2006/3/19 大斎節第3主日(B年)
 
旧約聖書:出エジプト記20:1−17
使徒書:ローマの信徒への手紙7:13−25
福音書:ヨハネによる福音書2:13−22
 
罪の囚われ人
 
 「罪」という言葉は、とても理解が難しいものです。同じ「罪人」という字を宛てても、「つみびと」と読むのと「ざいにん」と読ませるのとはずいぶん印象が違います。聖書はこの「罪」という問題をずいぶんと掘り下げ、単に外面的な「犯罪」という意味ではなく、人間のあり方、生き方の問題として私たちに示しているように思われます。19世紀初頭に中国伝道を始めたキリスト教宣教師たちが、「罪人よ、悔い改めよ」と戸別伝道し、「私は何も悪いことはしていない」と猛反発を受け、家から追い出されたという笑えないエピソードが伝わっていますが、ここには、紋切り型に型にはめて「人間はみな罪人」という教えを押しつけようとする宣教師たちの硬直した姿勢と、同時に、「罪」の問題を単に外的な「犯罪」の意味にしか理解しない当時の中国の(そしておそらくは日本の)民衆、つまりわれわれの現実主義というか、物事を深く考えない姿が現れているように思えます。
 では、聖書は、「罪」という問題をどのように捉えているのでしょうか。その代表的な教えを記しているのが本日の使徒書、ローマの信徒への手紙7:13以下です。この聖書箇所の根本に横たわっているのは、自分自身の罪性に対するパウロの強烈な自覚です。おそらくパウロの中には、回心する以前に、ファリサイ派の信仰への熱心さのあまり、正しいこと、神への忠実さの証しと信じてキリスト教徒を迫害する先頭に立っていたことに対する悔悟の念が、回心してからも渦巻いていたのではないかと私は思います。そのような人間の心の中の矛盾、葛藤をパウロはよく知っていたのです。私たちにも、よかれと思ってしたことが人を傷つけ、不幸に陥れたとか、自分では抑えようのない衝動が働いて、してはいけないと知りつつ、人に敵対し、憎んでしまうこともあるのではないでしょうか。今日こそはあの人に謝ろうと思ったのに、顔を見たとたんまたののしりの言葉を吐いてしまった、そんな悲しい経験もおありになるのではないかと思います。パウロは、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」と告白し、人間の弱さ、罪というものが、人間の理性や善意を超えて、コントロールできないものであることをあからさまに語っています。
 具体的な罪の概念は国によって、また時代や文化によって様々に変化します。ある文化では良しとされていた行為が別の文化では罪とされることがあります。特に性の問題や婚姻形態などではそういうことが起こります。しかし、そのような文化や風習に根ざした違いにとらわれていては、罪の本質が見えなくなります。聖書によれば、罪とは自己中心性、エゴイズム、神から離れ、隣人からも心が離れ、自分だけがよければよいという考え方を示しています。また、正しいと分かっていても、自分が可愛いために正しいことを貫けない弱さをも示しています。アダムとエバはエデンの園で神のように賢くなろうとして禁断の木の実を食べました。そして、そのときすでにアダムは「エバがとって与えてくれたので食べた。」と語り、エバは「蛇がだましたので食べた。」と、責任転嫁を図ります。こうして人間は、神との関係を破壊し、自らが神になろうとする道を歩み始めます。同時に、人間同士の対立といがみ合いが始まるのです。人間が神のようになろうとする、そうした人間の野望はバベルの塔でも現れ、今また、宇宙開発や核開発、兵器開発、環境破壊の中に見て取ることができます。神様との関係を破壊するということは、同時に人間同士の関係を破壊するということでもあります。人間が互いに傷つけあい、いがみ合い、争いを続けるということを意味しています。人間の罪とは、そうした人間の現実、悲しさ、醜さを表しています。それは、道徳的な教えや理性だけでは抑えることができない、人間の「性(さが)」なのでしょうか。特に社会の構造に組み込まれてしまった罪、構造的罪は世界の多くの人々を苦しめ、罪もない子どもたちの命を奪っています。
 今から、10年以上前のことですが、アフリカの小さな国ルワンダでの悲惨な殺戮のことを覚えていらっしゃるでしょうか。多数派のフツ(これは部族の名前ですが)によるツチの大量虐殺が行われ、約100日間にい50万人とも80万人とも言われる人々が虐殺されたと報道されています。これには、長い間の両民族の軋轢もあるのですが、ベルギーによる植民地支配が、ツチ族を利用して国を分断支配するという方法をとったのが直接の原因のようです。本来、この2つの部族は言語も同じで仲良く暮らしていたのですが、この国を支配したベルギーは、ツチを「高貴」な民族で、フツは「野蛮」な民族だとする神話を広めて互いに反目させました。