にとって本当に大切な時期であるということがしっかりと分かってきたのです。誠実に、謙虚に、キリスト者としての務めを果たす。それがなければ、なんのための聖職者か。それは、私にとって初めは苦い経験でした。しかしその中で私は本当に大切なものを得ることができたのです。そして、二年後、聖職候補生として神学校に行くことができました。
 この大切な時間。それはある場合には、もっともっと長くかかることもあります。一生かかっても、なかなか叶えられない願いだってあるでしょう。しかし、それでもなお、信頼を神に置きつつ、待つ、そして、神の恵みが何であるかを感じ取る心が必要だと思います。ここに、アメリカの南北戦争のときに書かれたと言われる作者不詳の「ある兵士の詩」があります。
 
大きなことを成し遂げるために神に強さを求めたが、謙虚に従うことを学ぶために弱さを与えられた。
偉大なことができるように健康を求めたが、より良きことができるように病弱を与えられた。
幸福になるために富を求めたが、賢さを得るために貧しさを与えられた。
世の賞賛を得ようと成功を求めたが、傲慢にならないように失敗を与えられた。
人生を楽しもうと全てのものを求めたが、全てのことを感謝することができるように命を与えられた。
私が求めたものは何ひとつ得ることはできなかったが、私の願いはすべてかなえられた。
神に背く私であるにもかかわらず、言葉に言い表せない私の祈りはすべてきかれた。
私は、この世のだれよりも、豊かに祝福されたのだ。
 
 カナの婚宴で、宴会の世話役は花婿に、こんなことを言います。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスさまは、私たちの人生の最後の最後に、極上のぶどう酒を出してくださるのかもしれません。これまでの人生の中で、苦労と悲しみをたっぷりと経験された方もおられると思います。戦争の苦い体験だけでも十分かも知れません。その上に、生活の苦労や子育ての苦労、受験の失敗…。数え上げるだけで、苦しみや悩みの方が、実は楽しみや喜びよりもずっと多いものです。しかし、その苦しみの後に、神さまは最上の喜びを準備してくださっているのではないでしょうか。私たちの人生のすべてを祝福し、豊かな恵みを与えてくださることを、私たちはしっかりと確信したいと思います。
 
<祈り>
 恵み豊かな神さま。あなたのひとり子イエスさまは、2000年前、カナの婚宴において水をぶどう酒に変え、婚宴に参加したすべての人々を祝福してくださいました。私たちは、自分自身の願いが叶えられないように思えるとき、時として、あなたを信じることができず、希望を失いかけることがあります。どうぞ、そのようなときにも、イエスさまが水をぶどう酒に変えられたように、必ず、あなたの恵みが与えられるということを信じることができるように、私たちに強い信仰をお与え下さい。