そして少数派のツチを支配者として利用したのですが、その中で両者の憎悪が育成され、その後独立の過程で支配民族が入れ替わり、94年には内戦状態の中でフツ出身の大統領が乗った飛行機が撃墜されるということがあり、一挙にフツ族によるツチ族と穏健派のフツ族の大量虐殺が始まったのです。伝えられてくるのは、本当に眼を覆いたくなるような惨状で、まるで何か底知れぬ邪悪な力に操られたように、フツ族の男性は棍棒をもって仕事にでもでかけるようにツチ族を殺しに出かけたといわれています。双方の民族の間で結婚した家庭の場合は悲惨でしたが、たいていは一緒に殺されてしまったといいます。ルワンダではキリスト教が広まっており、国民の77パーセントがクリスチャンといわれる中でこのような悲惨な出来事が起こったことは、本当に心が痛みます。ツチ族が遊牧民族で、フツ族が農耕民族であるということも、カインとアベルの物語を思い出させ、人間の罪はこんなに長い間引き継がれているのかと愕然といたします。しかし、希望もあります。今年の1月14日から、「ホテル・ルワンダ」という映画が公開されています。これは、ルワンダの高級ホテルに勤めていたポール・ルセサバギナという人物を主人公とする実話です。命を狙われていたツチ族の妻をもつ彼は、なんとか家族だけでも救おうという気持ちから出発しますが、しかし、彼を頼りに集まってきた人々、そして親を殺されて孤児になった子供たちを見ているうちにポールの中で何かが変わり、たったひとりで虐殺者たちに立ち向かうことを決意します。行き場所のない人々をホテルにかくまい、ホテルマンとして培った話術と機転だけを頼りに、虐殺者たちを懐柔し、翻弄し、そして時には脅しながら、1200人もの命を守り抜いたという映画です。パスカルという哲学者は、人間の悲惨さと同時にその偉大さを指摘しましたが、まさにここには、人間の悲惨さと、人間の美しさ、神の子として造られた偉大な姿が同時に描かれています。是非、ご覧になることをお勧めします。
 では、このようなどうしようもない人間社会を、少しでも神のみ旨に従わせるにはどうすればよいのでしょうか。一つは、掟を定め、契約や法律によって人間を縛ることによってでしょう。本日の旧約聖書にある「十戒」は、その基本的なものです。前半の第1戒から第4戒までは唯一の神との関係を正すこと、後半は人間社会において互いに尊重し合い、愛し合うことを定めています。すべてが「〜ならば…せよ」という条件付きの命令ではなく、無条件の命令、「定言命法」で書かれており、人間社会の基本を成り立たせる掟であると言うことができます。しかし、このように外的な強制によって人間の行動と思いを律する方法には限界があるのではないでしょうか。時が経つにつれて、戒めは次第に事細かな律法になり、形式的な祭儀や宗教行為のみを重視する律法主義に陥っていくものです。そして、イエスさまが一番おきらいになったのは、この律法主義でした。今日の福音書は、有名な宮清めの場面ですが、ヨハネ福音書を取り上げています。イエスさまは神殿の境内であくどい商売をしていた商人たちを追い出され、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われたと記されています。マタイ福音書には、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言われたと書かれています。律法主義とは、このように規則によって人々を押さえつけると同時に、その規則を利用した特権者、甘い汁を吸う人々を生み出してしまいさえするのです。
 イエスさまが指し示されたのは、外面的な律法によってではなく、信仰によって私たちが罪から解き放たれる道でした。パウロが今日のローマの信徒への手紙7章で言う「律法」とは、神の律法、つまり内面の律法です。霊的な律法です。それは、ある意味では、パウロが言っているように、守るのがさらに難しい律法です。人間は、律法の要求と自分のうちにある罪との間で引き裂かれるのです。私たちはそんな板挟み状態からどうすれば抜け出すことができるのでしょうか。パウロは、信仰と恵みとによってのみ私たちはその状態から解き放たれる、ということをイエス・キリストの教えと生涯の中に見いだしたのです。ローマの信徒への手紙3章20節には、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と書かれていますが、これが罪の意識に苦しんだパウロの結論でした。「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:21−24)
 私たちは、律法やそれに類する規則に頼ることなく、ひたすらイエス・キリストを通じて示された神の愛を信じ、その恵みによって生かされることを信じることによってのみ、罪から解放されます。罪の意識からも解放されます。それが、「キリストにあって生きる」ということではないかと思うのです。大斎節から復活節へと向かうこの時期に、私たちは罪から解放され、イエスさまとともに新たな命を生きるということを求め続けたいと思います。